フォトジャーナリスト・嘉納愛夏が歩いた戦場 「そこに、あなたがいた」 大規模災害で死ぬということ

亡くなった後、自分の遺体をどのように扱われたいか考える人はどれくらいいるだろうか。私自身は墓は要らないし葬式もしなくていい。野垂れ死にを想像し、崖から吊るされて鳥についばまれるのが生態系としていいのではないだろうか、と30代半ば頃まで考えていた。いわゆる日本人の「常識」から大きく乖離していることはわかっていたが、常識ほどあてにならないのも知っていた。「普通」に「病院」で死ねば恭しく弔われ、家族に引き取ってもらって通夜葬儀火葬納骨と続くだろうが、もし旅先でアクシデントに巻き込まれれば…? いくつかの災害現場で遭遇した現実を詳らかに記したい。
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嘉納愛夏

亡くなった後、自分の遺体をどのように扱われたいか考える人はどれくらいいるだろうか。私自身は墓は要らないし葬式もしなくていい。野垂れ死にを想像し、崖から吊るされて鳥についばまれるのが生態系としていいのではないだろうか、と30代半ば頃まで考えていた。いわゆる日本人の「常識」から大きく乖離していることはわかっていたが、常識ほどあてにならないのも知っていた。「普通」に「病院」で死ねば恭しく弔われ、家族に引き取ってもらって通夜葬儀火葬納骨と続くだろうが、もし旅先でアクシデントに巻き込まれれば…? いくつかの災害現場で遭遇した現実を詳らかに記したい。

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■スリランカとタイで遭遇した身元不明の遺体

2004年末のスマトラ沖大地震から起きたインド洋大津波で、私が最初に向かったのはスリランカだった。首都コロンボから海岸線沿いに南下した。

媒体からのオーダーは「死体」、「津波でグチャグチャになった感じ」。コロンボの遺体収容所で待機していれば、遺体は簡単に撮れるのかもしれない。しかし災害現場にこだわりたかった。まして遺体を撮るならその「死に様」をきちんと写したいという思いはある。どんなに悲惨な、誰もが目を背ける状態でも、悪臭を放っていても、撮らせてもらう限りはキッチリ記録しなければ、彼・彼女らが亡くなった意味が半減してしまうような気がして、もっと正確に言えば、そこに何らかの意味を見出したかったのだ。

海岸線沿いの現場では、収容されない遺体が大量ではないが、いくつも点在し、布で包んであったり、気付かれずに瓦礫にまみれたりしていた。そのすべてに蛆が湧いている。多くはDNA検査も行われず、4~5日放置されていた状態。昔々の災害現場ではきっとこれと同じような状況が見られたことだろう。

のちに大穴を掘って複数の遺体が一緒に埋められたとも聞いた。日本人も犠牲になったヤーラ国立公園など、多くの外国人が訪れる観光地はこの限りではないが、うっかり一人旅で田舎にいたら、発見さえ難しいかもしれない。

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それとは対照的だったタイ。プーケットに程近いリゾート地であるカオラックやタクワパが現場で、犠牲者に多くの外国人が含まれていたこともあったからだろう、遺体は寺に収容されていた。ボランティアが大勢来ていて(学生が大部分を占めているようだった)、身元特定に努めていた。寺の中庭にタグ付きで並べられた遺体の周りには、腐敗を遅らせるためのドライアイスが盛られ、朝陽を浴びた白い霧がたなびき、包み込み、幻想的に映った。

とんでもなく悲惨な状況で、それこそ凄惨な水死体しか並んでいないというのに、だ。傍では橙(だいだい)色の袈裟をまとった肉付きの良い坊主がコンパクトカメラ片手に、どう見ても興味本位で写真を撮っていた。そしてその俗な坊主をアイテムとして入れ込んで写真を撮らなければいけない自分にイラついた。

