僕らと中国との関係は もう誰にも壊せない。--GYPSY QUEEN

アジア各国での公演実績を誇り、自ら「アジアのバンド」を標榜する"GYPSY QUEEN"をご紹介します。この「アジアのバンド」というキャッチコピーを見た時、私は不思議な感覚にとらわれました。「日本のバンドではない?」と。しかし彼らは笑ってこう言います。
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主に中華圏で迎えた旧正月も、そろそろ終わりを迎える頃かもしれません。でもまだまだ続きます、My Eyes Tokyo旧正月特集!日中友好にその身を賭す顧しょうたさん、日本で活躍するベトナム人歌手、ハイチュウさんをこれまでご紹介してきました。

そして今回は、アジア各国での公演実績を誇り、自ら「アジアのバンド」を標榜する"GYPSY QUEEN"をご紹介します。この「アジアのバンド」というキャッチコピーを見た時、私は不思議な感覚にとらわれました。「日本のバンドではない?」と。しかし彼らは笑ってこう言います。

「日本もアジアの一部でしょう?」

確かに!でもそれだけが理由ではありません。彼らの活動範囲は海を越えてアジア全域 - 中国、ラオス、ベトナム、タイ、シンガポール、カンボジア、モンゴル、ブルネイ、マレーシア、日本の10カ国で公演を続けてきました(GYPSY QUEENの各国での公演実績についてはこちらをご覧下さい)。

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あらゆる国々での公演経験を誇るGYPSY QUEENが、限られたインタビュー時間の中で選んだ国は中国でした。彼らは「中国での経験こそが私たちの礎であり、中国の人たちに支えられて私たちは強く逞しくなった」と語ります。 今では「歌う外交官」のように日本と他のアジア各国を音楽でつないでいるGYPSY QUEENの、初めての海外ツアーでの奮闘記。異文化に放り込まれてもがいている方々にお届けしたいと思います!

Interview with

Aki(左:リーダー/Bass)しのん(右:Vocal)

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*GYPSY QUEENとMy Eyes Tokyoの出会いについてはこちらをご覧下さい。

*写真提供:GYPSY QUEEN

■ "地獄"に誘う歌声

しのん: Gypsy Queenは公式では1997年結成ですが、元々はAkiさんが学生時代に組んでいたバンドでした。私は3代目のボーカルです。

Aki: 初代ボーカルは80年代に『モノクローム・ビーナス』などのヒットを飛ばした池田聡君でした。結成当時はラテンロックやブラックミュージックのカバーが中心の、よくある音楽サークルのバンドに過ぎませんでした。音楽的な目標は特に無く、ライブハウスの他にも海や山などで友人たちとバーベキューを楽しみながら演奏していました。

そのうちに、真剣に音楽や自分たちの方向性について考え始め「きちんとした作品を作っていきたい」と思い始めました。それが97年です。それまではメンバーは流動的に変化していましたが、その頃を境に今に続く固定メンバーになりました。

しのん: それから少し後の1999年、私の歌声のことを「中国語に合うんじゃない?」と言ってくれた人が現れました。それに気を良くした私は、見よう見まねで中国語の歌を歌い始めました。

Aki: そしたら当時まだ開局間もないインターFMの中国語番組にゲスト出演させていただけることになったんです。広告代理店に勤める私の友人から持ちかけられた話だったので出演したのですが、放送はもちろん、僕たちへのインタビューも中国語でした。

しのん: それに向けて、私は必死に中国語を勉強したのですが、すぐに上手になるわけではありません。その番組のパーソナリティの馬驊(マー・ホアー)さんという方は、私が中国語で答えたことを、もう一度言い直してリスナーに伝えていました(笑)

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そんな私たちのことを面白いと思って下さった方がいらして、その方が「来年(2001年)中国のイベントに出ませんか?」とお誘いしてくれました。

Aki: 僕個人も、しのんを通じて中国関連の旅行代理店の方と知り合ったのがきっかけで、中国に関心を抱くようになりました。その方が中国のあらゆる方面の人とネットワークがあり、東京に拠点を置く「中国文化芸術センター」の代表の程波さんという方に私たちをご紹介いただきました。

