レナード・コーエン氏死去 世界的シンガーにして詩人、アルバム発売直後に旅立つ

「マリアン、とうとうこの時が来てしまったようだ」
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美しい歌詞を黄金の声で歌いあげるカナダのシンガーソングライター、詩人のレナード・コーエンが82歳で死去した。ソニー・ミュージックが11月10日、コーエンの公式Facebookページで発表した。

大変悲しいお知らせですが、伝説的な詩人、ソングライター、アーティストであるレナード・コーエンが逝去しました。私たちは音楽界で最も尊敬され、最も多才な人物の一人を失ってしまいました。追悼式は後日ロサンゼルスで行われる予定です。この追悼式は遺族の希望で、近親者だけで行われる予定です。

コーエンの逝去は、14枚目のスタジオアルバムの『You Want It Darker』が発売されてからわずか数週間後の出来事だった。このアルバムでコーエンは、近づいてくる自分の死についてストレートに美しく歌っており、最後の別れに相応しい作品になっている。

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オンタリオ州トロント:マッセイ・ホールで演奏する詩人、歌手のレナード・コーエン氏。1970年12月7日、フランク・レノン撮影。

生涯を通して、コーエン氏は人間の内面に向き合い続け、人生、性、精神、死について話し、書き、歌い続けた。

コーエン氏は10月『ニューヨーカー』誌に、自分の「死が近いこと」について率直に話った。

「やることはまだある」と、コーエンはデイビット・レムニック記者に語った。「自分のことは自分でやる。死ぬ準備はできている。死が気分の悪いものにならないように願う。それが私にとっての死だ」

しかし同じ10月、ロサンゼルスで行われたリスニング・パーティー(新作アルバムの試聴イベント)で、コーエンはこのコメントを撤回した。

「私はついこの間、死ぬ準備ができていると言った。これは大袈裟過ぎたと思っている」と同氏は言い、笑いを誘った。「人は時として、過剰な自己演出をしてしまうもの。私は永遠に生きるつもりだ」

1934年にモントリオールで生まれ、1956年にコーエン初の詩集『Let Us Compare Mythologies』(邦題:『神話を生きる』)を出版した。コーエンは1960年代にフォークシンガーとなり、1967年にはファーストアルバム、『レナード・コーエンの唄』を発表した。

コーエン氏の最も有名な曲は、バラードの『Hallelujah(ハレルヤ)』、『So Long, Marianne』、『First We Take Manhattan』、『Tower of Song』などだ。

母国カナダで、コーエン氏は「カナダ音楽の殿堂」と「カナダ・ソングライターの殿堂」の両方で殿堂入りした。2008年には、ロックの殿堂入りも果たした。この授賞式に出席した時、コーエンは『Tower of Song』の歌詞を朗読した。

2010年には、ザ・レコーディング・アカデミーは、コーエン氏にグラミー賞特別功労賞生涯業績賞を授与し、功績を称えた。

コーエンは、多くの人にやすらぎをもたらしたが、彼自身は思春期からうつと闘っていた。1990年代、ロサンゼルス郊外の山頂にある禅寺で数年間修行していた、とニューヨーカー誌に語った。

「ソファから立ち上がるのが難しくくらいの衰弱期と、活動的だが、依然として背後で苦悩の雑音が鳴り続ける期間が、代わる代わるやって来た」

結局、コーエン氏は寺を離れ、音楽に戻った。

しかし2004年には長年のマネージャーで恋人だったケリー・リンチが、彼の退職基金から500万ドルを流用していたことが分かった。ガーディアン紙によると、リンチは裁判所から950万ドルを支払うよう命じられ、その後、懲役18カ月の判決を受けた。

コーエンは財政難を解消するため再びツアーを行うようになり、大成功を収めた。『ローリング・ストーン』誌によると、2008〜2013年にかけて、健康が悪化し始めるまで、世界中でおよそ400公演を行った。

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コーエン曰く「バラックに閉じ込められていた」状態だったが、彼は『ニューヨーカー』誌に自身の置かれた状況について寄稿し、その後も『ポピュラー・プロブレムズ』(2014年)など、3枚のアルバムを発表した。

コーエンの息子アダムはローリング・ストーン誌に、「その当時は、父の具合を心配していました。仕事だけが、父を鼓舞させる唯一のものだったのです」と語った。また、最近アルバムのリリースが続いたことについて、「父にはとてつもなく激しい不安感が押し寄せていて、身動きできない状況に苦しんでいました。そんな父にとって、アルバム制作はとても良い気晴らしになりました」

7月、コーエンは以前交際していたマリアン・イーレンが白血病で亡くなったことを知った。彼女は彼の代表曲「さよならマリアンヌ」のモデルとなった女性だった。マリアンの死の間際に送った感動的な手紙には、コーエンの古くからの友人を送る祈りが込められている。

「マリアン、とうとうこの時が来てしまったようだ。私たちはとっても年を取ってしまったね。この体もガタがきてしまったよ。きっと私もすぐに君の後を追うだろう」

「分かってくれ。私は君のすぐそばにいる。君が手を伸ばせば届くところに私はいる。そしてこれも分かってほしい。私はいつも君の美しさと知性を愛していた。しかし、もう他に何も言うことはない。君は全て知っているから。今はただ、君の旅路を祈っている。さようなら良き友よ。永遠の愛を捧げよう。いつかまた会える日を」

ミュージシャン、レナード・コーエンは息子のアダム・コーエンと娘のロルカ・コーエンを残してこの世を去った。

ハフポストUS版より翻訳・加筆しました。

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