マクロン氏が39歳でフランス史上最年少の大統領に。一方、イギリスの史上最年少首相は〇歳だった

他の国の最年少の首相や大統領はどんな人物なのだろうか。イギリス、アメリカ、ドイツ、日本の例を紹介しよう。
|
Open Image Modal
HuffPost Japan

フランス大統領選で勝利が確実となったエマニュエル・マクロン氏は現在39歳。フランス史上最年少の大統領となる。

これまで最年少のフランス大統領は、「40歳」で大統領に就任したルイ・ナポレオン(任1848〜52)だった。

(※ルイ・ナポレオンは、ナポレオン・ボナパルトの甥。皇帝ナポレオン3世[位1852〜70])。

では、他国の最年少の首相や大統領はどんな人物なのだろうか。イギリス、アメリカ、ドイツ、日本の例を紹介しよう。

■イギリス史上最年少の首相は?

ウィリアム・ピット(小ピット)(任1783〜1801、1804〜1806)

Open Image Modal

ジョージ3世治世下の1783年、弱冠24歳でイギリス(当時はグレートブリテン王国)の首相に就任。翌年の総選挙に勝利し、およそ20年にわたってイギリス政治を指導。アメリカ独立戦争(1775〜1783)で疲弊した国家財政の再建に尽力した。

外交では、フランス革命におけるルイ16世の処刑をきっかけにフランスと断交。革命の波及を警戒する諸外国とともに「対仏大同盟(第1回〜第3回)」を結成。一貫してフランスに対抗し、ナポレオンとも対峙した。

■アメリカ史上最年少の大統領は?

セオドア・ルーズベルト(任1901〜09)

Open Image Modal

マッキンリー大統領の暗殺を受けて、42歳10カ月で副大統領から昇格した。国内では「革新主義」を掲げ、「シャーマン反トラスト法」を発動。独占資本を規制するなどの改革を実施した。

対外的には、「棍棒外交」と呼ばれるカリブ海政策をとり、パナマ運河着工など帝国主義政策を進めた。また、日露戦争(1904〜05)の講和条約「ポーツマス条約」を調停し、ノーベル平和賞を受賞した。

(※史上最年少の大統領当選者はジョン・F・ケネディ。43歳だった)

■ドイツ史上最年少の首相は?

ヨーゼフ・ヴィルト(任1921〜22)

Open Image Modal

第一次世界大戦後、ヴァイマル共和国時代の首相。1921年に41歳で首相に就任。「履行政策」のため、連合国がドイツに課した巨額の賠償金を受け入れたが、右派から非難を受けた。対外的には、国際的に孤立していたソ連に接近しラパロ条約を締結した。

(※「ドイツ連邦共和国」の成立以降では、51歳で就任したアンゲラ・メルケル首相が最年少)

■では、日本の史上最年少の首相は?

伊藤博文(任1885〜88、92〜96、98、1900〜01)

Open Image Modal

明治時代の政治家。山口県出身。1885年、内閣制度の創設に伴い、44歳で日本の初代首相に就任。明治憲法制定の中心として活躍。立憲政治への道を開いた。晩年は元老として影響力を保ち、日露戦争後には初代の韓国統監に就任。1909年、ハルビン駅頭で暗殺された。