しのん: 「中国のイベントに出ませんか?」と私たちにおっしゃったのは、実は程波さんだったんです。程波さんは少し昔に放送されたNHKドラマシリーズ『大地の子』にも出演した俳優さんで、ご自身で歌も歌われます。程先生には中国語を教わっただけでなく、中国語の歌の指導までして下さいました。スパルタでしたよ(笑)

Aki: そのような経緯もあって中国行きのお誘いに乗ったのですが、そこで僕たちは"地獄"を見ることになったんです。

■ このバスはどこに向かってる?

しのん: 私たちが参加することになったのは、2001年に行われた「相約北京(北京で会いましょう)」という芸術祭典でした。世界中から音楽家や舞踊団などが集まる大規模イベントで、毎年開催しています。

最初私たちは、このイベントだけに出演すると知らされていました。ところが打ち合わせが進むにつれて、もうひとつ別の「欧亜風情演唱会」というイベントにも出ることになったんです。合計3週間7都市 - 当時私は会社に勤めていましたので、そこまで長期のお休みが取れるか不安でした。でも上司に中国政府からの招待状を見せたらOKでした(笑)

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Aki: ただもっと僕らを悩ませたのは、公演開始の間際までスケジュールが決まらないことでした。いつ、どこに行ってどこのホテルに泊まるのかを知りたかったんですが、主催者側はなかなか教えてくれませんでした。代わりに彼らが言うのは「大丈夫」の一言だけ。何とか彼らから連絡先をもらうのですが、実際には存在しない電話番号でした。結局、初日に泊まるホテルについては前日まで分かりませんでした。だから万が一のために別のホテルを取っておいたんです。

しのん: え、そうだったんですか?

Aki: そう。それで成田に着いた時にようやく宿泊先が分かったから、別に予約したホテルはキャンセルしたんだよ。

しのん: 知らなかった・・・

Aki: ただ、全部をキャンセルしてしまうとまずいと思って、予約した部屋数の半分だけキャンセルしました。でも主催者側からすれば「大丈夫だと言ったのに、何故あなたたちは別のホテルを予約したんだ?」ということだったんですね。

しのん: 私の両親は、男性に交じって女性が一人だけ中国に行くものですから心配して、私たちの3週間の宿泊先を知りたがっていました。それで何とか親にFAXで宿泊先が送られたのですが、帰国してからそのFAXを見せてもらったら、どれひとつとして合っていなかった(笑)

Aki: 彼らにしてみたら、アーティスト側が何故自分たちの宿泊先まで知りたいのかが分からなかったのでしょう。例えばバスで移動する時に僕が主催者側に「何時間後に着くんですか?」と聞いたら「何でそんなことを知りたがる?ちゃんと運転手がいるんだから、バスは着くよ」と言われ、そこで僕がまた「いや、だから"何時に"着くかが知りたいんです!」と言い、相手は「だから何故それを教えなくちゃいけないんだ?」と再び反論・・・

つまり彼らの考えとしては、そのようなことはアーティストは知る必要がない情報なんです。アーティストは演奏するのが仕事だから、私たちの言う通りに移動して、言う通りのものを食べていればいいんだという考えでしょうね。でも自分たちの宿泊先が分からなかった時は「みんなにどう説明しようか・・・もしかしたらこの話自体騙されているのでは?」と悩んでいるうちに、僕の全身にじんましんが出てしまいました。コンサートの開催場所さえも知らされていませんでしたから。

■ 電源もマイクもない

Aki: 「相約北京」は世界中からアーティストが集まるイベントだったので、僕たちはアメリカ人やドイツ人、オーストラリア人の3組のアーティストたちと行動を共にしました。最初に僕らが演奏した会場は、天安門の近くにある西単という場所にあり、そこには何千人もの人たちが集まっていました。演奏者は広場の高台に上がるので、そこから見た人波は圧巻で、しかもそのほとんどが日本人ではなく中国人であることに感動を覚えました。

