恐怖記憶を消去するニューロフィードバック技術を開発

従来の恐怖記憶の緩和治療に伴いがちなストレスを大きく低減できる、画期的な方法として期待されている。
|

人間の脳が恐怖体験を記憶しやすいのは、危ないものに二度と近づかないようにする防御反応として意味があるからだといわれる。しかし、それがトラウマ(心的外傷)となって日常生活に支障をきたすこともあるのでやっかいだ。

このほど、最新の情報学的技術を脳科学に応用して、恐怖記憶を消去する新しい技術が考案され、新創刊のNature Human Behaviour に報告された。

従来の恐怖記憶の緩和治療に伴いがちなストレスを大きく低減できる、画期的な方法として期待されている。

―― 恐怖記憶を消去する方法を開発されたそうですね。

小泉氏: 恐怖記憶を緩和する治療法として、従来よく用いられてきたのは、曝露(ばくろ)療法です。

例えば、交通事故後、自動車に恐怖を覚えて道を歩けなくなったような場合に、安全な環境下で恐怖の対象である自動車の写真を何度も見せることで、自動車自体は怖くないということを学習させるという治療法です。

これは非常に効果的ではあるのですが、そもそも怖いものを見るというストレスに耐えなければなりません。それができず、治療を断念するケースも多いといわれています。

そこで私たちは、治療の過程でストレスを感じることなく、恐怖記憶を消去する方法を開発しようと研究を進めたのです。

天野先生や米国のHakwan Lau准教授(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)たちと共同研究を行い、基礎研究段階の実験ですが、成功しました。

―― どのような方法なのでしょうか。

小泉氏: DecNef(Decoded Neurofeedback)法という方法を応用しました。被験者の脳の活動をfMRI(機能的磁気共鳴画像法)でリアルタイムに計測して画像化し、被験者にすぐにフィードバックするという方法です。

被験者はその画像を見ながら、自分の脳の活動が望ましいものに変化していくように、トレーニングするのです。fMRIは脳の血流量を測ることにより、脳のどの領域が活動しているのかを推測します。

この方法の重要な特徴の1つは、fMRIで得られた画像データを、人工知能技術で自動的に処理していることです。これにより、脳活動の変化を非常に微細なレベルで検出することができます。

Open Image Modal

脳の初期視覚野のfMRI画像データをもとに、脳活動パターンを計測する。

―― 人工知能技術とは、具体的にはどのようなものでしょうか。

小泉氏: コンピューターの機械学習アルゴリズムなのですが、 株式会社国際電気通信基礎技術研究所(ATR)脳情報通信総合研究所が中心になって開発してきた「スパースロジスティック回帰アルゴリズム」と呼ばれるものを利用しています。

川人氏: 大脳視覚野の神経細胞が作る構造体の大きさは、数百μm程度と微小です。一方、fMRIの分解能は、それよりずっと大きい3×3×3mmの単位(ボクセルと呼ぶ)です。

fMRIを生かしつつ、この分解能のギャップを埋めるためには、fMRIのボクセルひとつひとつを解析するのではなく、多数のボクセルにより作り出されるパターンを解析するのが有効と考えられます。

そのための機械学習アルゴリズムが、2005年に神谷之康(かみたにゆきやす)さん(現在、京都大学大学院情報学研究科教授、ATR脳情報通信総合研究所 脳情報研究所 神経情報学研究室長)によって考案され、その後も改良が行われています。

スパースロジスティック回帰アルゴリズムでは、まず、被験者が観察した画像と、そのときの脳のfMRI画像を対応させたデータを、多数収集しておきます。

そして、これらのデータをサンプルとしてこのアルゴリズムを備えたコンピューターに入力し、コンピューター自身に機械学習を行わせ、対応関係のルールを抽出させるのです。

天野氏: そして、fMRIで新たな脳活動を計測して、その画像データをこのコンピューターに入力すれば、コンピューターはそれがどんな脳活動であったかを推測してくれます。

