本を出します 『超訳マルクス』

「ブラック企業と闘った大先輩」というマルクスについて、単に「資本に反抗した男だろ」というふうな解釈で終わらず、「ぼろぼろになるまで働かされないにはどうしたらいいか」という社会改革の理論・実践を、マルクスがどう手探りしたのか。そこを堪能してもらえたら幸いです。
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本を出すことになりました。

『超訳マルクス ブラック企業と闘った大先輩の言葉』(かもがわ出版)です。

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カール・マルクス著、紙屋高雪訳、ということです。イラストがかなり使われていて、本文以上に印象に残るかもしれませんが、加門啓子さんにお願いしています。10月中・下旬に書店に並ぶと思います。

ほぼ国際労働者協会(第一インタナショナル)関連でマルクスが書いたりしゃべったりした文章ばかりです。

  • 働いてるおまえらに聞いてほしい(国際労働者協会創立宣言)
  • 金持ちの相続権なくせば世の中かわるのかよ(相続権についての総評議会の報告)
  • 奴隷解放の父、リンカーンへ マルクスからメール(アメリカ大統領エーブラハム・リンカーンへ)
  • マルクス流起業のススメ、消費税がダメなワケほか(個々の問題についての暫定中央評議会代議員への指示)
  • スクープ! マルクスにインタビュー!(『ザ・ワールド』紙通信員とのインタビュー)

この5本です。

とにかくマルクスの予備知識がほとんどない人が、特に予習もせずに、しかも翻訳調の文体に疲れないで読めるようにしました。

こんな感じ。

やあ、死ぬほど働いてるおまえら。

この15年くらい、きいたことねーよっていうくらいムチャムチャ景気がよかったけど、働いているやつらの貧困って全然減らなかったんだよね。

今から15年ほど前だけど、金持ち側の、けっこうくわしめの新聞が、"もしこの国の貿易が1.5倍くらいにふえて企業活動がさかんになったら、この国から貧乏人って消えてなくなるぜ!"って大ミエ切ってた。

ところがどっこいだったわけだ。

今年、財務大臣が、

「この国の貿易総額は30兆円にふえた。これは十数年前の3倍だ!」

って演説して、聞いてた議員たちが大喜び。でもすぐそのあとで、その大臣が貧困についてこう付け加えたってことがオチなわけだけど。

「でもさ、貧しさに苦しんでいる人たちのことを考えようよ。

働く人の給料が全然あがっていないってことを、もっと真剣に考えないと。

人生の9割は生存するためだけのたたかいに費やされてる人たちがいるってこと、考えなきゃ!」

仕事で疲れてクタクタになって帰ってきて、本も開きたくねーという人でも開いて読んでもらいたいと思って。そのうえで加門さんのイラストは本文以上の働きをしてくれると思っています。

■この本を出そうと思った理由1──面白かったから

なんでこの本を出そうと思ったかということですが(編集や出版社の思惑は除くとして)、一番の動機は訳していて面白かったからです。面白いことを人に伝えたい、そういう単純な動機からです。

実は学生の頃から、マルクスとかエンゲルスを読んでいるとき、翻訳調でしかも難しい文体だな、こういうものが変わったらとっつきやすいと思う人がいるのかなあと思っていました。それで昔から、自分の頭の中で、ときにはノートに書き出すみたいな感じで「超訳」をやっていました。でもまあせいぜい1ページくらいでした。

いつかはそういうことができたらいいな、と思っていたのですが、今回いくつかのマルクスの著作を通してやってみて、自分で面白くなってしまったのです。

面白くて興奮したら、人に見せたいと思うじゃないですか。

2ちゃんねるの「やる夫シリーズ」なんかは、別に誰も頼んでねーし、署名があるわけでもないのに、喜々として「古典や社会制度の平易な解説」をやってますよね。ああいう気持ちです。

んで、はじめはブログで、次にそれを公表したら出版社から声がかかり、今回の出版の運びとなった次第です。

■この本を出そうと思った理由2──「生きているマルクス」を知ってほしい

二番目の動機は、やっぱりヴィヴィッドなマルクスを知ってほしいからです。

今回の本には「ブラック企業と闘った大先輩の言葉」というサブタイトルがついています。少し前にマルクスが話題になったときは、格差論的な角度からであって、今回の文書の中にもそういう要素は入っているんですが、「ブラック企業」という関心のもたれ方はそことは少し違うと思うんです。

