三笠宮さまが歩んだ激動の一世紀 日本軍を批判、紀元節復活に反対も

戦前・戦中を陸軍軍人として過ごし、戦後は歴史学者に。激動の一世紀を歩んだ三笠宮さまの足跡を振り返る。
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Japanese Prince Mikasa, 100-year-old uncle of Emperor Akihito, waves to well-wishers gathered for the annual New Year's greetings at the Imperial Palace in Tokyo on January 2, 2016. Emperor Akihito called for peace in his New Year's greeting to more than 62,000 visitors. AFP PHOTO / KAZUHIRO NOGI / AFP / KAZUHIRO NOGI (Photo credit should read KAZUHIRO NOGI/AFP/Getty Images)
KAZUHIRO NOGI via Getty Images

10月27日に100歳で亡くなられた三笠宮さまは戦前・戦中を陸軍軍人として過ごし、戦後は古代オリエント史の歴史学者として活躍した。時には旧軍への批判や「紀元節の復活」の動きに反対の論陣を張るなど、踏み込んだ発言でも話題になった。大正・昭和・平成と、激動の一世紀を歩んだ三笠宮さまの足跡を振り返る。

■陸軍参謀として中国へ 軍規の乱れを戒める講話も

三笠宮さまは1915(大正4)年12月2日に大正天皇の四男として誕生。学習院初・中等科から陸軍士官学校、陸軍大学校に進んだ。

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大正天皇の皇后、貞明皇后が秩父宮邸(当時)を訪問し、ご家族で記念撮影。後列左から秩父宮さま、高松宮さま、三笠宮さま=1939年10月

43年1月からは中国への派遣軍の参謀として南京に赴任。お印にちなんだ「若杉参謀」の名を用いた。現地で軍紀の乱れや中国人の虐殺などを見聞し、現地の将校らを戒める激烈な講話をした。当時としては、命がけともいえる行動だった。

この講話は「支那事変に対する日本人としての内省」という文書にまとめられており、94年に国立国会図書館で発見された。

三笠宮さまは、日中戦争の解決しない理由を「日本陸軍軍人の『内省』『自粛』の欠如と断ずる」と厳しく軍部を批判、中国内の抗日活動について「抗日ならしめた責任は日本が負わなければならない」と指摘している。

また、南京に樹立した国民政府についても、「元来、国民政府は日本が真に中国のためを思い、民衆を救い、統一国家を完成するために作ったというより、諸外国から非難された日本の侵略主義を掩蔽(えんぺい)せんがための、一時的思いつきによる小刀細工の観が深い」としている。

さらに、日中戦争について「陛下の御考え又は御命令で戦闘が生じたのでなく、現地軍が戦闘を始めてから陛下に後始末を押しつけ奉ったとも言うべきもの」と、軍部の独走を指摘している。

(朝日新聞1994年7月6日夕刊)

著書『帝王と墓と民衆 - オリエントのあけぼの』に付された自叙伝「わが思い出の記」の中でも、「一部の将兵の残虐行為は、中国人の対日敵愾心をいやがうえにもあおりたて、およそ聖戦とはおもいもつかない結果を招いてしまった」「聖戦に対する信念を完全に喪失した私としては、求めるものはただ和平のみとなった」と、戦時中の苦しい心境を吐露している。

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上海に入る日本軍の車両(1935年)

三笠宮さまは終戦時には陸軍少佐だった。ご結婚70年に寄せた文書では「空襲で邸(やしき)が全焼したため、経済的な労苦はほかの宮家と比べてはるかに大きかった」と当時を偲んでいる

■「戦争放棄」を強く支持。しかし… 新憲法への揺れる思い

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1946年(昭和21年)国鉄横須賀線にて

戦後間もない1946年6月、新憲法案を採決した枢密院の本会議で、三笠宮さまは新憲法案の戦争放棄を積極的に支持。日本の非武装中立を主張した。その一方で、「本草案はどうしても、マッカーサー元帥の憲法という印象を受ける」「種々の情勢上反対する訳にも行かないが、さりとて賛成することは良心が許さぬ」と賛否矛盾した態度をとった。こうした矛盾からは、当時置かれた困難な立場と率直な思いがうかがえる。以下に発言の一部を紹介する。

