「忖度」、そして「政治主導」

「忖度」、そして「政治主導」。どちらも昨今、巷を賑わしている言葉です。

「忖度」、そして「政治主導」。

どちらも昨今、巷を賑わしている言葉です。

忖度の意は、他者の気持ちを推し量ること。

「以和為貴(和を以て貴しと為す)」を旨とする日本社会においては、尊重されるべき美風のはずですが、森友&加計学園報道で多用されるや、すっかり後ろ暗いイメージが定着してしまいました。

政治主導も然りで、本来は「省益あって国益なし」と揶揄されるほど国家戦略性に乏しく、透明性に欠けていた日本の政治を、国民の代表である政治家がリードすることで抜本的に改革しようという、高邁かつ純粋な志のもとで実行されたはず。

それが、いつの間にやら政治主導は官邸主導にすり替わり、モリだのカケだの蕎麦屋の出前じゃあるまいし、総理および総理側近とお友達の手前勝手が通るシステムになり下がったかのような、負の印象を世間に持たれるようになってしまいました。

報道がヒートアップしてくると、「総理夫人は籠池氏に100万円渡したのか」とか「『総理のご意向』と書かれた内部文書が文科省にあったのか」といったスキャンダラスなディテールに問題の論点がすぐにズレてしまうのが日本人の悪いクセだと思うのですが、森友・加計学園問題で明らかにすべきことはただ一つ。

疑義を持たれているような政策決定の結果、税金の無駄遣いがあったのかなかったのか、税金を支払っている国民に対し損害が与えられたのか否かの、その一点であると私は思います。

たとえ超右翼教育を施す小学校に、積算根拠を示す公的データも保存しないまま8億円値引きして土地が払い下げられ、異例の超特急で認可が与えられたとしても、たとえ長年新設が見送られていた獣医学部が、たった2ヶ月の急展開で突如設置が認められ、そこに36億円もの土地が市から無償譲渡されたとしても、たとえその主たる受益者が総理やその夫人に近しい人物だとしても、その結果が税金の負担者である国民の利益になるのであれば、それはそれで良い政策決定であったと思います。

しかし、沢山の税金を投入してやってみたらダメでした...では困るので、民主主義の世の中では、政策決定に至るプロセスで様々な審査や手続きを経て、数多くの人々から客観的な評価を受け、公明正大に物事を決めるのが良しとされている訳です。

そうした手続きやプロセスを、今回のモリ・カケ問題のように吹っ飛ばすと、なぜ私たちの支払った巨額の税金が使われるというのに、通常の手続きが何段階も割愛されたのか?とか、なぜ政策決定の根拠となったデータなどの情報を政府は示せないのか?などと、一般国民はとても不思議に思います。

そこにもって、「事務次官」という社会的信頼性が高いとされる役職についこの間まで就いていた人物までもが、政策決定に対し官邸からの圧力があったと公言してしまったら、なけなしの給与から血税を国や地方自治体に託している一般市民としては、とても不安になってきます。

私はかつて国会議員として6年間、永田町で仕事をしました。

日本の科学技術政策の果実である研究成果を実用化につなげ、その恩恵を納税者に還元するシステム整備のための「研究成果実用化促進法案」という議員立法を、数多くの研究開発の関係者や衆議院事務局あるいは官僚の方々のサポートをいただいて策定しましたが、遂に上程に至らなかったことは、今も痛恨の極みです。

ただ私はたまたま偶然が重なった結果、特定の利権組織や派閥、あるいは地域に属することなく国会議員となることができたので、国民益に背くと思うような政策に対しては同調せず、自分の意思を貫くことができました。

しかし、特定の利権組織や団体の票や資金の提供を受けずに選挙を勝ち抜くこと(それ以前に、立候補することすら)は、きわめて困難なことです。

特定の組織・団体の利権代表となることを受け入れられぬまま私は、未だ国会に戻ることなく五十路半ばを迎えてしまいました。

6年間という参議院議員としての任期終盤に、小泉政権が誕生し、その高い支持率を背景に「政治主導」なるものを実現しました。

「利権構造をぶっ壊す、利権にまみれた自民党をぶっ壊す」と、分かりやすくキャッチーな一言ワードで、国民に直接訴えかけた小泉首相。

しかしその任期中に利権構造は壊されることなく、大雑把に言えば旧経世会から清和会へと移譲され、官僚が握っていた権力は見事に官邸へと移行されました。

官僚から官邸へと権力の中枢が移行したことにより、政策決定のプロセスは格段に"不透明感"を増したことを、昨日のことのように記憶しています。

小泉首相がぶっ壊したのは利権構造ではなく、自民党内にあった政務調査の機能でした。

確かに自民党政務調査会は、ほぼイコール霞が関でありましたが、そこでは議員と官僚がまさにガチで議論し切磋琢磨しながら、一つの法案、一つの政策を命を懸け身体を張って策定して行くという、熱気あるプロセスが存在しました。

多くの皆さんが驚かれると思いますが、小泉政権前の自民党内では、文字通り自由で民主的に各法案や予算、税制について議員たちが侃侃諤々、議論を行うことができました。

たとえ新人議員でも大臣経験者に臆することなく物申すことができましたし、しかもその意見が正論であれば新人議員の意見が採用されるという民主的な気風が醸成されていました。

自民党という一つの政党の会議室で、内閣が上程する政策が事実上決定されるということは正しい姿とは思えませんが、少なくとも多くの議員がその会議で自由に発言し論議でき、またその過程をジャーナリズムもある程度取材することができました。

現在のように、官邸という密室で限られたメンバーのみにしか情報が開示されぬまま政策決定が為され、それが数の力で国会を通過して行くことはありませんでした。

小泉政権による政治主導という名の官邸主導が始まり、自民党政務調査会は風船が萎むように生気を失い、単なる族議員たちの"ガス抜き"の場へと変貌してしまいました。

政治主導と官邸主導は、まったく異なります。

官邸主導には、正当な評価も透明性も存在しません。総理という個人の意向で集められた限られたメンバーが情報公開を行わないまま、事実上政策を決定し、官僚を含めた政府内の主要人事まで決定してしまえば、お手盛りや忖度による不正を阻止する機能はないも同然です。

聖徳太子が十七条の憲法の第一条に記した「和を以て貴しと為す」とは、それに続く一文を読み進むと以下のようなことが説かれています。

それは決して、「その場を丸くおさめ波風立てないためには、強者に忖度しましょうね」ということではなく、「世の中何かと利害による派閥があるし、物の道理をわきまえた人間なんてそんなにいないから、上下関係などにとらわれずまずは"議論"を尽すことが肝心。そうすれば自ずと理にかなって、事を成すことができるもの」と記されています。

政策決定プロセスの透明性を高め、各段階で議論の場を確保し、その経過と結果を公開すること。

あまりに単純なことかもしれませんが、聖徳太子の言葉通り、今そのことが何より大切な時代になっているのではないでしょうか。