「ブラック企業」という問題の周辺に「社畜」とか「起業」「ノマド」といったキーワードがあります。

ボロボロになるまで働かされる、という現実に対して、社畜になるな、という訴えがあり、自分で起業しようぜ、とか、ITを使ってどこでも仕事を請け負えるノマド(「遊牧民」を意味する言葉)になろうぜ、とかいうところにつながっていきます。

他方で、安易に会社から離れるな、という訴えもあります。藤本篤志『社畜のススメ』はそういう1冊です。

こうした「働き方・働かされ方」の問題に対して、マルクスは実は「起業ノススメ」をやっています。

しかし、よく知られるように、マルクスは同時に社会改革家でもあります。

マルクスは、そのあたりをどう整理しているのか。

「ブラック企業と闘った大先輩」というマルクスについて、単に「資本に反抗した男だろ」というふうな解釈で終わらず、「ぼろぼろになるまで働かされないにはどうしたらいいか」という社会改革の理論・実践を、マルクスがどう手探りしたのか。起業もある、労働時間短縮の立法もある、ストもある、そして......とまあ、いろいろあって、そのあたりをどう整理をつけているのか──そこを堪能してもらえたら幸いです。

そして、それ以外の、現代に通じる様々な問題を、マルクス初心者が味わえるようにしてあります。マルクスを、「わかりきったドグマで扇動する指導者」ではなく、「あなたを知的興奮にさそう対話者」としてぜひお使い願いたいのです。

■読まないでいい余談1──超訳の考え方

ここからは余談です。

読まなくてもけっこうです。

一つは「超訳」の考え方です。

率直にいって、かなり自由な考え方をしました。

高校生でも読める「共産党宣言」 たとえば、齋藤孝が前書きを書いている『高校生でも読める「共産党宣言」』(PARCO出版、2012年)という本があります。訳したのは北口裕康という人ですが、この人は、翻訳家でも共産主義者でもない。「大阪のグラフィックデザイン会社社長」だそうです。いわばシロウト。

北口はたとえば「プロレタリアート」「プロレタリア」をどう訳しているか。

この人は、「プロレタリアート」という言葉を「やとわれ組」と訳しています。

これは、なかなか妙訳といえます。

直接の訳は「無産階級」もしくは「労働者階級」となるわけですが、この言葉が古代ローマに起源(プロレタリウスproletarius=ラテン語)があることを考えると、階級としては近代に本格的に成立した「労働者階級(賃労働者階級)」よりも、生産手段を持っていない階級、すなわち「無産階級」「無産者」とするのが厳密です。でも、これはいかにもカタい。

日常語になおすとしたら、「労働者」と訳したくなるところです。しかし、『共産党宣言』では、working classとかworking menという表現があって、こっちを「労働者階級」「労働者」と訳すのがいい。実際に北口訳でもこういう箇所は「労働者」になっています。ちなみに、『共産党宣言』の結びの言葉は「万国の労働者団結せよ!」ですが、ドイツ語では、「Proletarier aller Länder, vereinigt euch!」、英語版では「Working Men of All Countries, Unite!」です。本当は「Proletarians of all countries, Unite!」がドイツ語の直訳なわけですが、エンゲルスが「Working Men of All Countries, Unite!」を英語訳にしたので、英語版としてはこちらが正しい。だとすれば「プロレタリアート=労働者」と考えて、全部労働者にしてしまう考えもあったと思うんですが、北口は訳し分けたんですね。

「プロレタリアート」を「働く人」と書いて、少し違いを出すこともありえます。しかし、じゃあ中小業者はどうなのか、とか、弁護士や医者は「働く人」ではないのか、とか。「労働者」という言葉を使う場合、労働基準法第9条に定義があるように「賃労働者(給料取り)」であることが浮き彫りになるのですが、「働く人」はサラリーをもらっているという側面が消えてしまい、語のニュアンスとしては広すぎるかもしれません。

「貧乏人」はどうか。これは「プロレタリア」の原義に近いものですが、マルクス主義の階級概念は生産手段に対する関係が中核にあるので単に所得や財産の多寡で分けた「貧乏人」という区分だとあまりうまくない。

けっこう難しい。

そういうなかで『高校生でも読める「共産党宣言」』は「やとわれ組」という訳語をあてています。これはなかなかうまく考えたなと思いました。近代プロレタリアート、すなわち労働者階級の本質は生産手段をもたずに、資本家に雇われることにあります。だから「やとわれ組」。ひらがなで書いてあるのも、言葉としてやさしいので受け入れやすいかなと思いました。