もっと崇高そうな、祈っとる坊主はおらんのか!…現実は本当にえげつない。ナマグサ坊主に自分勝手なフォトグラファー。性善説が大好きな日本人だからか、現実はそうじゃないとわかっているのにオートマチックに美談を求めてハッとした。いやいや、ないない。そんなもん欲望の坩堝アキバで無欲の聖人ガンジー探すくらい難しいわ。

軽く100を超える凄惨な遺体に圧倒されながら撮影していると、あっという間に日が高くなり、そのうちタイベックを着たボランティアたちが遺体を運んで別の場所に移し始めた。

何が始まるのかと後を追うと、広場では同じ作業が複数のチームで行われていた。台の上に載せられた遺体から、顎ごとカッターで歯の部分を切り出すのだ。歯形から「誰か」を特定するために。

当り前だが遺体が嫌だとか触りたくないとか見たくない、などと言う者は誰もいなかった。そこは紛れもなく戦場で、作業を黙々と進める医者やボランティアたちは戦士だった。全ての遺体は津波に翻弄されて傷だらけ、肌は土色または赤黒く変色し、水で膨張しており、仰向けの姿はまるで死んだカエルのかたち。口は例外なくO(オー)の字に開いていた。平成7年の阪神大震災で、向かいの家の顔見知りの人が二人亡くなってから、死体を見るたびに「これは私でもおかしくないんだなぁ」と思う。

寺の外へ出ると、イスラエル警察の鑑識班らしき一行が到着したところであった。徴兵制を敷くイスラエルでは、兵役明けにアジアを訪れる若者が多い。自国民が犠牲になったらキッチリ落とし前をつけられる国はそれほど多くはないが、イスラエルはそのひとつだろう。わが国はどうだろうか?

■ 1000キロ離れた邦人誘拐事件の「現地対策本部」

大災害からは外れるが、2004年4月にイラクで3邦人が拉致された際、日本政府外務省は逢沢外務副大臣(当時)を派遣し、隣国ヨルダンの首都アンマンに「現地対策本部」を立ち上げた。

1000km近く離れた場所が「現地」?

当時バグダッドにいた私には意味がわからなかった。そのことが批判の的にならず、拉致された側の「自己責任論」が吹き荒れていたのが不思議であったが、政府に解決する能力がないことの隠れ蓑にはいい風だっただろう。

3人は無事釈放されたが、同年10月に香田証生さん(当時24歳)が捕まった時には本当になす術がなかった。結局、首を切られて処刑される映像がインターネットで公開され、香田さんの遺体はバグダッドで発見されたのだった。

余談だが、香田さんのニュースが飛び込んでくる少し前、イラクのサマワで自衛隊の取材をした。この時はバグダッドを経由せず南の隣国クウェートからのIN&OUTだった。自衛隊の現地広報官は、情報として外国人誘拐の危険があるからと、取材に対して相当慎重で、日程はコンパクトにまとめられた。そのすぐ後に香田さんが拉致されたことを考えると、その情報はあながち間違ってもいなかったのだ。サマワとバグダッドは東京―名古屋間ほども離れているので一概には言えないが…。

海外の事件に巻き込まれたり、標的になったりした場合、金で解決できない事案も多い。そうなると助からない確率は、99%だろう。残り1%の望みは、犯人の気が変わるとか、糸を引いている組織の都合、または運良く逃げ出せるかもしれない、というなんとも不確かなものだ。

そうして死んでしまった後、現地で犯罪を追及することは難しい。ノウハウも、何としても解決したいという強引さも、日本政府にはない。

■災害現場の「遺体」を報道する意味

1995年の阪神大震災以後、私が行った現場だけでも2000年三宅島雄山噴火、有珠山噴火、2004年中越地震、2007年中越沖地震、2008年岩手・宮城内陸地震、2011年東日本大震災と、大規模災害が途切れることのない日本。そんな時、他国では自国の軍隊が救援部隊となり自国民を助けるのが普通だ。日本では自衛隊が「災害派遣」として救援に向かう。

