ギリギリだった駐韓大使「帰任」のタイミング

2017年1月から一時帰国していた長嶺安政駐韓大使が4月4日夜、帰任した。

韓国・釜山市の日本総領事館前に慰安婦像が設置されたことへの対抗措置として、今年1月から一時帰国していた長嶺安政駐韓大使が4月4日夜、帰任した。岸田文雄外相は3日、帰任の理由について「5月9日の大統領選挙を控え、次期政権誕生に備えた情報収集」と「北朝鮮問題に対処するうえでの日韓の緊密な情報交換と連携の必要性」を挙げ、菅義偉官房長官は「諸般の事情を総合的に検討した結果であり、邦人保護に万全を期すとの観点も踏まえたもの」と説明している。

一時帰国から3カ月、そもそもなぜここまで長引いたのか。そしてなぜこのタイミングだったのか。朝鮮半島政治が専門の小此木政夫・慶應義塾大学名誉教授に聞いた。

「今しかなかった」

大使を帰任させた当初は、ここまで長期化させるつもりではなかったのではないか。1~2週間の「一時帰国」で韓国側が折れ、釜山の少女像は撤去されるだろうと、政府は読んでいたはずだ。

ところが韓国政府は、朴槿恵(パク・クネ)大統領のスキャンダルで、当事者能力を失っていた。そこに「一時帰国」という対抗措置をとることに意味があったのか。結局3カ月も引っ張ったうえ、少女像もそのまま。質のいい外交とはいえない措置だった。

その意味で帰任は当然の措置なのだが、ギリギリ最後のタイミングだった。外相や官房長官は大統領選挙と北朝鮮問題を理由に挙げているが、これはもっともな話で、まさに今しかなかった。

北朝鮮の瀬戸際政策への対応

1993年1月、アメリカではビル・クリントン氏が大統領に就任し、2月には韓国で金泳三(キム・ヨンサム)政権が発足、そして3月には米韓合同軍事演習が行われた。そんな中、北朝鮮はNPT(核拡散防止条約)から脱退し、「核開発」を武器に、アメリカを相手に瀬戸際政策を展開した。結局翌年10月に米朝枠組み合意が成立。これは北朝鮮にとって大きな成功体験になった。

実は現在は、この第1次核危機と非常によく似た状況になっている。1月にスタートしたトランプ政権の新政策が固まる前に、北朝鮮は「核ミサイル」をちらつかせて米朝交渉を迫る、という瀬戸際政策を始めているのだ。アメリカは対北朝鮮政策が整っていない段階で、何らかの決断をせざるをえないところに追い込まれており、軍事的なオプションの可能性さえ取り沙汰される状況になっている。

そういったときに駐韓大使が韓国に不在だというのは、日本にとってはきわめて不利だ。その意味で、帰任はギリギリのタイミングだった。

新政権に日韓合意の履行を迫る

駐韓大使には、さらに大きな任務がある。それは慰安婦問題を巡る日韓合意の履行を迫ることだ。

先にも述べたように、大統領が不在の現政権には当事者能力はない。もちろん黄教安(ファン・ギョアン)大統領代行に対して引き続き履行を促すことも重要だが、より大事なのは、5月9日の選挙の結果誕生する新政権に「日韓合意を守る」と言わせることである。

今のところ、大統領選の有力候補者たちは全て、日韓合意の破棄や再交渉を主張している。つまり日韓合意をあまりにも軽く考えているのだ。そうした候補者や側近に対して、日本側の真意を今のうちから伝える必要がある。

それは新政権が発足してからでもいいではないか、と考えるむきがあるかもしれないが、それでは遅い。当選直後の大統領は、任期の中でもっとも強く国民に訴えることのできる時期である。必要なのは、大統領が「日韓合意は守らなければならない、それを反故にすることは国際合意や国際儀礼に反すること」と国民を説得することなのだ。そのためには、選挙戦中から候補者にアプローチする必要があり、それができるのは大使だけなのである。

その意味でも、大使の帰任はこの時期ではならなかったのだ。

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(2017年4月6日「フォーサイト」より転載)