日本はたとえ受動的にせよ他国間の戦争はもちろん局地紛争にでも巻き込まれては日本の再建ができぬばかりでなく、今度こそ日本人の滅亡に陥る危険性がある。兵器の進歩を予察する時一層しかりである。故に日本は絶対に厳正なる局外中立を堅持せねばならぬ。

第一は本草案はどうしても、マッカーサー元帥の憲法か、一歩譲ってもごく少数の日本人の決めた憲法という印象を受けること。


■戦後はオリエント研究者に 歴史学者として「紀元節」復活に反対も

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カナダ訪問中の三笠宮ご夫妻

戦後は東京大学文学部の研究生として「古代オリエント史」を専攻。トルコなどで遺跡調査に携わった後、青山学院大学などで古代オリエント史の講師として教壇に立った。

戦後廃止された「紀元節」(神武天皇即位の日とされる2月11日)が、1950年代に「建国記念日」として復活させようという動きが高まると、歴史学上の確証がないことから歴史学者として反対の論陣を張った。デイリー新潮によると、三笠宮さまは「紀元節についての私の信念(「文藝春秋」59年1月号)」の中で、以下のように記している。

昭和十五年に紀元二千六百年の盛大な祝典を行った日本は、翌年には無謀な太平洋戦争に突入した。すなわち、架空な歴史――それは華やかではあるが――を信じた人たちは、また勝算なき戦争――大義名分はりっぱであったが――を始めた人たちでもあったのである。もちろん私自身も旧陸軍軍人の一人としてこれらのことには大いに責任がある。だからこそ、再び国民をあのような一大惨禍に陥れないように努めることこそ、生き残った旧軍人としての私の、そしてまた今は学者としての責務だと考えている

南京虐殺は“人数に関係はありません”のお立場「三笠宮殿下」 | デイリー新潮より 2015/12/3)

保守派からは「赤い宮さま」と揶揄されたこともあったが、激動の時代を生きた皇族として、また歴史学者として時に踏み込んだ見解を示した。

■激動の時代を共に歩んだ妃・百合子さまへの思い

こうした三笠宮さまを支えたのが、妃の百合子さまだった。太平洋戦争開戦前夜の41年10月、三笠宮さまは高木正得子爵の次女だった百合子さまと結婚。ただ当時は日中戦争の真っ只中。朝日新聞によると、引き出物のボンボニエール(お菓子入れの小箱)は竹製の質素なものだったという。

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三笠宮さま(左)と同妃百合子さま

三笠宮さまは結婚70年を迎えた2011年10月、宮内記者会の求めに応じて所感を寄せた文書で、百合子さまへの感謝の思いをつづっている。

顧みれば,70年間,陰になり日なたになり私を助けてくれたのは,何といっても妻百合子であった。結婚のとき,私は陸軍大学校の学生だったので,宿題のためにしばしば徹夜したし,間もなく戦争となり,厳しい生活が始まった。

陸大の研究部部員を務めた後,私は支那派遣軍総司令部の参謀として南京に赴任した。妻は華族の出身であるが,皇族の生活は一段と厳しく,忙しいから,留守を守っていた妻の労苦は並々ならぬものであったに違いない。

私は帰国後,大本営の参謀などを務めているうちに,敗戦となった。三笠宮家は新しく創設されたために経済的な基盤がなかったばかりでなく,空襲で邸やしきが全焼したため,経済的な労苦はほかの宮家と比べてはるかに大きかった。それを支えてくれたのも妻であった。

やがて私は東大文学部で勉強することになったが,いろいろな公務もあり,授業に出られないときには友人のノートを借りてきて,夜のうちに妻に写してもらった。それは教室で筆記するより大変だったろう。