偵察部隊から救難ヘリ、先般辛坊次郎さんを救出した救難飛行艇US-2や、輸送機や輸送艦、日本人には欠かせない浴槽付きの「野外入浴セット」、移動しながらでも食事を作ることができる「炊事具」など、自衛隊の装備のおかげで、国内では被災後比較的早い段階から最低限文化的な生活を取り戻せる。あまり知られていないが、ドクターヘリが飛べない離島や夜間などの緊急搬送も、「災害派遣」の括りで行われている。

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知っての通り、東日本大震災で自衛隊は、警察消防とともに多くの遺体を扱った。火葬の順番が回ってくるまで何日もかかるため、臨時で土葬まで行った(後に火葬)。日本ほど遺体の扱いが丁寧かつ神経質な国はない、と常々思う。

とくに現場の状況を報道する際、これでもかと遺体の写真や映像を並べる必要はまったくないが、現場に遺体がたくさんあるのに、あえて一カットも選ばないことも少なくない。編集側も受け手側も、ヒステリックにならず冷静な視線を保てば、より現実を伝えられるはずだ。遺体の写真を掲載して何か意味があるのか?と問う人もいるだろう。もちろん意味はある。

東日本大震災で私が一番初めに遭遇した遺体は、津波に襲われた家屋内で下敷きになっていた初老のご婦人だった。容姿がとても美しい人で、厚手のテーラードジャケットをきちんとボタンを留めて着込み、右腕におそらく貴重品などを入れたバッグをかけていた。首にはスカーフ、足元は革靴だ(日頃から身なりに気をつける方だったと想像できる)。その状態でうつ伏せになって発見された。逃げようとしたが時すでに遅し、後ろから波がきて襲われた感じだった。

少し考えただけでもここから得られる教訓はいくつかある。それは単に「かわいそう」「つらい」「悲しい」というだけでなく、「こうはなりたくない」という感情を呼び起こし、「この人はどうしてこうなってしまったのか」考えるきっかけになる。いざという時に持ち出すものは必要最低限でまとめておく、寒ければ防寒着を引っつかんで身なりは気にせず着の身着のままで逃げるべし―私の場合はこのご婦人からそういう教訓を得、その姿とともに記憶に刻まれている。

こうやって字だけで説明する場合と、写真も見る場合では、入ってくる情報の質がかなり変わる。遺体をキワモノ扱いすることで、教訓を得る・学ぶ機会を奪うことになっている場合もあることを覚えていてほしいと思う。

■プロフィール

嘉納愛夏(かのう・あいか)

1970年生まれ。神戸芸術工科大学卒業。写真週刊誌の専属カメラマンを経て、2004年からフリーになって以来、ジャカルタ暴動やパレスチナ、ジャワ中部地震など戦場や被災地の過酷な第一線に身を投じてきた。写真集に「中東の戦場スナップ」(アルゴノート刊)。