こうして、画像データを解読(デコード)してくれるので、このアルゴリズムを備えたコンピューターのことを「デコーダー(解読器)」と呼んでいます。

―― そのようなデコーダーを使用して今回の研究が行われたのですね。実験の手順を詳しく教えていただけますか。

小泉氏: まず、健常な被験者に安全な方法で恐怖記憶を形成しなければなりません。そこで、被験者に赤色の図形を見せ、同時に、被験者の手に微弱な電流を流すということにしました。

これを繰り返すことで、被験者は赤い図形を見ただけでそれが電流刺激と関連していることを学習し、赤い図形に対して恐怖反応を示すようになります。恐怖反応の程度は、皮膚の発汗などで定量的に計測できます。

もちろん、恐怖記憶が形成される前に赤い図形を見たときの脳の活動を、いわば基準値として、調べておくことも必要です。このデータをデコーダーに学習させておくのです。

―― いよいよ次はトレーニングですか。

小泉氏: そうです。fMRI装置の中に入ったまま、被験者にいろいろなことを思い浮かべたり、考えたりするなどして、脳を働かせてもらいます。

そのときのさまざまな脳活動パターンが「赤い図形を見る」脳活動パターンにどのくらい近いかを、デコーダーはリアルタイムで計算し、その計算結果を得点(円の大きさで表示)にして被験者に見せます。

被験者には事前に、得点に応じた報酬(金銭)が受け取れることを伝えてありますが、「赤い図形を見る」脳活動パターンに近いほど高得点が出ることは知らされていません。

しかし、このトレーニングを繰り返すと、被験者は、知らず知らずのうちに、「赤い図形」の脳活動パターンと「高報酬」が条件付けされていくのです。

トレーニング終了後、被験者に実際に赤い図形を見せましたが、発汗などの恐怖反応を示さなくなりました。つまり、赤い図形と恐怖が結びつくという記憶を、消去することに成功したのです。

Open Image Modal

赤い図形。

緑と赤の図形を見たときに電流刺激と与え、恐怖条件付けをする。緑の図形は、対照に用いる。被験者に与える報酬の額は灰色の丸の大きさで示した。

―― 被験者は試行錯誤しながら、その脳活動パターンに近づいていくということですか。

天野氏: 得点(報酬)の表示を大きくしようと、一生懸命、試行錯誤してくれますね。実験後に被験者に聞くと、さまざまな答えが返ってきます。

数を数えてみたとか、テレビ番組の1シーンや旅行したときのことを思い出したとか。最初は手探り状態でいろいろ試し、偶然、得点が高くなったときに、それを繰り返していったようです。

赤い図形を意識的に思い出すことはなかったということでした。報酬に金銭を用いているのは、誰にでも等価な価値があり、かつ効果的だからです。

―― 恐怖の記憶が再現されることなく、消去されたのですね。

小泉氏: 厳密に言うと、私たちの方法では、赤い図形を見たというエピソードとしての記憶そのものが消去されるわけではありません。その特定の記憶が恐怖と結びつくこと(連合)を解除しているのです。

つまり、最初は、恐怖刺激と結びついていた脳活動パターンが、初期視覚野に表れるたびに報酬と結びつけられた結果、ついには恐怖から切り離されたというわけです。この連合は、無意識下で起こっていると考えられます。

従来の恐怖記憶の緩和法においては、これとは違うメカニズムが働いていることが知られています。

その方法では、前頭前野内側部という脳領域を活発化することにより、恐怖記憶が抑制されると考えられているのですが、この抑制は一時的なものであり、恐怖記憶がよみがえりやすいとも言われています。

一方、今回の私たちの方法では、前頭前野内側部は活性化されず、記憶と恐怖との連合が記憶と報酬との連合に変化します。こうした特性は、将来、この方法を臨床応用するときに、メリットになると考えています。

―― 今回用いられたDecNef法は、どんなことに応用できるのですか。

川人氏: fMRIで計測したデータをデコーダーで解析し、それを被験者にフィードバックしてトレーニングしてもらうというDecNef法は、神谷さんたちの技術をもとに、柴田和久(しばたかずひさ)さん(ATR脳情報通信総合研究所 脳情報研究所 行動変容研究室連携研究員、名古屋大学大学院環境学研究科准教授)が2011年に考案したものです。