その後,半世紀,私は諸大学の講師を務めながらほかの公務にも出席していたので,妻は親王妃としての公務を果たしながら,5人の子供の世話や教育を一手に引き受けてくれ,しかもそれを見事に果たしてくれたのである。

今静かに過去の70年を振り返ってみるとき,百合子に対して感謝の言葉も見付からないほどである。

崇仁親王同妃両殿下ご結婚満70年に際してのご感想 - 宮内庁より)

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結婚70年を迎えた三笠宮ご夫妻

▼画像集が開きます▼

歴代天皇(宮内庁「天皇系図」による)
初代 神武(じんむ)天皇(01 of122)
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・在位:前660年-前585年\n・イザナギ、天照大神の血を受け継ぐとされる。『古事記』『日本書記』では、初代天皇で皇統の祖としている。\n・九州地方から東征し、大和地方を平定したとされる。\n・『日本書紀』によると、2月11日(旧暦:神武天皇元年1月1日)に橿原宮で即位。127歳で崩御したとされる。\n・『日本書紀』『古事記』の記述内容は神話的で、歴史学上では神武天皇が実在したかは不明。 (credit:Wikimedia)
2代 綏靖(すいぜい)天皇(02 of122)
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・在位:前581年-前549年\n・神武天皇の第3子。
\n※第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までの8人は『古事記』『日本書紀』において系譜は存在するが、その事績が極めて少ないため「欠史八代」と言われる。歴史学上、これらの天皇たちは実在せず、後世になって創作された存在だとする見解が有力視されている。
(credit:Wikimedia)
3代 安寧(あんねい)天皇(03 of122)
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・在位:前549年-前511年\n・神武天皇の孫、綏靖天皇の子。
\n※第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までの8人は『古事記』『日本書紀』において系譜は存在するが、その事績が極めて少ないため「欠史八代」と言われる。歴史学上、これらの天皇たちは実在せず、後世になって創作された存在だとする見解が有力視されている。
(credit:Wikimedia)
4代 懿徳(いとく)天皇(04 of122)
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・在位:前510年-前477年\n・安寧天皇の子。
\n※第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までの8人は『古事記』『日本書紀』において系譜は存在するが、その事績が極めて少ないため「欠史八代」と言われる。歴史学上、これらの天皇たちは実在せず、後世になって創作された存在だとする見解が有力視されている。
(credit:Wikimedia)
5代 考昭(こうしょう)天皇(05 of122)
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・在位:前475年-前393年\n・懿徳天皇の子。『日本書紀』では113歳で崩御したとされる。
\n※第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までの8人は『古事記』『日本書紀』において系譜は存在するが、その事績が極めて少ないため「欠史八代」と言われる。歴史学上、これらの天皇たちは実在せず、後世になって創作された存在だとする見解が有力視されている。
(credit:Wikimedia)
6代 孝安(こうあん)天皇(06 of122)
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・在位:前392年-前291年\n・孝昭天皇の子。\n・『日本書紀』では137歳で崩御したとされる。在位期間は102年間とされ、歴代天皇最長とされる。
\n※第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までの8人は『古事記』『日本書紀』において系譜は存在するが、その事績が極めて少ないため「欠史八代」と言われる。歴史学上、これらの天皇たちは実在せず、後世になって創作された存在だとする見解が有力視されている。
(credit:Wikimedia)
7代 孝靈(こうれい)天皇(07 of122)
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・在位:前290年-前215年\n・孝安天皇の子。
\n・『日本書紀』では128歳で崩御したとされる。