しかし、そこには肝心なものがありませんでした。電源です。だからどんどん開始が遅れるわけです。

しのん: 一緒に行動を共にしたアーティストも「電源(ディエンユエン)」という言葉をすぐに覚えたくらいです(笑)

Aki: お客さんは開始を待っているし、それでようやく電源が来た!と思ったら、今度はボーカルマイクが無い。リハの時は「本番になったら誰かが持ってくるだろう」と思っていたのですが、本番になっても無いまま。それで僕は主催者に言ったんです。「マイクが無いと歌えないじゃないか!」と。そしたら相手は「それなら"マイクが必要"となぜさっき言わなかった?」と返してきました。普通に考えたら、バンドにボーカルがいるのに、マイクが必要ないわけないでしょう?

しのん: これが日本だと、スタッフさんが私の口の位置にマイクの高さを合わせてくれるくらいですよね。

Aki: 慣れない土地で、知らない人たちに囲まれて、おまけに機材がそろわないものですから、精神的に追い込まれていました。結局は「マイク欲しい!」と言えばすぐ持ってきてくれて、僕らのオリジナルの中国語の曲『翼を広げて』を1曲目にぶつけました。

終わってみてそれなりに達成感はありました。ですが、あまりの段取りの悪さにすっかり辟易していました。「こんな国にエンターテインメントなんて存在し得るのか?」とまで思いました。そんな思いをひきずりながら送迎用のバスに乗りました。そしてホテルに戻るのかと思いきや、何と北京市内の別の会場に行くことになったのです。

■ 火事寸前のライブ

Aki: そこは首都図書館という、巨大な場所でした。図書館内にある豪華な劇場が控え室になっており、そこで夕ご飯のお弁当を食べました(笑)本番は図書館前にある特設ステージで行われました。その頃には僕らも開き直っていて、同じくイベントの出演者であるポリネシアンダンサーたちと開演前に遊んだりしていました。

そしてその日2回目の公演では、2曲目で電源が落ちました。僕らの公演では何回も電源が落ちる経験をしていますが、初めての電源落ちでした。

しのん: 日本ではまずありません。日本ほど安定して電源を確保できる国は無いですね。

Aki: ただ僕がアマチュア時代に海や山で演奏していた時は、よく電源が落ちました。演奏中に電源が落ちたらまず考えるのが"ドラムソロで場つなぎをする"ことです。その間に電源を復旧させ、演奏に戻る。だからその時もドラムに「叩き続けろ!」と言いました。でも2〜3分経ってもなかなか復旧しない。それどころかスタッフに全然慌てた感じが見受けられず、そのうちに「ドラムソロを止めろ!」とスタッフに言われました。もう気持ち的には「ガクッ」ですよ。最悪でした。

でも気を取り直して次の曲に行こうとしたら、何と照明が燃え出したんです。煙じゃなく、火が出たんです。

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もう演奏に集中できないから出来はボロボロだし、観客はロックに慣れていないからみんな耳を塞いでいました。拍手は取りあえずしてくれるんですけど、僕らの演奏中は誰一人として笑っていなかったですね。

しのん: 一般人がロックを聞きに行ける場所がまだ無かったんです。中国では、ロックはまだまだアンダーグラウンドでしたから。

Aki: しのんが中国語でMCをしても通じていないようだったし、中国語の歌詞も覚えきれていませんでした。テンションは落ちっぱなしで、北京に応援に来てくれた日本人の仲間たちと小さなコミュニティを作り、そこに逃げ込んでは文句ばかり言っていました。

■ 少しだけ、光

Aki: ガックリと落ち込んだその日の夜、北京市内の三里屯という繁華街にある「パワーハウス」というライブハウスでもう一度演奏しました。元々はそこで、北京の案内役をして下さった日本人の方たちとご飯を食べるだけの予定でしたが、どうせライブハウスにいるならライブをやりたいと思いました。

そこはライブハウスだけに、電源もマイクもアンプもミキサーもモニターも全部揃っていました。観客は飲んでいた若者が中心でしたが、いざ演奏を始めたら、すごくノってくれたんです。それでようやく気持ちが落ち着きました。