ただ、やはり日常の言葉ではありません。特殊な言葉・概念のようにも思えます。

だから、この北口のやり方は尊重しつつも、ぼくはそういう道は選びませんでした。

では、ぼくは、どういう戦略をとったか。

実は、ぼくの訳したインタナショナル関連文書には、あんまり「プロレタリア」は出てこないんです。いや多少は出てきますけどね。

ぼくは「プロレタリア」も「労働者」も同じように扱い、さらに、文脈やニュアンスで「サラリーマン」だの「給料とり」だの「働く人」だの「やとわれた人」だの「会社員」だの「従業員」だの「社畜」だの使い分けました。

ただ「労働者」はほとんど使いませんでした。カタい感じが抜けないんですよね。絶対に使わない、という方針はとりませんでしたけど。

インタナショナルの創立宣言の部分では、ラストに、『共産党宣言』と同じ一文、「Proletarians of all countries, unite!」ですけど、これなんかぼくがどう訳したかというと、「働いてるおまえら、手をとりあおうよ!」ですもんね。冒頭の、「Working men」っていう呼びかけだって「やあ、死ぬほど働いてるおまえら」にしてあります。

これがぼくの超訳戦略です。

とにかくひっかかりなく読み通して、大ざっぱなニュアンスを伝える」ということです。だから、厳密な翻訳からはかなり離れています。児童書の抄訳『ロビンソン・クルーソー』みたいな古典が、実態的には抄訳ですらなく、事実上の「あらすじ紹介」「特別要約」になっていることは有名ですが、あそこまでは変わり果ててはいません。でも翻訳というのはおこがましい。やっぱり超訳なのです。翻訳としては邪道です。

ただ、読者がその文書に興味がわいたら、厳密な翻訳や原典に戻ってもらえばいいと思うのです。だからぼくの超訳を根拠にマルクスを語られると「紙屋流解釈」が忍び込みすぎているので、ヤバいと思います。開き直りをいわせてもらえば「原典を読まなきゃどうせ正しいニュアンスは伝わんねーよ」ということなんですがね。

■読まないでいい余談2──他の翻訳と原典をくらべて

ま、その流れでもう一つ。

これもどうでもいい話です。読まなくていいです。

いくつかの翻訳と原典を比較する機会があって、どういうふうに訳したのかを、他の翻訳との関係で少し。

たとえばマルクスにインタビューした「ザ・ワールド」紙の記事。

この文書には、大月書店のマルクス・エンゲルス全集をベースにした訳(以下「全集版」)と、山形浩生の訳(以下「山形訳」)が手元にあり、参照できます。

簡単なところでいくと、「I do not quite understand you.」。

これはインタビューした記者(ランダー)がマルクスの言ったことに対してこう返している言葉です。これは部分否定で、英語の言い回しとしてはけっこう使います。

この訳が全集版ではどうなっているかといいますと「あなたのおっしゃることを完全に了解したわけではありません」。カタいですねえ。ダイヤモンドくらい固い。

山形訳ではどうか。「おっしゃることがよくわからんのですが」。おおっ、くだけてます。わかりやすいですね。

こう比べると山形訳に軍配をあげたくなりますが、現代の人、特に若い人の言葉の使い方で「おっしゃることがよくわからんのですが」はどうなってしまうのか。

これ、サンドウィッチマンの富澤の有名なボケですよね。

つまり全否定に近いニュアンスになっちゃうおそれがある。

なので、全集版をくだいたほうが、いまの言葉のニュアンスに近い。

だからぼくは「先生の言ったこと、よくわかんないところもあるっスよ」にしました。

同じように、このインタビュー記事のなかに「It is a bond of union rather than a controlling force.」という一文があります。

記者がインタナショナルというのは、命令一下、手下が鉄の規律で任務をやりぬくという、必殺仕事人のような組織ではないかと質問します。そういう疑問に対するマルクスの回答がこれなんですね。

全集訳は「それは支配力というより同盟の絆なのです」。山形訳は「それは組合の連合であって、制御する力ではないのです」。

直訳としては、全集訳の方はちょっと変です。「それ=it」はインタナショナル(国際労働者協会)を指しています。労働者を支配し統治し命令でコキ使う組織がインタナショナルではないのか、という問いに、「同盟の絆」だという答えは、日本語的な回答としてはややボケています。

他方山形の訳の方は、「組合の連合」だと組織の性格を答えていて、質問への回答の形式としては自然なんですが、「union」を「組合」と訳してしまっているのは、どうにもいけません。労働組合だけのように感じられてしまいます。実際にはインタナショナルは、労働組合、協同組合、各種政治団体、そして個人のかなりゆるやかな連合体だったからです。