\n※第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までの8人は『古事記』『日本書紀』において系譜は存在するが、その事績が極めて少ないため「欠史八代」と言われる。歴史学上、これらの天皇たちは実在せず、後世になって創作された存在だとする見解が有力視されている。
(credit:Wikimedia)
9代 開化(かいか)天皇(08 of122)
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・在位:前158年-前98年\n・孝元天皇の子
\n※第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までの8人は『古事記』『日本書紀』において系譜は存在するが、その事績が極めて少ないため「欠史八代」と言われる。歴史学上、これらの天皇たちは実在せず、後世になって創作された存在だとする見解が有力視されている。
(credit:Wikimedia)
10代 崇神(すじん)天皇(09 of122)
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・在位:前97年-前30年\n・開化天皇の子。『日本書紀』には「御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)」の称号が記される。税の制定など国家体制の基礎を整えたとされる。\n・実在の可能性がある最初の天皇という説もある。 (credit:Wikimedia)
11代 垂仁(すいにん)天皇(10 of122)
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・在位:前29年-後70年\n・祟神天皇の子。\n・国の農業を推進したとされる。\n・殉死の禁止令を発し、殉死に変わり埴輪を埋めるように命じたという。\n・田道間守に命じ、不老長寿の果実「非時香菓(ときじくのかくのみ)」を探させた。「非時香菓」は、寒暖を問わず常に生い茂る橘(タチバナ)とされる。\n・『古事記』によると、皇后の狭穂姫命(さほひめのみこと)は、兄(狭穂彦王、さほひこのみこ)から「お前にとって夫と私、どちらが愛しいか」との問いに「兄の方が愛しい」と答えたことで謀反に協力。夫・垂仁天皇を暗殺しようとするも、兄同様に夫も愛していた狭穂姫命は涙をこぼし暗殺を断念。その後、狭穂姫命は兄に殉じて焼死。悲恋の物語として伝えられる。 (credit:Wikimedia)
12代 景行(けいこう)天皇(11 of122)
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・在位:71年-130年\n・息子の日本武尊(ヤマトタケルノミコト)に蝦夷征討を命じる。\n・『古事記』によると、計80人の子だいたという。 (credit:Wikimedia)
13代 成務(せいむ)天皇(12 of122)
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・在位:131年-190年\n・国軍・県邑を定め、地方行政機構を整備した。 (credit:Wikimedia)
15代 應神(おうじん)天皇(13 of122)
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・在位:270年-310年\n・神功皇后の三韓征伐の帰途、九州で生まれたとされる。\n・百済、新羅、高句麗と積極的に外交。 (credit:Wikimedia)
16代 仁德(にんとく)天皇(14 of122)
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・在位:313年-399年\n・民家からかまどの煙が出ていないことに気づき、人民の租税を免除し、自らも倹約に勤めた逸話で知られる(民のかまど)。\n・皇后の嫉妬に悩まされたと伝わる。\n・宮内庁は、大阪府堺市にある大仙陵古墳を陵として治定している。 (credit:Wikimedia)
17代 履中(りちゅう)天皇(15 of122)
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・在位:400年-405年\n・仁徳天皇崩御後、皇位簒奪を目論んだ弟の住吉仲皇子の襲撃を受ける。この際、難波宮で泥酔して寝ていたため、臣下によって馬に乗せられ逃げたという。のち反乱を鎮定し、即位した。\n
18代 反正(はんぜい)天皇(16 of122)
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・在位:406年-410年\n・仁徳天皇の子。\n・中国、南北朝時代の記録に記される「倭の五王」のうち「珍」とされる。
19代 允恭(いんぎょう)天皇(17 of122)
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・在位:412年-453年\n・仁徳天皇の子。\n・中国、南北朝時代の記録に記される「倭の五王」のうち「済」とされる。 (credit:Wikimedia)
20代 安康(あんこう)天皇(18 of122)
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・在位:453年-456年\n・允恭天皇の子。\n・中国、南北朝時代の記録に記される「倭の五王」のうち「興」とされる。 (credit:Wikimedia)
21代 雄略(ゆうりゃく)天皇(19 of122)
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・在位:456年-479年\n・允恭天皇の子。\n・中国、南北朝時代の記録に記される「倭の五王」のうち「武」とされる。\n・養蚕を奨励、周辺諸国を攻めて勢力を拡大したと伝えられる。 (credit:Wikimedia)
22代 清寧(せいねい)天皇(20 of122)
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・在位:480年-484年\n・雄略天皇の子。\n・生来より白髪だったという。\n
23代 顯宗(けんぞう)天皇(21 of122)
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・在位:485年-487年\n・履中天皇の孫、(履中天皇長子の市辺押磐皇子の子)。\n・父、市辺押磐皇子(履中天皇の長子)が雄略天皇に殺害されたため、兄の億計王とともに逃亡する。\n・億計王とともに、子がいなかった清寧天皇の皇子となる。\n・清寧天皇崩御後、皇太子だった億計王が即位を固辞したため即位。この時、兄の億計王は皇太子のままとなる。\n・天皇の兄が皇太子となった唯一の事例。
24代 仁賢(にんけん)天皇(22 of122)
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・在位:488年-498年\n・履中天皇の孫、顯宗天皇の兄。
25代 武烈(ぶれつ)天皇(23 of122)
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・在位:498年-506年\n・仁賢天皇の子。\n・『日本書紀』によると、「頼りに諸悪を造し、一善も修めたまはず」と、暗君として記される。\n・『日本書紀』には、「妊婦の腹を割いて胎児を見た」「人の生爪を抜いて、芋を掘らせた」「人間を水路に入らせて、矛で刺し殺して楽しんだ」「人間を木に登らせて弓で射落し笑った」などのエピソードが描かれている。
26代 繼體(けいたい)天皇(24 of122)