その翌日は別イベントである「欧亜風情演唱会」の会場のひとつ"保利劇院"での公演でした。そこは劇団四季が中国公演で使っている由緒ある劇場で、公開放送のような形でライブをさせていただきました。

しのん: その公演のパンフレットに「しのんが歌うと子どもたちは泣き叫び、万馬が走り出す」と書かれてあったんです(笑)いわゆる推薦文だったわけですが、それを書いて下さったのが、日本で私に中国語を叩き込んで下さった程波先生だったのです。

Aki: そこはもちろん全ての機材が揃っていて、音響も照明もちゃんとしていました。だから僕らが中国語の歌を演奏し始めた99年頃から立てていた「中国でスポットを浴びながらステージに立つ」という目標を、ようやく達成することができました。

しのん: 私も歌っていて気持ちが良くて「ようやく"中国で歌う"という目標を達成したな」と思いました。だけども応援に来てくれていた日本人の方々が一緒なのは、北京まででした。だからさびしかったですね。その上、それまで100人規模のライブハウスでしか歌っていなかったのが、いきなり何千人規模の会場での演奏になるから、不安も大きかったです。だから友人たちと別れる時は、まるで売られていく少女のように号泣しました。「私も一緒に日本に帰りたい」と思いました。

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■ 僕らも彼らも同じなんだ

Aki: 北京以降の「欧亜風情演唱会」のツアーでは、アメリカ、ドイツ、オーストラリアからのアーティストと中国共産党の文化部の人、そしてチューヤンという英語通訳の中国人の女の子と行動を共にしました。

しのん: 急に日本語が全く通じない環境に放り込まれたんです。だから私は相変わらず泣いていました(笑)

Aki: 僕らは彼らと、飛行機で雲南省の省都・昆明に飛びました。現地に着くと、省の文化部の女性の方がカッコ良く英語を話していた。その瞬間「僕らは言葉が話せないんだ・・・」ということを痛感させられたんです。北京では日本人のガイドさんや友人・知人に守られていましたが、その先は僕らを守ってくれる人はいませんでした。

しのん: 私は今でこそ英語をそこそこ話せますが、当時はそれほど話せませんでした。大学では英文学を専攻していたのですが、いわゆる「学校英語」でしたから。

Aki: 身内以外とはコミュニケーションを取れないから、落ち込みました・・・と思うでしょう?でも、そうでも無かったんです。誰も間に入ってくれる日本人がいない分、開き直って何でも自分からズバズバ聞くようになりました。

しのん: 通訳の女の子に「朝ご飯は何時?」みたいに。

Aki: それに、マイクが必要な時に無い場合は「マイク無いよ!」みたいに怒鳴るとか、マイクが無いなら演奏しない、という態度を敢えて取ることにしました。「何で演奏しないんだ?」と聞かれたら「マイクが無いからだ」と強気の態度に出るようになりました。あと、僕ら以外誰も日本語が分からないから「ふざけんなよ!」みたいなことを日本語で言ってみたり(笑)

やはり、そのような環境に置かれることは大事だと思います。人間は弱いから、すがれる存在が近くにいるとどうしてもすがってしまうものです。だから、すがれない環境にいる方が成長すると思います。

それに中国では、誰もがズバズバ意見を言います。例えば地元の文化部の若い新人さんが僕らに「お前たちは全然アピールが足りない」と言ったりしました。僕らの専属のバスの運転手さんにも演出指導されました(笑)「バラードの曲でベースを振り回してみろ」とか(笑)ちょっと抵抗がありましたが、でもその通りにやるとお客さんにウケたんです。

しのん: あとはメンバー紹介を中国語でやるとか、ですね。

Aki: そうやってお客さんにウケるようになって、僕らも気分が良くなりました。しかも「ここでは自己主張していいんだ!」と分かったのが大きかったです。自己主張は得意ですから。そう思えるようになってから、風向きが変わってきたんです。食べ物もすごくおいしく感じられるようになりました(笑)