DecNef法を、さらにひとひねりして連合記憶を対象にできたのは、天野さんたちの成果です。小泉さんの研究は、これを恐怖反応に応用したものです。

DecNef法は脳活動を操作できる技術で、現在は視覚野の脳活動が主体ですが、図形の識別能力、色の見え方、顔の好みなど、さまざまな応用が可能であり、私たちの研究所でもすでに多くの論文を発表しています。

―― 脳活動を操作できると聞くと、悪用されるのではと思いがちですが......。

小泉氏: まず、 fMRI装置が必要ですし、実験者の経験も必要になります。そう簡単には悪用できないと思います。

川人氏: ただし、油断してはいけないですね。技術の進歩は驚くほど速いですから。

最近の研究ですが、fMRIで5〜10分間の安静時脳活動記録を取ると、そこから、その人の記憶力や健康状態がわかるだけでなく、個人認証(1000人の集団での)まで可能という報告がありました。

ここ10年の進歩をみると、今後の10年間で何が起きても不思議はないと思います。

―― この10年間のシステム神経科学の進歩は大きかったのですね。

川人氏: 脳の解明をめざすいろいろな研究プロジェクトが米国を中心に進行しました。

特に、ヒトの全脳の領野間の結合が機能と解剖学の両方から調べられ、Human Connectome Data Setという1000人規模のデータベースが得られたことが大きかったです。

これに呼応して、さまざまな計算論的神経科学者が解析に当たり、機械学習アルゴリズムをはじめ、人工知能技術を応用する研究が飛躍的に進歩したのです。

―― Nature Human Behaviour への投稿はどのようなきっかけで?

川人氏: ヒトの行動学に関する新しいジャーナルが創刊されるというニュースを、昨年聞きました。

インパクトファクター的な位置付けとして、Nature に次ぐレベルのジャーナルをめざしているということでしたので、是非、狙ってみようと思って投稿を決めたのです。

小泉氏: 私としては、投稿は当たって砕けろという感じでしたが、スムーズに掲載が決まり、本当にうれしいです。

―― 今後はどのようにこの研究を発展させていくのですか。

小泉氏: 今回の方法を臨床に応用することをめざしています。そのためには、まず技術的に工夫が必要な点がいくつかありますので、それを改良していきたいと思っています。

すでに、PTSDの専門医との共同研究もスタートさせました。

また、先ほど、悪用される可能性は低いと言いましたが、誤った使われ方を回避するために、倫理・安全面で専門家のアドバイスを受けつつ慎重に研究を進めたいと考えています。

天野氏: DecNef法では、fMRIで脳の血流の変化を観察しているわけですが、この方法によって本当に神経細胞のレベルでの脳活動が変化したのか、単に血流が変化しただけではないのか、という疑問を持つ方がいるかもしれません。

ですから、脳で実際に何が起こっているのかを神経細胞レベルも解明していきたいと考えています。

川人氏: 分子レベルや生理学的な視点からも検証を行っていけば、私たちの方法をより確かなものにすることができるでしょう。

同時に応用面では、さまざまな精神疾患や発達障害、自閉症、うつ病、強迫性障害、さらには統合失調症などへの適用についても積極的に探っていくつもりです。

―― ありがとうございました。

インタビューを終えて

3人への取材は、川人先生の所長室で行われました。川人先生の人柄について質問すると、「とにかく元気。いつも楽しそう」と異口同音に小泉先生、天野先生。

そういえば、所長室の壁に1枚のTシャツ。「祝50歳!」の言葉とともに、Natureの表紙のような模様があります。

「以前、誕生日に研究室のメンバーが贈ってくれました。当時Natureに出た私の論文と名前が、その表紙を飾ったようにコラージュしてプリントしてくれて。もちろんジョークなんですが」。

プリントの周囲には、カラフルな色で書かれたスタッフの皆さんのサインも並んでいます。川人先生が慕われているようすを物語るようなTシャツでした。

Nature Human Behaviour 掲載論文

Open Image Modal

Letter: 恐怖対象への意識的な暴露を伴わない脳活動の強化学習による恐怖反応緩和

Fear reduction without fear through reinforcement of neural activity that bypasses conscious exposure

Nature Human Behaviour 1 : 0006 doi:10.1038/s41562-016-0006 | Published online 21 November 2016

Author Profile