インターネットの自由と世間様

かつて、インターネットの自由とは「誰にも文句を言われることがない」という修飾語のついた自由だった。
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これに類することは沢山の人が書いているし、私だって書いていそうだけれども、反復的になったって構わないから書いておく。

たぶん、昔インターネットをはじめた人が考えていた自由とは、「自分の表現したい事を、誰にも文句を言われることなく表現できる」自由だったのだと思う。少なくとも私がネットサーフィンしていて感じたのは、それだった。

あとは「表現されているものを誰にも文句を言われることなく閲覧する自由」。世間に対する呪詛も、いかがわしいエロも、書いたって構わないし眺めたって構わない――「インターネットは自由だ」と言った時に多くのユーザーが無意識のうちに含意していたのは、表現するにせよ、閲覧するにせよ、そういった「誰にも文句を言われることがない」という修飾語のついた自由だった。イコールではないけれども「無責任」というレトリックにも近かったかもしれない。

現在もインターネットには表現の自由がある、と思う。

ただし現在のインターネットの自由とは、「自分の表現したい事を、あらゆる人に検閲される前提で行使する自由」であり、「あらゆる価値観の見ず知らずの人間から批評されることを前提とした自由」だ。イコールではないが、「責任」というレトリックにも幾分近づいたようにみえる。誰にも文句を言われることがない自由は失われ、誰からも文句を言われる可能性を踏まえた自由がやってきた。

これも自由には違いない。模範市民的に言及するなら、これこそが「求めるべき自由」「あるべき自由」であって、昔のいかがわしい自由とは、求めてはいけないものだったのだろう。それはわかっている。重々わかっている。皆もわかっているだろう。わからなければ血祭り炎上の時代だから私はわからなければならない。

自由とは、しばしば「○○からの自由」という形式をとらなければ体感できず、過去のインターネットのそれは、たぶんに「世間からの自由」というものを含んでいた。世間では後ろ指を指されるもの、世間では馬鹿にされるもの、世間様が、お許しになってくださらないものが、インターネットには充満していた。つまりインターネットには「世間からの自由」というべき効能が確かにあった。

今はどうだろうな。「世間からの自由」はインターネットにあるだろうか? 違う。ここが世間だ。インターネットは、世間になった。世間様がみていらっしゃるぞ! たくさんの世間様、不特定多数の世間様が、おまえは間違っているぞ、おまえは偏っているぞ、おまえには罰をくだしてやるぞと、目をギラギラさせているのが今のインターネットだ。

これまでの世間様はもっとヤンキー的・庶民的で、インターネットの世間様はそれに比べれば生徒会的・市民的といった違いはあるかもしれない。「たくさんの価値観に開かれている」という点でも、今昔の世間様には大きな違いがある。

だが、さしあたって確認しておきたいのは、インターネットの頭上、各々のアカウントの直上にはいまや世間様というダモクレスの剣が燦然と輝き、世間様に仇なす者にはすみやかに罰が下されるようになった、ということだ。

インターネットには「世間様からの自由」という言葉がもはや似あわない。インターネットの多様化や細分化によって世間様が遠のいたわけではなく、多様化し、細分化した世間様が無数に誕生しただけだった。

あらゆる種類の世間様が肩で風を切って歩き、ガンをつけあい、お互いを殲滅しようとする、言葉の世界の『北斗の拳』みたいな世間様ユニバース! 右派的言動は左派的世間に批判され、左派的言動は右派的世間に愚弄される――万事が万事こんな調子だから、思想信条の内容いかんにかかわらず、役人言葉もかくやという用心深い表現を心がけなければ、ライフが幾つあっても足りない。そんな目立つ場所でタバコを吸うな! 首をすぼめろ! 世間様に狙撃されるぞ!

そうやって、修辞術に気を配り、四方八方の世間様にお目こぼし頂く自由とは自由なのか。いったい何からの自由なのか。考え方次第では、依然としてネットユーザーは世間様から自由たりえる。だが、それはダモクレスの剣に首をちょんぎられることと表裏一体な自由の行使であり、誰でも・いつでも行使して差し支えないとは思えない。ここはフロントライン、ここは四条河原だ。気を付けろ、インターネット!

(2016年3月29日「シロクマの屑籠」より転載)