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そこに、あなたがいた
スマトラ島沖地震(01 of42)
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2004年2月26日発生のスマトラ島沖地震では周辺国に大津波をもたらした(インド洋大津波)。カハワの列車転覆現場にて死臭を少しでもやわらげるため、布をマスクにする子どもたち(スリランカ)。 (credit:嘉納愛夏)
スマトラ島沖地震(02 of42)
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2004年2月26日発生のスマトラ島沖地震では周辺国に大津波をもたらした(インド洋大津波)。スリランカ南部の沿岸部ハンバントタ。 (credit:嘉納愛夏)
スマトラ島沖地震(03 of42)
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2004年2月26日発生のスマトラ島沖地震では周辺国に大津波をもたらした(インド洋大津波)。被災したガッラ(ゴール)の街(スリランカ)。 (credit:嘉納愛夏)
スマトラ島沖地震(04 of42)
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2004年2月26日発生のスマトラ島沖地震では周辺国に大津波をもたらした(インド洋大津波)。TSUNAMI犠牲者を追悼するための白い幟(スリランカ)。 (credit:嘉納愛夏)
スマトラ島沖地震(05 of42)
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2004年2月26日発生のスマトラ島沖地震では周辺国に大津波をもたらした(インド洋大津波)。寺院の中庭に並べられた犠牲者の遺体はドライアイスの霧に包まれていた(タクワパ、タイ) (credit:嘉納愛夏)
スマトラ島沖地震(06 of42)
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2004年2月26日発生のスマトラ島沖地震では周辺国に大津波をもたらした(インド洋大津波)。外国からの観光客の多いビーチリゾートが被災し、遺体が寺に収容された。大量のドライアイスで腐敗を遅らせている。(タクワパ、タイ) (credit:嘉納愛夏)
スマトラ島沖地震(07 of42)
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2004年2月26日発生のスマトラ島沖地震では周辺国に大津波をもたらした(インド洋大津波)。遺体の身元特定のため、カッターで歯を遺体から切り出す作業。(タクワパ、タイ) (credit:嘉納愛夏)
スマトラ島沖地震(08 of42)
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2004年2月26日発生のスマトラ島沖地震では周辺国に大津波をもたらした(インド洋大津波)。空港に貼られた尋ね人のビラ(プーケット、タイ) (credit:嘉納愛夏)
東日本大震災(09 of42)
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2011年3月11日、東北を襲った東日本大震災による大津波。宮城県仙台市若林区の荒浜地区。捜索救助のヘリが上空を行き交う。3月12日 (credit:嘉納愛夏)
東日本大震災(10 of42)
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2011年3月11日、東北を襲った東日本大震災による大津波。多くの児童が犠牲となった大川小学校の不明者捜索現場で水の中を進む自衛隊員。大人数で一直線で洩れなく探すことによって捜索の質が上がる。(大川小学校付近、石巻、宮城県) (credit:嘉納愛夏)
東日本大震災(11 of42)
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2011年3月11日、東北を襲った東日本大震災による大津波。多くの児童が犠牲となった大川小学校付近を捜索する陸上自衛隊。養豚場から犠豚が流されて何頭も死んでいた。(大川小学校付近、石巻、宮城県) (credit:嘉納愛夏)
東日本大震災(12 of42)
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2011年3月11日、東北を襲った東日本大震災による大津波。宮城県岩沼市にて自衛隊による不明者捜索。3月15日 (credit:嘉納愛夏)
東日本大震災(13 of42)
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2011年3月11日、東北を襲った東日本大震災による大津波。石巻市の沿岸部で発見された中年女性の遺体。電信柱の下敷きになってうつ伏せの状態であった。 (credit:嘉納愛夏)
東日本大震災(14 of42)
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2011年3月11日、東北を襲った東日本大震災による大津波。自衛隊による不明者捜索で、前日までに捜索で発見された瓦礫の中の遺体を回収する。重機が必要な場合もあり、その場で収容できないことも多く、この日となった。途中にも新たに発見される遺体もあった。(石巻市、宮城県) (credit:嘉納愛夏)
東日本大震災(15 of42)
