日本の相撲「日本」と「外国」を越える次の一手に期待

喜びたい気持ちは解るが、例えば日本の国籍を取得して角界で活躍し、日本相撲を牽引している外国にルーツのある力士らに対しての配慮はどうか。
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相撲界におけるこのような盛り上がりは久しぶりである。

それもそのはず、日本生まれの力士が優勝を果たしたのは、実に10年ぶりで、2006年の初場所の大関栃東以来となると嬉しくなる「日本人」の気持ちも理解できる。

「10年ぶりの日本人の優勝」とメディアも日本を盛り上げている。日本生まれの力士が優勝するのはいつの間にか珍しくなってきていることに改めて気づかされる。

この10年間に開かれていた58場所において、56場所はモンゴル出身の力士が、残り2回はそれぞれブルガリアとエストニア出身の力士が優勝を果たした。この10年間、日本の相撲人気を引っ張って来た外国出身力士の苦労と活躍を労い、日本出身者として長いブランクを経て優勝を果たした琴奨菊をも祝福したい。

近い過去を振り返っても、日本の相撲で優勝出来るのは、外国生まれだからでも、日本生まれだからでもなく、周りの応援に包まれて、力士自らが弛まぬ努力を重ねる中で、心身に宿った普遍的な強さによるものだと私たちが教えられた。

この10年は失われた期間では決してなく、日本の相撲が一回り大きく成長して前進した時期だったと歴史に刻まれるに違いない。相撲界は、国際化の中でそれまでの「日本一の力持ち」から、「世界一の力持ち」を選び、楽しめる競技へと進化を遂げた。

世界からやって来て角界を志す者を見ても、今後も国際化との抱き合わせで相撲を楽しむことが求められている。日本の相撲人気を支える外国からの観光客などの存在も忘れるわけにはいかない。

相撲には「健康と力に恵まれた男性が神前にてその力を尽くし、神々に敬意と感謝を示す行為とされる」神事としての側面があると、力士としての外国出身者に門戸を開くことに躊躇した過去もある。

しかし日本の神々は日本生まれでないと困ると言うような心狭き存在とは考えにくい。むしろ世界から選ばれた力士に敬意と感謝を表してもらった方が神々もより嬉しいのではないか、と素人ながら思う。

私などの僅かな在日期間の中でも日本文化としての相撲、そして来日時期とも重なった国際化の中での日本相撲を大いに堪能した。千代の富士と小錦、小錦と舞の海、小錦と若貴兄弟、曙と若貴兄弟の対決などが未だ鮮明に脳裏に焼き付いている。

小錦や曙が土壌に上がっていた時代と現在とは、日本人の受け止め方も変わった。当時は、外国出身の力士とも互角に渡り合える日本出身の力士が多く存在した。その点、多くの強い日本出身力士の登場に今後も期待したい。

しかし、日本における今回の「10年ぶりの日本人の優勝」という妙な盛り上がりは幼稚と思われても、民族主義を煽っていると指摘されても仕方がない。喜びたい気持ちは解るが、例えば日本の国籍を取得して角界で活躍し、日本相撲を牽引している外国にルーツのある力士らに対しての配慮はどうか。

相撲を観る側にも報道する側にも、今後は広い視野と品格を期待したい。

日本の角界に心身を捧げた初の外国出身の力士である高見山、後の東関親方の功績を忘れることは出来ない。自ら関脇として活躍しただけではなく、初の外国出身の親方となり、初の外国出身の大関小錦と外国出身で初の横綱曙を育て上げた。近年では愛嬌たっぷりのキャラクターで愛されている高見盛の生みの親でもある。

2009年に引退を果たした東関親方と言えば「二倍二倍」のセリフがあまりにも有名。高見山は、この日本の地で日本人より二倍苦労し、二倍喜びを味わった。その点、彼は相撲を二倍楽しんだ最初の相撲ファンなのかもしれない。

次は私たちの番と思いたい。高見山が「日本」を受け入れる苦労から喜びを得たように、今度は、日本が心の底から外国出身者を日本人として受け入れるよう努力し、その上での喜びを模索してもらいたい。そこで初めて私たちも、高見山関と同じように、相撲を「二倍」楽しめる境地に至るに違いない。

「二倍」と言えばもう一つ、今後はダブルの力士の登場も期待したい。

そのことがこの国のメディアも人びとも、力士に対して「日本」対「外国」などと狭き心を抱いてしまう状況から解放させ、心置きなく相撲を楽しむことに導いてくれることでしょう。

かつての大横綱大鵬もダブルであった。その点、これは相撲界の真新しい歴史の一ページとしてのダブルの力士の登場を期待するというよりも、日本中が無邪気に「巨人・大鵬・卵焼き」などと相撲を心の底から楽しんだ昭和のような良き時代の再来への期待の方が大きい。

言わずして相撲界は日本社会全体の縮図であり、相撲界を通して見えてくる景色は日本全体にも大いに当てはまる。