それでぼくは「うちらはサラリーマンの支配者じゃねえの。ネットワークなの。わかる?」などと訳しました。

まあかなりひどい訳ではありますけど、支配と管理の厳しい団体じゃなくて、ゆるやかな連合体なんだよ、というニュアンスが伝えたかったのです。そのゆるやかさは、全集版のいうところのbond、きずな(インタナショナルの規約にも「a perpetual bond=永遠のきずな」というくだりがある)ということが本質だろうと思います。精神的なゆるい連携・つながり、というかんじでしょうか。だから、内容的には全集版のほうがいいんですが、回答の形式としては山形的にしました。

ちなみに、この箇所の直後にインタナショナルは「ネットワーク」だという説明が出てきます。全集版では「組織網」、山形訳では「ネットワーク」になっていて、ここでは山形の方が伝わりやすい。「組織網」だと、現代的には、ゆるやかさがうまく表現されないからです。

ところで山形の訳はたとえばこの文書で、マルクスが「宗教についてはどうです?」と聞かれて「On that point I cannot speak in the name of the society.」と答えたのを「この点については、社会の代弁者として語るわけには行きません」としていますが、「社会の代弁者」はどう考えてもおかしいでしょう。全集版では「その点にかんしては、私は協会の名において語ることはできません」になっていて、圧倒的に全集版の方が正しい。ぼくは「組織の肩書きで、そのことを論じるのはできんな」にしましたが。

山形は、全集版を見てないのでしょうか。見ていたら、こういう初歩的なミスは防げたと思います。(※なおこの文章公開後、山形氏から訳文を訂正したむねの連絡をいただきました。)

いやまあ、ぼくがそんなこと言う資格はないんですけどね。ホント。

どれくらい資格がないかといいますと、「信仰や道徳の問題について教皇の支配と陰謀の策源地から出される教令のようなものとして、ロンドンからの秘密指令について語るのは、インタナショナルの性質をまったく誤解するというものです」(全集版)っていうのを、「教皇」の説明とニュアンスを伝えるのがクソ面倒になって、「ショッカーが世界征服の指令を出すみたいに、うちらのこと見てるだろ? なあ? いい加減にしろ」とかやらかしちゃったくらいに、資格がない。

もうなんというか、ホントに翻訳じゃありません。すいません。本業の翻訳者に上から目線でああだこうだ言う資格なんてないことはもうあのよくわかってますが。

■読まないでいい余談3──この超訳をいつ書いたか

さて、最後です。

これもどうでもいいことです。

読まなくていい。

読まなくてもいいのに、ここまで読んでる馬鹿。お前のことだ。

この超訳をいつ書いたかということです。

午後5時に職場の配慮で帰らせてもらっていますから、そのあと書いたんだろう、と思う人もいるかもしれません。

しかし、少なくとも職場を出て保育園に迎えにいって、ほぼ毎日買い物に寄って、料理をつくって、食べさせて、その間にマンガを読みふけるばかりで配膳や食器洗いや洗濯物たたみや保育園のカバン片付けを何一つしようとしない娘とひとしきり闘争して、フロに入れさせて、歯を磨かせて本を読んで寝かせる、という午後10時くらいまでは、なんもできません。なんもです。それからだいたいいっしょに寝てしまいます。へろへろです。自分は仕事との相性がいいので、同じ時間やったら仕事の方が疲弊度がはるかに少ないといえます。なんか「寝てないアピール」「イクメン自慢」みたいなんですが、そういうつもりじゃないです。仕事早く終わってラクだね、と本気で思っているむきに言っておきたいだけです。

6歳児といっしょにいる時間に集中してモノなんか書けません。あいつらはネコと同じで、パソコンの前にやってきて、ひざにすわり、キーボードをたたいたり、「ねえ、ゆーちゅーぶで『けいお●!』みせて...」などとねだります。「お父さんはやらないといけないことがあるから、今はあっちへ行ってて」といっても「はい」といって約7秒後に「ねえ、まだ?」などと言うありさまです。

10時に寝るので最近は朝起きます。午前3時とか4時とか5時に。

ではいつモノを書いたりするかといえば、職場に泊まる時です。

私の職場では宿直があります。

といっても夜中起きているのではなく、職場で留守番的に寝るだけなんですが。

そのときだけ、月に数度、育児と家事から解放されます。

宿直の相方(毎回かわる)がいるんですが、相方はたいがいテレビをつけて、ナイターとかバラエティをぼさーっと見ています。「おまえ、それチンコやん!」「ゲハハハハ」とか流れている静謐な時間。いいですね。日頃の疲れが癒せます。

その時間にほとんどすべて書きました。

【※】この記事は2013年10月7日の「紙屋研究所」から転載しました。