それに、中国の少数民族である「白族」のガイドさんとも片言の中国語でコミュニケーションを取るようにしたら、かなり仲良くなれたんです。しかも、同じ言葉で会話をするようになったら、彼らのことがだんだん好きになってきたんです。「何だ、彼らも僕らと同じだ」って。こちらが心を閉ざしていたら向こうも心を閉ざすし、こちらが心を開けば向こうも心を開くんだということが分かったんです。逆に言えば、北京の一番最初の公演で、僕らの音楽に観客が耳を塞いでいたのは、僕らが心を閉ざしていたからとも言えるかもしれませんね。

しのん: それから、次第にアメリカ人やドイツ人などのツアーメンバーとも仲良くなりました。通訳の女の子ともだんだん仲良くなって、ツアーバスでは私たちの隣に座ったり、私と手をつないで歩いてくれるようになりました。

Aki: 移動中にツアーガイドにも日本語を教え、代わりに中国語を教えてもらったので、中国語能力が飛躍的に上昇しました。

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■ 快適な中国ライフ

Aki: そして3都市目の南京に入りました。ここの会場は体育館で、8000人もの観客が来ていました。恐らくこのツアーで一番お客さんが入ったのが南京だったと思います。

しのん: 「卵を投げられるよ」とか、ツアーメンバーが私たちを脅かしたんですよ。

Aki: でも実際は、僕らのパフォーマンスが南京でめちゃくちゃウケたんです。これは日本人として大きな意味があると思いました。

しのん: 私たちのライブの途中で特殊効果の花火が上がって、思わず私は中国語で「吓死我了!(死ぬほどビックリした!)」って言ったんです。それも大いにウケましたね。それは通訳の女の子が私と手をつないで歩いている時に、車が走っている道路に私が飛び出しそうになった時に彼女が発した言葉でした。それがステージ上で私の口を突いて出て、お客さんにドカンとウケたんです。実は他のメンバーが活気づいた昆明までは私はまだふさぎ込んでいたのですが、これをきっかけに私も元気になりました。馬が走ったんです!(笑)

Aki: あと、メンバー紹介も大げさなくらいやりました。それもウケましたね。恐らく日本人が中国語をおおげさにしゃべっているのが面白かったのでしょう。

それで南京での公演が終わってツアーメンバーで市内のデパートに行くと、日本人アーティストが買い物をしている風景を撮影しに地元のテレビ局のクルーが来ました。

しのん: デパートの館内放送で流れたんです。「欧亜風情演唱会の出演者が、今このデパートで買い物をしています」って。そしたらお客さんたちが珍しそうに私たちを見ていきました(笑)

Aki: そうなると僕らも気分は最高で、さらに強気に出るようになりました(笑)待たされることが分かっているから、呼ばれてもすぐに行かずに、3回くらい呼びに来られてからようやく行くとか。控え室に置いてある食べ物を遠慮なく食べるようにもなりました(笑)おかげですごく快適な生活を送れるようになりました。

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■ Face to Faceの関係が壁を崩す

Aki: その後南京から蘇州に行く予定でしたが、蘇州でのイベントが中止になり、大連に飛びました。予定より早めに大連入りしたので、オフが2日間ありました。初めてのオフを満喫した後、大連3日目に中山広場で公演しました。これも盛り上がりました。

しのん: 歌い終わった後、客席から日本語で「ありがとうー!」と言ってくれた人がいました。かつての満州だった地域だったから、私たちも内心は戦々恐々だったんです。

Aki: でも結果的にはお客さんの反応も素晴らしかった。それは中国語で全て通したからかもしれません。まだまだ下手でしたが、とにかく中国語でお客さんとコミュニケーションを取ろうとしていたことだけは確かです。

大連での公演を終えて、天津に向かいました。それがイベントの最後の公演地でした。そこでも盛り上がりました。そしてライブを終えた僕らに、司会の人がニコニコしながら僕らに話しかけてくれたので、僕らはてっきり褒めてくれていたものだと思っていました。 そこで、通訳の女の子に聞いてみたんです。でも彼女は訳してくれませんでした。だから僕は「もしかしたら"まだ実力不足だね"とか言われちゃったのかな?」などと思っていました。でも気になるので、打ち上げの時に彼女にもう一度聞いてみたら、その司会の人は「私のおじいさんは日本軍に殺された」と言っていたとのことでした。