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2011年3月11日、東北を襲った東日本大震災による大津波。火災が起こった現場では遺体収容のほかに遺骨収集も行われた。自衛隊とともに遺体収容作業に当たった若手警察官がベテラン警察官に指導されながら遺骨を灰から集めていた(石巻市、宮城県) (credit:嘉納愛夏)
東日本大震災(16 of42)
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2011年3月11日、東北を襲った東日本大震災による大津波。東松島市の避難所で孫をあやすおじいちゃん。息子は近くの航空自衛隊松島基地に勤める自衛官で、震災直後から災害派遣だ。(東松島市、宮城県) (credit:嘉納愛夏)
東日本大震災(17 of42)
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2011年3月11日、東北を襲った東日本大震災による大津波。自衛隊の災害派遣は史上最大規模に。北は北海道、南は沖縄まで全国の部隊が災害派遣に従事、おなじみの「野外入浴セットⅡ型」もフル回転。運用する部隊がそれぞれ郷土にちなんだ暖簾を掲げ、被災者を迎える。これは山形県の部隊で「花笠の湯」。(石巻市、宮城県) (credit:嘉納愛夏)
東日本大震災(18 of42)
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2011年3月11日、東北を襲った東日本大震災による大津波。沿岸部の多くの家屋とともに思い出の品も流出。写真やアルバム、遺留品などは誰からともなく回収され、洗浄の後、持ち主の下へ返す努力がなされた。(多賀城市、宮城県) (credit:嘉納愛夏)
東日本大震災(19 of42)
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2011年3月11日、東北を襲った東日本大震災による大津波。女川の被災現場に翻る日の丸は多くの人に勇気を与えていた。(女川、宮城県) (credit:嘉納愛夏)
東日本大震災(20 of42)
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2011年3月11日、東北を襲った東日本大震災による大津波。震災二日目に福島第一原子力発電所の一号機建屋で水蒸気爆発が起き事態は深刻に。福島県での放射能被曝検査(あづま総合運動公園、福島県福島市) (credit:嘉納愛夏)
東日本大震災(21 of42)
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2011年3月11日、東北を襲った東日本大震災による大津波。トモダチ作戦と名付けられた米軍による被災地支援で、シャワー支援を行っていた海兵隊員。この日は米陸軍との交替で、仲良くなった子どもともハイタッチでお別れ。(東松島市、宮城県) (credit:嘉納愛夏)
東日本大震災(22 of42)
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2011年3月11日、東北を襲った東日本大震災による大津波。気仙沼大島をいち早く支援した米海兵隊の撤収日、島民上げての見送り。恋する瞳で手を振るおばちゃんの姿も。(気仙沼大島、宮城県) (credit:嘉納愛夏)
東日本大震災(23 of42)
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2011年3月11日、東北を襲った東日本大震災による大津波。要人による慰問も盛んだったが、ジョン・ルース米国駐日大使のそれは心がこもっており、涙する被災者が続出した。(石巻市の小学校体育館で、宮城県) (credit:嘉納愛夏)
東日本大震災(24 of42)
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2011年3月11日、東北を襲った東日本大震災による大津波。宮城県仙台市若林区の荒浜地区。3月12日 (credit:嘉納愛夏)
岩手・宮城内陸地震(25 of42)
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2008年6月の岩手・宮城内陸地震。自衛隊の災害派遣が大規模で行われた。被災者の一時帰宅のため麓の野球場から山中の栗駒地区までCH-47Jヘリコプターが活躍(宮城県) (credit:嘉納愛夏)
岩手・宮城内陸地震(26 of42)
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2008年6月の岩手・宮城内陸地震。自衛隊の災害派遣が大規模で行われた。栗駒高原の温泉旅館「駒の湯」が被災し、泥の中に取り残された。自衛隊、警察、消防がそれぞれ捜索(宮城県) (credit:嘉納愛夏)
岩手・宮城内陸地震(27 of42)
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2008年6月の岩手・宮城内陸地震。自衛隊の災害派遣が大規模で行われた。被災者の一時帰宅のため麓の野球場から山中の栗駒地区までCH-47Jヘリコプターが活躍。麓に戻る時間になっても現れなかったおじいちゃんは、探し回る隊員をよそに自分の畑から苺を摘んで持ってきた。のちにその苺は隊員たちに差し入れられたという…ありがた迷惑だが怒ることのできない一件(宮城県) (credit:嘉納愛夏)
岩手・宮城内陸地震(28 of42)