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・在位:507年-531年\n・武烈天皇が後継を定めずに崩御。応神天皇の5世の子孫、男大迹王が58歳で即位した。\n・皇后は仁賢天皇の子、武烈天皇の姉(または妹)だった手白香皇女
27代 安閑(あんかん)天皇(25 of122)
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・在位:531年-535年
28代 宣化(せんか)天皇(26 of122)
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・在位:535年-539年
29代 欽明(きんめい)天皇(27 of122)
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・在位:539年-571年
30代 敏達(びだつ)天皇(28 of122)
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・在位:572年-585年
31代 用明(ようめい)天皇(29 of122)
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・在位:585年-587年 (credit:Wikimedia)
32代 崇峻(すしゅん)天皇(30 of122)
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・在位:587年-592年\n・有力豪族の蘇我馬子によって暗殺される。臣下によって暗殺された唯一の天皇とされる。
33代 推古(すいこ)天皇(31 of122)
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・在位:592年-628年\n・初の女性天皇。厩戸皇子(聖徳太子)を皇太子とし、摂政に任じた。 (credit:Wikimedia)
34代 舒明(じょめい)天皇(32 of122)
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・在位:629年-641年\n・当時、政治の実権は蘇我蝦夷が握っていた。\n・初の遣唐使を送った。
35代 皇極(こうぎょく)天皇(33 of122)
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・在位:642年-645年\n・史上2人目の女性天皇。舒明天皇の皇后、天智天皇と天武天皇の母。\n・645年に「乙巳の変」がおこり、中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我入鹿らを滅ぼす。\n・645年、孝徳天皇に譲位。日本史上初の譲位とされる。\n\n(※重祚して第37代の斉明天皇となった) (credit:Wikimedia)
36代 孝徳(こうとく)天皇(34 of122)
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・在位:645年-654年\n・中大兄皇子を皇太子とし、中臣鎌足を引き立てた。「大化改新」期の天皇。
37代 齊明(さいめい)天皇(35 of122)
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・在位:655年-661年\n・孝徳天皇崩御後、中大兄皇子が即位を固辞したため、皇極天皇が再び皇位に。「齊明天皇」となった。\n・日本初の重祚(退位した天皇が再び天皇に即位)となった。 (credit:Wikimedia)
38代 天智(てんじ)天皇(36 of122)
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・在位:668年-671年\n・中大兄皇子として知られ、645年に中臣鎌足らとともに皇極天皇の御前で蘇我入鹿を暗殺するクーデターを起こす(乙巳の変)。\n・皇太子として「大化改新」を実施した。\n・国土防衛のため防人などを設置し、日本最古の全国的な戸籍「「庚午年籍」を作成した。\n・水時計を設け、民に時を知らせた。 (credit:Wikimedia)
39代 弘文(こうぶん)天皇(37 of122)
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・在位:671年-672年\n・天智天皇の子。大友皇子。\n・壬申の乱(672年)で叔父の大海人皇子(天武天皇)に敗北し自害。在位期間はわずか半年ほどだった。\n・在位が短期間だったことから、即位式をおこなって即位したのか、おこなわないうちに自害したのか争点となっている。\n・明治3(1870)年に諡号を贈られ、弘文天皇と呼ばれるようになった。\n (credit:Wikimedia)
40代 天武(てんむ)天皇(38 of122)
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・在位:673年-686年\n・舒明天皇と皇極(斉明)天皇の子、天智天皇の弟。大海人皇子として知られる。\n・皇后はのちの持統天皇、妃に額田王など。\n・『万葉集』に収められた和歌から天智天皇、天武天皇、額田王は三角関係だったのではという俗説がある。\n・壬申の乱(672年)で甥の大友皇子を破り、天武天皇となる。\n・神道を確立。仏教を保護した。\n・皇后(持統天皇)の病気平癒を祈願し、薬師寺を建立した。\n・初めて「天皇」の称号と「日本」の国号を使用したとされる。\n・『日本書紀』と『古事記』の編纂を命じたとされる。 (credit:Wikimedia)
41代 持統(じとう)天皇(39 of122)
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・在位:690年-697年\n・天武天皇の皇后。女性天皇。\n・天武天皇からの政策を引き継ぎ、「飛鳥浄御原令」を制定、施行。藤原京の造営に携わる。\n・刑部親王や藤原不比等らに法令集「大宝律令」の編纂を命じた。\n・『日本書紀』では「深沈で大度」「礼を好み節倹」「母の徳あり」と描かれる。\n・天武天皇の長子である大津皇子に謀反の罪を着せ、死に追いやったとされる。\n・小倉百人一首に「春すぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香具山」の歌が採られる。\n・文武(もんむ)天皇に譲位した。 (credit:Wikimedia)
43代 元明(げんめい)天皇(40 of122)
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44代 元正(げんしょう)天皇(41 of122)
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(credit:Wikimedia)
45代 聖武(しょうむ)天皇(42 of122)
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(credit:Wikimedia)
46代 孝謙(こうけん)天皇(43 of122)
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(※重祚して48代 稱德天皇となった) (credit:Wikimedia)
47代 淳仁(じゅんにん)天皇(44 of122)
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48代 稱德(しょうとく)天皇(45 of122)
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(credit:Wikimedia)
49代 光仁(こうにん)天皇(46 of122)