しのん: 思えば彼は、軍隊の行進のようなジェスチャーをしていました。日本軍のマネをしていたんですね。

Aki: でも通訳の女の子が敢えてその部分を訳さなかったことや、僕たちが「何て言っていたの?」と聞いても言い辛そうにしていたのは、それだけ僕らと彼女の関係が特別なものになったということなのかもしれません。

しのん: 私たちが帰国した後に、彼女がメールをくれたんです。「あなたたちに会うまでは日本人が嫌いでした。でもあなたたちに会って、日本が好きになりました」って書いてありました。

彼女がツアーに帯同して最初の頃は、彼女は英語を勉強していただけあって、私たち以外のグループと仲良くしていて、私たちの方にはあまり近寄ってきませんでした。だけど南京では私と手をつないで歩くようになったし、ついには日本を好きになってくれたんです。 彼女たちは反日教育を受けていますから、日本人に会ったことが無いのに日本人が嫌いなんです。だけど3週間、私たちと一緒に旅したら、彼女は日本を好きになった。そういうFace to Faceの関係の大事さをこの時に感じて、それ以来私たちは約10年、同じ思いを持ってアジア各国で公演させていただいています。

もしこの経験が無かったら、私は歌うことをとっくの昔に止めていたかもしれない。それくらい、いろんなことを学ばせていただいたツアーでした。そして何よりも、この経験があるから、その後も歌う場を用意していただいているわけです。歌手としてこれ以上の幸せはないですね。

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■「お前たちのことが好きだからここに来たんだ!」

Aki: 「欧亜風情演唱会」で通訳を務めてくれた女の子は、僕らと交流することで彼女自身の日本人観が変わりました。ということは、僕らのやっていることは一種の国際交流なのかもしれません。そう思うと、まだまだ深いレベルの交流にまで至っていないにも関わらず「俺たちが日中関係を変える!」という気持ちになってきます。

もちろん「相約北京」や「欧亜風情演唱会」以降も平坦な道のりではありませんでした。公演中止もあったし、トラブルもありました。でも初の中国公演での経験が教えてくれたのは、とにかく相手と会って話すこと、そしてこちらから相手を好きになることでした。これらを続けて今に至っています。

2005年、反日に湧く街でライブをしたこともありました。でもその時に中国人の若い金髪のロック少年に言われたのは「大丈夫だ。俺たちが守ってやる」でした。

しのん: 「政治と音楽は別だから」って。それにタクシーの運転手さんも「もし君たちをいじめるような人がいたら、オジさんがいじめ返してあげるよ」って言ってくれました。

Aki: 他のコンサートがつぶれても、僕らのコンサートだけは場所を替えてでも実現できるよう取り計らってくれたこともありました。それはやはり、中国語で、Face to Faceで彼らと話をしているからだと思います。そうすることで、彼らにとって僕らが身近な存在になったんです。

中国での公演では、地元のお役人たちとの付き合いも非常に大事になってきます。でも彼らも同じ人間で、お酒も飲めば笑いもするし、泣きもする。たとえお役人でも、実際は気の良いオジさんだったりするんです。そういう人たちと汚い飲み屋さんで一緒に飲んだり、地元の大学生とめちゃくちゃローカルなお店に行って一緒に飲んだりする。そうすれば、「日本人の秩序の良さを学ばなければいけない」などとどんどん言ってくる彼らの姿を見ることができる。そんな彼らの顔は、反日デモに参加している人の顔と全く同じですよ。

しのん: 連日ニュースで流される報道を見て中国を嫌いになるのは、特に中国人の友達がいない人なら仕方の無いことだと思います。向こうから「お前のことが嫌いだ!」と言われているのに「それでもあなたが好きです」と言う人はなかなかいませんよね。