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2008年6月の岩手・宮城内陸地震。自衛隊の災害派遣が大規模で行われた。全国の各部隊が装備品として持つ、広い浴槽、シャワー完備の「野外入浴セットⅡ型」(写真)などが被災者支援に役立った(宮城県) (credit:嘉納愛夏)
岩手・宮城内陸地震(29 of42)
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2008年6月の岩手・宮城内陸地震。自衛隊の災害派遣が大規模で行われた。被災者支援ではなく、研究や今後のための情報収集も行う。陸上自衛隊東部方面航空隊の空中伝送班がウェスカムカメラ(機体の下部にとりつけたカメラ)で映像を撮影しているところ(被災地上空) (credit:嘉納愛夏)
パキスタン大地震(30 of42)
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2005年10月に起こったパキスタン大地震。震源はインドとの係争地であるカシミール地方。被災民キャンプの診療所で手当てを受けた生まれて間もない赤ちゃん。画面が赤いのはテントの色が映っている。(パキスタン) (credit:嘉納愛夏)
パキスタン大地震(31 of42)
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2005年10月に起こったパキスタン大地震。震源はインドとの係争地であるカシミール地方。被災民キャンプでゴミのように山と積まれた救援物資、古着も例外ではなく、有余っていた(パキスタン) (credit:嘉納愛夏)
パキスタン大地震(32 of42)
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2005年10月に起こったパキスタン大地震。震源はインドとの係争地であるカシミール地方。被災民キャンプでゴミのように山と積まれた救援物資、古着も例外ではなく、有余っていた(パキスタン) (credit:嘉納愛夏)
パキスタン大地震(33 of42)
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2005年10月に起こったパキスタン大地震。震源はインドとの係争地であるカシミール地方。被災民キャンプでかんたんな食事をとる子どもたち(パキスタン) (credit:嘉納愛夏)
パキスタン大地震(34 of42)
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2005年10月に起こったパキスタン大地震。震源はインドとの係争地であるカシミール地方。被災民キャンプでは青空学校が開かれていた(パキスタン) (credit:嘉納愛夏)
タイ洪水(35 of42)
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2011年7月から始まったタイの洪水は10月には首都バンコクまで被害をもたらした。旧国際空港であるドンムアン空港はすっかり池になってしまっていた(ドンムアン空港、タイ) (credit:嘉納愛夏)
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2011年7月から始まったタイの洪水は10月には首都バンコクまで被害をもたらした。被災者の表情が明るく楽しそうなことが多いのが不思議だ。これも国民性だろう(バンコク郊外ゴールデンプレイス、タイ) (credit:嘉納愛夏)
タイ洪水(37 of42)
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2011年7月から始まったタイの洪水は10月には首都バンコクまで被害をもたらした。鉄道は水に浸かりながらも運行しており多くの人が乗車していた(バンコク郊外、タイ) (credit:嘉納愛夏)
タイ洪水(38 of42)
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2011年7月から始まったタイの洪水は10月には首都バンコクまで被害をもたらした。タンク車も本来の役割だけでなく、物資輸送や被災者の足に使われる。(バンコク郊外で、タイ) (credit:嘉納愛夏)
タイ洪水(39 of42)
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2011年7月から始まったタイの洪水は10月には首都バンコクまで被害をもたらした。住宅街の団地で避難する子どもを抱えてトラックまで移動させる兵士(バンコク郊外ゴールデンプレイス、タイ) (credit:嘉納愛夏)
タイ洪水(40 of42)
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2011年7月から始まったタイの洪水は10月には首都バンコクまで被害をもたらした。川となった道路を自家用車で避難する人たち。(バンコク郊外、タイ) (credit:嘉納愛夏)
タイ洪水(41 of42)
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2011年7月から始まったタイの洪水は10月には首都バンコクまで被害をもたらした。洪水で川となった道路でモーターボートを使う警察(ドンムアン空港前、タイ) (credit:嘉納愛夏)
タイ洪水(42 of42)
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2011年7月から始まったタイの洪水は10月には首都バンコクまで被害をもたらした。鉄道は水に浸かりながらも運行しており多くの人が乗車していた(ドンムアン空港駅付近、タイ) (credit:嘉納愛夏)