※参考文献:山川出版社『世界史小辞典』、山川出版社『世界史B用語集』、山川出版社『日本史小辞典』、山川出版社『日本史B用語集』

▼画像集が開きます▼

写真で振り返る第二次世界大戦
(01 of34)
Open Image Modal
1938年9月29日、ミュンヘン会談。左から英首相チェンバレン、仏首相ダラディエ、独総統ヒトラー、伊首相ムッソリーニ。チェコスロヴァキアのズデーテン地方の帰属を主張したヒトラーに対して、イギリスおよびフランスは「これ以上の領土要求を行わない」との約束をヒトラーと交わす代償として、ヒトラーの要求を全面的に認めた。
(02 of34)
Open Image Modal
ミュンヘン会談から帰国し、会見するチェンバレン英首相。戦争回避にわきたったが、のちにヒトラーはミュンヘン会談の内容を破棄。第二次世界大戦がはじまった。 (credit:Wikimedia)
(03 of34)
Open Image Modal
1939年、独ソ不可侵条約に署名するドイツのリッベントロップ外務大臣。後列最右はソ連の最高指導者ヨシフ・スターリン。 (credit:Wikimedia)
(04 of34)
Open Image Modal
1939年9月1日、ドイツ軍のポーランド侵攻で第二次世界大戦が始まった。写真はポーランド及び自由都市ダンツィヒの国境検問所を取り壊すドイツ国防軍。 (credit:Wikimedia)
(05 of34)
Open Image Modal
1939年9月、ポーランド侵攻時のブィドゴシュチュ付近におけるドイツのI号戦車 (credit:Wikimedia)
(06 of34)
Open Image Modal
1939年、ドイツ及びソ連の東ヨーロッパにおける新領土併合後に握手する両国の将校 (credit:Wikimedia)
(07 of34)
Open Image Modal
バトル・オブ・ブリテン時のドイツ空軍のハインケル He111爆撃機 (credit:Wikimedia)
(08 of34)
Open Image Modal
1940年12月29日、ドイツによる「ザ・ブリッツ(ロンドン空襲)」後のロンドン (credit:Wikimedia)
(09 of34)
Open Image Modal
1941年8月、北アフリカ戦線、トブルク包囲戦の前線の塹壕を受け持つイギリス連邦軍のオーストラリアの部隊 (credit:Wikimedia)
(10 of34)
Open Image Modal
1941年12月、真珠湾攻撃。日本軍の空母「翔鶴」上の零式艦上戦闘機。 (credit:Wikimedia)
(11 of34)
Open Image Modal
1941年12月7日、日本軍による空からの奇襲に遭う米戦艦「アリゾナ」 (credit:Wikimedia)
(12 of34)
Open Image Modal
1942年12月10日、レニングラード包囲戦のドイツの爆撃による破損家屋を去るソ連の民間人 (credit:Wikimedia)
(13 of34)
Open Image Modal
ミッドウェー海戦。爆撃機による攻撃を受ける日本空母「飛龍」 (credit:Wikimedia)
(14 of34)
Open Image Modal
1942年、太平洋戦域のガダルカナル島の戦いにおけるアメリカ海兵隊 (credit:Wikimedia)
(15 of34)
Open Image Modal
1943年1月のカサブランカ会談。アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルト大統領とイギリス首相ウィンストン・チャーチル (credit:Wikimedia)
(16 of34)
Open Image Modal
1943年2月、スターリングラード攻防戦で対独反撃に出るソ連軍。 (credit:Wikimedia)
(17 of34)
Open Image Modal
1943年10月9日、ドイツのフォッケウルフの工場に対するアメリカ第8空軍によるB-17の爆撃 (credit:Wikimedia)
(18 of34)
Open Image Modal
1943年8月のクルスクの戦い。ドイツの拠点への反撃に出るT-34に続くソ連軍 (credit:Wikimedia)
(19 of34)
Open Image Modal
1943年のカイロ会談。左から、中華民国の蒋介石総統、アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領、イギリスのウィンストン・チャーチル首相。連合国の対日方針などが定められた。 (credit:Wikimedia)
(20 of34)
Open Image Modal
1943年11月テヘラン会談。米英ソの首脳が初めて一堂に会した会談。ナチス・ドイツに対する第二戦線の形成で合意。フランスへの連合軍の上陸などが首脳間で調整され、ノルマンディー上陸作戦へと繋がった。 (credit:Wikimedia)
(21 of34)
Open Image Modal
1943年のギルバート・マーシャル諸島の戦いにて、米海軍のUSSワシントン及びUSSレキシントン上空を哨戒するSBDドーントレス (credit:Wikimedia)
(22 of34)
Open Image Modal
「大東亜会議」に参加した各国首脳陣 (credit:Wikimedia)
(23 of34)
Open Image Modal
1944年5月イタリア戦線。「モンテ・カッシーノの戦い」の舞台となったモンテ・カッシーノ修道院跡\n (credit:Wikimedia)
(24 of34)
Open Image Modal
1944年6月6日、D-デイのノルマンディー上陸作戦でオマハ・ビーチに接近するアメリカ軍 (credit:Wikimedia)
(25 of34)
Open Image Modal
1944年8月、ナチスの占領に対するパルチザンの暴動を鎮圧する任務を負うドイツのSS武装擲弾兵師団 (credit:Wikimedia)
(26 of34)
Open Image Modal
1944年、マリアナ沖海戦にて攻撃を受ける日本の空母「瑞鶴」及び2隻の駆逐艦 (credit:Wikimedia)
(27 of34)
Open Image Modal
1944年6月21日のサイパン・ガラパンにて、山砲で攻撃する海兵隊 (credit:Wikimedia)
(28 of34)
Open Image Modal
特別攻撃隊の2機に衝突され炎上するUSSバンカー・ヒル。沖縄では、4,900人のアメリカ人死亡者数を出した。 (credit:Wikimedia)
(29 of34)
Open Image Modal
1945年2月、ヤルタ会談にて、ウィンストン・チャーチル、フランクリン・ルーズベルト及びヨシフ・スターリン\n (credit:Wikimedia)
(30 of34)
Open Image Modal
1945年6月3日、連合国による占拠後のドイツの国会議事堂\n (credit:Wikimedia)
(31 of34)
Open Image Modal
1945年8月6日、広島に原爆投下 (credit:Wikimedia)
(32 of34)
Open Image Modal
1945年8月、ポツダムに集まった3ヶ国首脳。前列左からアトリー、トルーマン、スターリン。後列左からリーヒ参謀長、ベヴィン英外相、バーンズ米国務長官、モロトフソ連外務人民委員。 (credit:Wikimedia)
(33 of34)
Open Image Modal
1945年8月9日、長崎に原爆投下 (credit:Wikimedia)
(34 of34)
Open Image Modal
1945年9月2日、USSミズーリ艦上にて日本の降伏文書に署名する重光葵外務大臣 (credit:Wikimedia)


【※】スライドショーが表示されない場合は→こちら