3.11から3年に思う

2011年3月11日午後2時46分。私は国会で取材中にあの激しい揺れを体験した。大きく揺れるシャンデリア、植木鉢が倒れ、女性国会職員が悲鳴を上げた。
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2011年3月11日午後2時46分。私は国会で取材中にあの激しい揺れを体験した。大きく揺れるシャンデリア、植木鉢が倒れ、女性国会職員が悲鳴を上げた。その時、国会には菅直人首相(当時)以下、閣僚全員が参院予算委員会室にいた。まさに日本の中枢を固めた政治家全員が同じ場所で巨大地震を体験したことになる。早朝の地震で「初動」が問題視された阪神・淡路大震災とはそこが決定的に違った。

しかし、その状況を菅政権は生かすことなく初動で再び遅れをとった。大きな揺れが収まった後、私は真っ先に国会2階にある与党民主党国対委員長室に飛び込んだ。政権与党の対応を確認するためだった。だが、入室してすぐに暗然たる思いに駆られた。

「これで大地震を乗り切れるのか」

多くの議員が顔を揃えていたが指揮命令系統ははっきりせず、右往左往するばかり。委員会審議が打ち切られて菅首相ら閣僚が官邸に戻って緊急対策本部が設置されたが、場当たり的な対応に終始した。以来、どれだけの「本部」や「会議」が設置されたことか。私はこれを「ハコモノ政治」と名付けている。会議や本部ができると、それでひと仕事終わったことになってしまうからだ。やがて何のために設置したのかさえ見えなくなる。東日本大震災には東京電力福島第1原子力発電所事故という人類歴史上最大の原発事故も発生した。その被害の広域性、困難性は今も変わることがない。

いずれにせよ無為とも言ってもいい時間が経過した。大震災から3年で日本の首相は菅氏に始まり、野田佳彦氏、そして安倍晋三首相へと変わり3内閣を数える。確かに安倍首相は経済の再生と並んで東日本大震災の復興を最優先課題に掲げ、首相自身も月に1度のペースで被災地入りしている。3月8日にも福島県入りした。首相の現地入りは就任以来13回になった。首相は「復興が前に進み始めた」と記者団に語っているが、果たしてそうだろうか。

昨年、福島県では多くの市町村選挙が行われた。その結果は相次ぐ現市長の落選だった。県都福島市をはじめ、郡山、いわき、二本松などで首長が交代した。新人が当選したからと言って国と連動した復興策が劇的に進展するとも思えない。むしろ多くの住民は進まない復興や被災者間に生まれた新たな格差に対する不満のはけ口を選挙に求めたのではないか。

「もう3年なのか」それとも「まだ3年なのか」は人それぞれ受け止めが違う。安倍内閣の閣僚として復興を担う太田昭宏国土交通大臣はこう語っている。

「人の幸福の形は個々人によって全く違うことをこの3年間で痛感した。復興への取り組みも県や市町村によってまだら模様だ。その最大公約数をどこに求めるのか」

大震災から3年を経てなお誰からも、どの場所からもはっきり見える「高くて大きな灯台」がまだ見えていない。関東大震災を帝都復興院総裁として乗り切った後藤新平の出現を望んでも始まらないが、今からでも遅くはない。政府は今後の1世紀先を見据えたグランド・デザインを改めて描くべきではないか。もちろんその核をなすのが福島第1原発の廃炉への具体的な行程表であることは言うまでもない。(ジャーナリスト・後藤謙次)