どうせレッテル貼りをするならば

男だからどうせああなんだろう、女ならどうせこれが好きだろうとか。日本人だから、○○人だから、とか。果ては、あの人は血液型がA型だから、B型だから、とか。こういう言説は、しばしば耳にしますよね。世の中、まだまだレッテル貼りというのは少なくないようです。

男だからどうせああなんだろう、女ならどうせこれが好きだろうとか。

日本人だから、○○人だから、とか。

果ては、あの人は血液型がA型だから、B型だから、とか。

こういう言説は、しばしば耳にしますよね。

世の中、まだまだレッテル貼りというのは少なくないようです。

「レッテル貼り」は確かに人が生きる上で必要な機能です。

レッテル貼り、すなわちカテゴリー分けをしないと、小さくて赤くて丸い果物(リンゴ)を見る度に毎回よくよく調べて「これは何だろうか」と判断しなくてはならなくなります。

カテゴリー分けをしていれば、「小さくて赤くて丸い果物だから、これはリンゴだろう」と一瞬で判断することができ、その判断にかける労力が小さくて済みます。

人の生活というのは判断の連続ですから、レッテル貼りをすることで判断にかかる労力の軽減されるというのは非常にメリットが大きいものです。

しかし、「レッテル貼り」と言うと一般に悪い印象があるように、カテゴリー分けに伴う負の側面はもちろん存在しています。

同じ日本人でも色んな人がいるように、カテゴリーの平均的な印象から大きく違う個体というのは必ず存在しています。

そういった人に、カテゴリーの平均的な印象のみをもって「この人はこういう人だ」と決めつけてしまえば、そこに齟齬が生じてしまいます。

また、そのカテゴリーの平均的な印象をちゃんと得られているのならまだしも、少数の偏ったサンプル(事件を起こしてニュースになった人など)を見て築かれた「偏った印象」を持っている時もあるでしょう。

このような偏った印象をもって「この人はこういう人だ」と決めつけてしまうと、さらにその人の本来の姿からかけ離れたイメージができてしまいます。

このようなレッテル貼りによる「本来の姿からかけ離れたイメージ形成」が差別やディスコミュニケーションの温床になってしまいます。

人はそれぞれ違うのですから、「その人がどういう人なのか」を考える時に、レッテル貼りによって労力を節約してしまうと、こういった問題が生じるのです。

リンゴ農家の人は、きっと同じリンゴでも色んなリンゴがあることを知っています。それはお仕事柄、個々のリンゴの違いは大事であると思っていて、個々のリンゴをよく見ているからでしょう。(これも偏ったイメージかもしれませんけど・・・)

それと同様に、私たちも社会に生きる生物として、個人個人の違いは大事であると認識して、出来る限り単純なレッテル貼りは避けるべきではないでしょうか。

もちろん、先程も述べたように、レッテル貼りを完全に排したせいで、個々の判断にかける労力が増えすぎるとそれはそれで社会生活が回りません。

それに、おそらくレッテル貼りは人の本能なのだと私は感じています。

そこで私の提案です。

「あの人は男だから」「あの人は女だから」というレッテル貼りをするならば。

どうせなら、「あの人はA型だから」「あの人はB型だから」というレッテル貼りも加えましょう。

「男でA型」と「男でB型」と「女でA型」と「女でB型」はきっと違うでしょうから。

これぐらいのレッテル貼りなら簡単ですよね。ついでにちょっとその人に血液型を聞くだけですし。

あ、それだけじゃまずいですね、もしかしたら理系か文系かでも違うかもしれません。

「理系で男でA型」と「文系で男でA型」と「理系で男でB型」と「文系で男でB型」と「理系で女でA型」と「文系で女でA型」と「理系で女でB型」と「文系で女でB型」は違いそうですもんね。

このレッテル貼りも加えましょう。

これもそんなに難しくないですよね。さっきの血液型のついでに理系か文系かも聞いちゃえばいいんです。

いや、ちょっと待って下さい。

出身地でも多分違いますよね。関東か関西かとか。

「関東出身で理系で男でA型」と「関東出身で文系で男でA型」と「関東出身で理系で男でB型」と「関東出身で文系で男でB型」と「関東出身で理系で女でA型」と「関東出身で文系で女でA型」と「関東出身で理系で女でB型」と「関東出身で文系で女でB型」と「関西出身で理系で男でA型」と「関西出身で文系で男でA型」と「関西出身で理系で男でB型」と「関西出身で文系で男でB型」と「関西出身で理系で女でA型」と「関西出身で文系で女でA型」と「関西出身で理系で女でB型」と「関西出身で文系で女でB型」は違いますよ、多分。

このレッテル貼りもしておきましょう。

これも簡単ですね、先ほどの話のついでに出身地も聞いておけばいいんですから。

あー、いけません。

他にもいっぱい貼るべきレッテルがありました・・・。

星座とか、何年生まれとか、出身校とか、インドア派かアウトドア派かとか、好きな音楽のジャンルとか、好きな食べ物とか、好きなブランドとか、最終学歴とか、宗教とか、親御さんのご職業とか、長子なのか末っ子なのかとか・・・・。

ちょっと大変になってきましたけれど、何度か飲みにでもいけばきっと聞き出せますよ。

だって、どのレッテルが正しいか分からないので、貼れるレッテルは貼っておきたいじゃないですか。

それとも、1つのレッテルだけを貼って終わってしまう人は、そのレッテルだけが絶対的なレッテルという証拠でも持ってらっしゃるのでしょうか?

世の中にはいっぱーいレッテル貼りがあるし、色んな人が色んなレッテル貼りをして判断しているのに・・・?

あなたの使うレッテルだけが正しいってことあるんでしょうか?

ですから。

どうせレッテル貼りをするならば、できる限り徹底的にやっちゃいましょう。

複数のレッテルを貼った方が、一つのレッテルで判断するよりはきっとマシです。

世の中には無数のレッテルがあるので、徹底的にやるのは難しいかもしれません。

でも、それでも出来る限り多くのレッテルを貼ることが多分大切なんです。

多くのレッテルを貼ろうとするプロセスを通ることで、「まだあの人に対するレッテル貼りは徹底的にはできてない」と思えれば、今あの人に持っているイメージはあくまで「暫定的なイメージ」なんだって意識できて、「決めつける」ことができなくなるでしょう。

また、レッテル貼りを多くやろうとすれば、自然にその人個人をよーく観察しないといけなくなります。

そして、レッテル貼りを徹底的にやるために、あれこれ情報を聞いているうちに、カテゴリーでは分類できないようなその人個人のかもしだす「空気」みたいなものを感じ取れるようになってきます。多分それもその人個人の「姿」の一部です。

逆説的ですが、レッテル貼りを徹底的にやろうとすればやろうとするほどレッテルを貼らない個人の姿に近づくのです。

何より、レッテル貼りを徹底的にやろうとすれば、その人に近づく必要があるので、自然にその人と親しくなってしまうことも少なくないでしょう。

自分と感覚が違うところがあるとか、自分と価値観が違うところがあるとか、そういった自分と違う点があっても、親しくなって愛着が出れば受け入れられます。尊重できます。

そこに差別は生まれません。

レッテルを貼ろうと思ってやってたはずなのですけど、そうなります。

でも、それでいいんですよ。

むしろ、それがいいんです。

(2015年2月28日「雪見、月見、花見。」より転載)