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50代 桓武(かんむ)天皇(47 of122)
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51代 平城(へいぜい)天皇(48 of122)
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52代 嵯峨(さが)天皇(49 of122)
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53代 淳和(じゅんな)天皇(50 of122)
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54代 仁明(にんみょう)天皇(51 of122)
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55代 文徳(もんとく)天皇(52 of122)
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56代 清和(せいわ)天皇(53 of122)
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57代 陽成(ようぜい)天皇(54 of122)
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58代 光孝(こうこう)天皇(55 of122)
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59代 宇多(うだ)天皇(56 of122)
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60代 醍醐(だいご)天皇(57 of122)
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61代 朱雀(すざく)天皇(58 of122)
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62代 村上(むらかみ)天皇(59 of122)
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63代 冷泉(れいぜい)天皇(60 of122)
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64代 圓融(えんゆう)天皇(61 of122)
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65代 花山(かざん)天皇(62 of122)
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66代 一条(いちじょう)天皇(63 of122)
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67代 三条(さんじょう)天皇(64 of122)
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68代 後一条(ごいちじょう)天皇(65 of122)
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69代 後朱雀(ごすざく)天皇(66 of122)
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70代 後冷泉(ごれいぜい)天皇(67 of122)
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71代 後三条(ごさんじょう)天皇(68 of122)
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72代 白河(しらかわ)天皇(69 of122)
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73代 堀河(ほりかわ)天皇(70 of122)
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74代 鳥羽(とば)天皇(71 of122)
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75代 崇徳(すとく)天皇(72 of122)
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76代 近衞(このえ)天皇(73 of122)
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77代 後白河(ごしらかわ)天皇(74 of122)
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78代 二条(にじょう)天皇(75 of122)
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79代 六条(ろくじょう)天皇(76 of122)
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80代 高倉(たかくら)天皇(77 of122)
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81代 安德(あんとく)天皇(78 of122)
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82代 後鳥羽(ごとば)天皇(79 of122)
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83代 土御門(つちみかど)天皇(80 of122)
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84代 順德(じゅんとく)天皇(81 of122)
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85代 仲恭(ちゅうきょう)天皇(82 of122)
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86代 後堀河(ごほりかわ)天皇(83 of122)
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87代 四条(しじょう)天皇(84 of122)
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88代 後嵯峨(ごさが)天皇(85 of122)
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89代 後深草(ごふかくさ)天皇(86 of122)
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90代 龜山(かめやま)天皇(87 of122)
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91代 後宇多(ごうだ)天皇(88 of122)
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92代 伏見(ふしみ)天皇(89 of122)
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93代 後伏見(ごふしみ)天皇(90 of122)