でも実際に友達が現地にいると、嫌いになることはできません。あのような報道を見るのは辛いけど、でもそうじゃない中国人もいることを、私は知っています。

Aki: いろいろな人が僕らに対して「それでも中国に行くの?」と聞いてきます。でも、もう僕らと中国の関係は誰にも壊せないんです。現地にたくさんの友達がいて、僕らのことを待っていてくれる中国人が何万人、何十万人といるんです。少なくとも僕らのライブを過去に見てくれた人は「アイツらは良いヤツだ」ということを知っていてくれているはずですから。

だからもし、中国のどこかでライブをする時に観客が僕らに大ブーイングをしてきたら、僕は言います。「うるせぇ!俺はお前らが好きだからここに来たんだ!」と。そうすれば、それに反応してくれる中国人は必ずいるはずです。

僕らはただ、待ってくれている人たちに会いに行く。それだけです。

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■ 中国から日本に愛を

Aki: 「迷ったら進む」が僕らの哲学です。例えば昨年の東日本大震災の1週間後に僕らは中国の貴州省でコンサートをしました。しかもそれは、おととしの反日デモで延期になったものでした。主催者からのお誘いに対し、時期が時期だけに本当に悩みました。

でも現地に行って大正解でした。お客さんは震災の犠牲者に黙祷を捧げてくれたし、千羽鶴まで下さいました。その千羽鶴を皆さんにもご覧いただこうと思って開催したのが、昨年5月に代々木公園で行った「Pray For Japan」でした。そのイベントが、被災地に1万7000食の温かい餃子を届けたり、歌を届ける支援活動につながりました。これらの根本のきっかけは、僕らが貴州に行ったこと以外に考えられません。

しのん: 私自身、中国行きについてはすごく悩みました。というのも、私の母の実家が福島だからです。私の親戚が経営する旅館が津波で流され、親戚とも一時連絡が取れなくなりました。そんな時に私だけ中国に歌いに行って良いのか、本当に悩みました。

それを母に言いました。そしたら母は「今は、あなたに出来ることをやっていらっしゃい」と言ってくれました。

そして貴州のライブ会場で、お客さんに言ったんです。「私の母の実家は福島で、親戚も被災しているんです」と。そしていつもなら四川大地震で亡くなられた人たちに捧げる意味で歌う歌を、今日は東日本大震災の被災者のために、一緒に歌ってくれますか?とお客さんにお願いしたら、全員が立ち上がったんです。そして一緒に歌ってくれました。

Aki: その時は、もう全身に鳥肌が立ちました。

しのん: 私は歌えませんでした。泣いてしまって・・・

Aki: そうやって皆さんが歌ってくれた。千羽鶴を折り、「日本がんばれ」のメッセージを皆さんからいただいた。それは、その1年前に反日デモで公演がキャンセルになった場所で起きたことなんです。これらは全て、前に進んだからこそ知ることができたことだったと思っています。

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*こちらの映像も合わせてご覧ください(貴州電視台ニュース)

GYPSY QUEENとして、これから目指すものは何ですか?

Aki: これまで僕らが中国とやってきたことは、まだまだ点と点のつながりに過ぎないと思っています。だからそのつながりを増やし、面にしていきたい。そのためには、もっともっと精力的に動かなければいけないと思っています。

具体的に言えば、僕らの後に続いてくれる人を増やしたいのです。中国との文化の違いを把握し、Face to Faceの交流に喜んで取り組んでくれる人たちなら、きっと僕らの後に続いてくれるだろうと思います。そういう人たちが同時多発的に中国で活動すれば、もっともっと日中関係は変わると思います。

僕らのやっていることは、政治ではありません。逆に言えば、政治家にできないことをなぜ僕らができているのかと言えば、直接コンタクトを取れる仲間、お金を抜きにして付き合える仲間が現地にたくさんいるからです。僕らが欲しいのは実績ではなく、そういう仲間との共感。だからこれからも、そのような関係をたくさん作っていきたいですね。

【GYPSY QUEEN関連リンク】

オフィシャルサイト:http://www.gypsy-queen.com/

*GYPSY QUEENボーカル・しのん on My Eyes Tokyo Radio!:こちらをクリックしてListen!

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