「毛沢東」はどこへ行った

共産主義は「持たざるもの」が暴力によって「持てるもの」の独占的収奪・圧政を覆すのを目的としていたはずである。それが、現実はどうだろう。
|

ソウルで安倍晋三氏が朴槿恵さんと、懸案だった日韓首脳会談をした。会談は昼どきに終わったが、朴さんはお昼を出さなかった。別れに当り、両首脳はごく外交的な挨拶を交わした。

「これから、どうなさいますか」

問われた安倍首相は、朗らかに答えたと私は伝え聞いた。

「町に出て、焼肉でも食おうかと思っとります」

ネット情報の海から拾った一片の挿話だから、真偽の程は私には分らない。読者も、そのつもりでお読みいただきたい。

だが四角四面な首脳外交の中にも痛快な一刻があるものだと私は微笑した。松江侯屋敷の表玄関を出た河内山宗俊が、振り向いて「バカめ」と一喝する。芝居を見るようだった。

その会談に先立って朴さんは訪米し、オバマ大統領と米韓首脳会談をした。新聞に載った会談内容を見て、私は「大統領が面と向かってヨソの大統領を叱ることって、あるんだなあ」と感じた。

オバマ氏の「叱責」には、それなりの根拠があったと私は思う。何より韓国は、今もなお北朝鮮と戦争中であり、ときどき大砲の撃ち合いさえしている。中国は敵・北朝鮮を応援して参戦した準敵国である。

その国へ軍備を誇示する軍事パレードを見に行き、天安門の楼上に立つとは何事か。オバマ氏は朝鮮戦争で死んだ米兵の霊を背負って朴さんを詰問した。米軍最高指揮官である大統領として、当然の怒りである。

しかし、それを言うなら、もっと叱責されるべき悪者は、同じ楼上に巨大な肖像画になって鎮座しているあの人――毛沢東ではないだろうか。彼は共産主義を教義とする革命によって国民政府を台湾に追い出し、中華人民共和国を創設した。世界最大級の国土を持つ国を地球上に出現させてからも、彼は大躍進、文化大革命と革命を続けた。

今の習近平国家主席はじめ現北京政府幹部はお忘れかもしれないが、共産主義は「持たざるもの」が暴力によって「持てるもの」の独占的収奪・圧政を覆すのを目的としていたはずである。それが、現実はどうだろう。

日本の田中角栄首相が中国の子供たちの大群が打ち振る「熱烈歓迎」の小旗に迎えられて北京空港に着いたとき(あの子供たちは、どこへ行ったのだろう)、中国は確かにそれらしい道を辿っていた。

辿っていただけではない。「おまえのは修正社会主義だ。正しいのは俺様の進んでいる道だ」と怒鳴り合い、ソ連と激しく口喧嘩していた。ソ連は逆に「そっちのは教条主義だ」とやり返し、いまにも戦争になりかねない形勢さえ見えた。毛沢東は本気で、ソ連がいまにも攻めて来ると信じたらしく、北京市内に防空壕を掘らせたという。

田中訪中(1972年)に先立ってニクソン米大統領が北京に行き、毛沢東の書斎に通されたとき、この広い世界に中国の友達といえば、ヨーロッパではアルバニア、ヨーロッパ以外ではカストロのキューバと朝日新聞だけだった。

毛沢東に言いたいことはまだある。「革命は銃口から生まれる」はどうなった。「農村から都市を包囲する」は、どこへ行った。共産主義の本家争いは、どうなったのか。

1976年の重陽の節句に、毛沢東は死んだ。天安門上の英姿は実物から絵に変った。中ソ論争は、どこへともなく蒸発した。

その後、上海に証券取引所ができた。証券つまり資本を売買する市場である。世界中のゼニ持つ者は、みな中国産品の顧客になった。

産品だけではない。インドネシアの鉄道は、一晩のうちに(日本を蹴落として)中国の受注に決まった。私はロッキード社のコーチャン副社長を探してバーバンクからハリウッド一帯を走り回った自分の若き日を思い出す。クラッター東京支社長宅の客間、サイドボードの上には、私が丸紅か全日空から来たモノだなと咄嗟に邪推した身の丈数十センチの仏像が静かに合掌していた。

資本主義社会では、カネがあれば人を買えるのだ。中国は、資本主義の最も腐った部分まで、早くも学習してしまったのではないか。

軍事パレードは、やってくださって結構である。私は盛夏の京の祇園祭、鉾の御巡幸の方にずっと感銘を受ける。ただ1つ問いたいのは、あのミサイル運搬車のハンドルを握っている人民解放軍兵士の率直な感想である。あらゆる運転者と同様、彼も天安門広場を横切りながらヨソ事を考えているのであろう。

連隊長の奥さんは、この国慶節休みに一族を率いて東京へ爆買いに行ったそうだ。ウチの女房も日本製化粧品を欲しがっているが、俺はしがない給料生活者、中国国内で買えば偽ブランド物に決まってるし......このままミサイル運びで一生を終わるのか。あーあ、階級闘争でもやらかして党幹部にならない限り、俺の人生は拓けないのか。

共産主義って、いったい何? プロレタリアートは、いつ、どこへ行ったら救われるの?

徳岡孝夫

1930年大阪府生れ。京都大学文学部卒。毎日新聞社に入り、大阪本社社会部、サンデー毎日、英文毎日記者を務める。ベトナム戦争中には東南アジア特派員。1985年、学芸部編集委員を最後に退社、フリーに。主著に『五衰の人―三島由紀夫私記―』(第10回新潮学芸賞受賞)、『妻の肖像』『「民主主義」を疑え!』。訳書に、A・トフラー『第三の波』、D・キーン『日本文学史』など。86年に菊池寛賞受賞。

関連記事

(2015年12月9日フォーサイトより転載)