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97代 後村上(ごむらかみ)天皇(91 of122)
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94代 後二条(ごにじょう)天皇(92 of122)
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95代 花園(はなぞの)天皇(93 of122)
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96代 後醍醐(ごだいご)天皇(94 of122)
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98代 長慶(ちょうけい)天皇(95 of122)
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99代 後龜山(ごかめやま)天皇(96 of122)
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100代 後小松(ごこまつ)天皇(97 of122)
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101代 称光(しょうこう)天皇(98 of122)
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102代 後花園(ごはなぞの)天皇(99 of122)
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103代 後土御門(ごつちみかど)天皇(100 of122)
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104代 後柏原(ごかしわばら)天皇(101 of122)
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105代 後奈良(ごなら)天皇(102 of122)
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106代 正親町(おおぎまち)天皇(103 of122)
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107代 後陽成(ごようぜい)天皇(104 of122)
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108代 後水尾(ごみずのお)天皇(105 of122)
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109代 明正(めいしょう)天皇(106 of122)
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110代 後光明(ごこうみょう)天皇(107 of122)
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111代 後西(ごさい)天皇(108 of122)
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112代 靈元(れいげん)天皇(109 of122)
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113代 東山(ひがしやま)天皇(110 of122)
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114代 中御門(なかみかど)天皇(111 of122)
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115代 桜町(さくらまち)天皇(112 of122)
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116代 桃園(ももぞの)天皇(113 of122)
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117代 後桜町(ごさくらまち)天皇 (114 of122)
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118代 後桃園(ごももぞの)天皇(115 of122)
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119代 光格(こうかく)天皇(116 of122)
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120代 仁孝(にんこう)天皇(117 of122)
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121代 孝明(こうめい)天皇(118 of122)
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122代 明治天皇(119 of122)
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123代 大正天皇(120 of122)
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124代 昭和天皇(121 of122)
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Hirohito, the 124th Emperor of Japan, is photographed in 1949. Hirohito was born in Tokyo in 1901 and reigned the Showa era, the longest in Japanese history, from 1926 until his death in 1989. In 1946 he gave up his legendary divinity and most of his powers to become a democratic constitutional monarch. In 1971 he met with the U.S. president in Anchorage, Alaska, marking the first trip abroad for a reigning emperor. (AP Photo) (credit:ASSOCIATED PRESS)
125代 今上天皇(122 of122)
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Japan\'s Emperor Akihito waves to a crowd of well-wishers during a morning appearance through the bulletproof glass of a balcony at Imperial Palace in Tokyo Tuesday, Dec. 23, 2008. Emperor Akihito turns 75 amid intense public interest in the health of his royal family. (AP Photo/Koji Sasahara) (credit:ASSOCIATED PRESS)


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