コンテンツ消費の本質は背景の肩書きやストーリー消費なのか否か

佐村河内守氏の騒動を聞いて、上記のイル・ポスティーノの感動体験を思い出していました。佐村河内守氏(新垣隆氏が実際には作曲)のCDは最近のクラシックの世界では相当に大ヒットしていたそうで、しかし新潮45で作曲家の野口剛夫氏が指摘したように、音楽の質として「大したことない」とも一部で言われています。しかし、事実多くの人が感動しています。
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■ 僕はあの映画の何に感動したのか

1994年のイタリア映画で「イル・ポスティーノ」という作品があります。イタリア語の作品ながら、米国アカデミー賞の作品賞にノミネートされ(通常英語以外の作品は外国語映画賞のカテゴリになる)、高い評価を受けた作品です。イタリアの小さな島に住む郵便配達人マリオは、チリから亡命してきた詩人パブロ・ネルーダの元に世界中から届くファンからの手紙を届けるうちに、詩人との交流を経て詩や文学の素晴らしさに目覚めていく、という物語。イタリアのプローチダ島で撮影された本作は世界中で高い評価を受け、日本でもミニシアターでロングランヒットを記録しました。

多くの映画スターや有名監督も惜しみない賛辞を送ったこの作品は、必ずといっていいほど、主演俳優の逸話とともに紹介されます。主演のマリオ役を演じたのはマッシモ・トロイージ。イタリアでテレビや映画、舞台など多方面げで活躍した俳優ですが、彼は心臓が弱く41歳の若さでこの世を去りました。そしてイル・ポスティーノは彼の遺作であり、彼は撮影期間中も命を削りながらの状態で1日2時間のみの撮影参加という制約のなかで、クランクアップの12時間後に息を引き取ったと言います。

故人でありながらアカデミー主演男優賞にもノミネートされ、映画とともにマッシモ・トロイージのパフォーマンスも高く評価されました。

当時高校生だった僕は、この映画を見て非常に感動しました。もちろん主演俳優のエピソードも知った上で鑑賞していました。しかし、ずっとこの感動は作品そのものの質の高さからくるのか、それとも主演俳優の物語からくるのかモヤモヤとしていました。おそら作品そのものの魅力も大変高いのですが、マッシモ・トロイージのエピソードがさらにその感動にブーストをかけていたのでしょうか。当時激賞されたこの映画、それは何を評価されたのでしょう。

もし、この主演俳優の命をかけた作品、という物語を欠いたらこの映画の評価はどうなっていたのでしょう。作品本来の魅力で同等の評価を勝ち得たのでしょうか。

■ 純粋なコンテンツ評価は不可能なのか

佐村河内守氏の騒動を聞いて、上記のイル・ポスティーノの感動体験を思い出していました。佐村河内守氏(新垣隆氏が実際には作曲)のCDは最近のクラシックの世界では相当に大ヒットしていたそうで、しかし新潮45で作曲家の野口剛夫氏が指摘したように、音楽の質として「大したことない」とも一部で言われています。しかし、事実多くの人が感動しています。

そして今回の事実が明るみにでようとも、作品そのものは何も変わりません。しかし、おそらくほとんどの人にとって佐村河内守氏の名義で今まで出されたコンテンツの消費体験は今までとは全く違うものになるのでしょう。ここでは作品そのものの質よりも背景の物語の方が、そのコンテンツ消費の良し悪しを決定づけている可能性があります。

コンテンツにはコンテンツそのものの魅力があってそれが最も重要なのだ、とはやはりクリエイターもファンもそう思いたいところです。しかし、どんなコンテンツであれ純粋に作品「だけ」を享受するのは実は非常に難しい。そのコンテンツの成立、提供される背景には必ず「物語」があります。それを宣伝材料に使うこともあれば、ファンが自ら探求して作品内の描写に意味を付与したりもします。多かれ少なかれそうした物語消費の欲望から人は逃れることが難しい。

その難しさを今回の事件と絡めて森下唯さんも語っておられます。そして音楽鑑賞に正しい物語が寄与する効果についても。

見たまえ、ここに「物語」によって音楽への好悪を左右される情けない人間の姿がある。しかも漠然と思い描いただけの、自分の脳内で生み出した勝手な物語によって認識を歪められているのだから世話がない。私だけがこんな情けないのか? ......いや、そうでもない......ですよね?

<中略>

佐村河内氏の誇大妄想的なアイディアを新垣氏が形にするという、この特異な状況下でしか生まれ得なかったあれら一連の楽曲とその魅力を、「全聾の作曲家が轟音の中で」云々よりよほど真実に近いだろうこの(小説より奇なる)物語とともに味わい、よりよく理解し、より正しく評価すること。それが、取りうる最も適切な態度ではないかと思う。

プロですら、評価は物語に左右されてしまうことがあるということですね。純粋にコンテンツのみを評価することは可能かどうか。情報過多の時代には特に難しくなってきたように思います。間違った情報をインストールして、本来の魅力に気づけないことも起こります。

■ クラウドファンドってストーリー消費の最たるものかも

話は変わりますが、クラウドファンドというものがあります。映画や音楽、ガジェットから人助けまで様々な理由で資金を求める人が、支援を募るシステムですが、あれなどは物語消費の最たるものかもしれません。

映画を例にすると、まず映画製作資金をクラウドファンドで募るとすると、金を出す消費者に提示されるものは、企画に至るストーリーと製作者の肩書きがほとんど全てです。だって作品を作る前ですから作品はないですし。企画概要やあらすじはありますが、ある意味作品不在で金を払ってもらうという行為です。むしろ背景のストーリー以外消費するものがないかもしれない。特典目当てでお金を出すことも多いでしょうが。

■ 洋画の宣伝って間違ったストーリーを伝えてませんかね

また話が変わりますが、宣伝には認知の上昇の他にその作品の持つ物語を的確に伝える役割があると思っています。洋画の宣伝は認知さえ上がればそれでオッケーとしてきたような風潮がありましたが(最近でこそみなくなりましたが、全米No1ヒットが年に何本あるんだと。。)、それぞれの作品の持つ物語を伝えることなしには、コンテンツを消費する側もその作品の本来の魅力を享受できない可能性があります。

ワールドウォーZが日本ではゾンビ感を出さずに宣伝してましたが、見に行った人は面食らいますよね。

最近だとロボコップが豆まきをしていました。僕の友人が「これは俺の知っているロボコップではない」と語っていました。少なくとも彼には間違った文脈がインプットされたかもしれません。

作品のあらすじそのものを正しく伝えないこともさることながら、作品の文脈をねじ曲げてしまうというのは、やはり関心できないですよね。事実とかけ離れた物語で釣るというのは佐村河内氏の姿勢をあまり変わらないという気もします。

このコンテンツの魅力は背景や周辺を取り巻くストーリーで大きく左右される、というのは説明するのが結構大変なんですが、佐村河内氏の今回事件はそれがいかに重要で、しかも誠実であるべきだということを痛感させられるものになりました。ある意味大変なストーリーの重要さを説明するうえで格好のサンプルになる事例でしょう。その効果の絶大さと手法の不適切さ両方を説明するうえで。

(2014年2月8日「Film Goes With Net」より転載)