データ分析という行為が最終的な価値を生み出すためには、何らかの物語を提示して、人々に受け入れてもらうという過程が必要になるのである。
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4月15日、ボストンマラソンを狙った爆破事件が発生した。死者3名、負傷者170名以上という大惨事となったこの事件は、その後チェチェン人系の兄弟が容疑者として浮かび上がり、兄のタメルラン・ツァルナエフ容疑者が警察との銃撃戦で死亡、弟のジョハル容疑者は重傷の状態で逮捕されるという結末を迎えている。この記事を書いている時点では、兄弟はニューヨークのマンハッタンでも同様の爆破行為を計画していたとも伝えられており、犯行動機や共犯者の有無といった点でまだまだ不明確な部分が多い。しかし兄弟が仕掛けた圧力釜爆弾によって多数の犠牲者が出たことは事実であり、どんな理由にせよこのような犯行は許されるものではない。

ところが驚いたことに、今回の爆破事件を「警察による陰謀」「負傷者は役者でありヤラセ」と主張する記事がネット上に散見される。ここではあえてリンクしないが、現場で撮影された多数の写真を「分析」して、負傷者は演技や特殊メイクをしているにすぎないと訴えているのだ。その多くは支離滅裂で、反証が可能なものである。そもそも50万人以上の観客が集まるイベントにおいて、演技と特殊メイクで人々をだまし続けることが可能だなどと考えるほうが難しいだろう。しかしそうした論理的な考え方は、彼らの前では説得力を持たないのである。

最近の事件・事故では珍しいことではなくなったが、今回の爆破事件においても、発生直後から多数の画像・映像がネット上に出回ることとなった。しかも前述の通り、ボストンマラソンは観客だけでおよそ50万人が集まるイベントであり、ゴール付近で起きた事件ともなれば、いかに多くの記録装置、情報発信端末が現場にあったかが想像できるだろう。実際に事件の捜査にあたった警察機関は、市民に対して彼らが撮影した画像・映像の提出を呼びかけるということを行っている。通常のマスメディアでは規制されてしまうような、ショッキングな映像をネット上で見たという方も多いのではないだろうか。

マスコミによる自主規制が行われているような状態ならいざ知らず、こうした「一次情報」が大量にある状況であれば、陰謀論めいた言動は少なくなるだろうと考えるのが普通だ。ところが実際には、先ほどのような「負傷者は役者」などという主張が行われている。彼らは無数の画像、映像の中から、自らの説に合うものをピックアップし、それによって「負傷者が本物かどうか疑わしい=ヤラセである」という議論を展開する。何百、何千という記録が取られているのだから、その中には負傷者が笑っているように見える写真や、血しぶきが絵の具のように感じられる映像が0.1%ぐらいあっても不思議ではない。しかし残りの99.9%は都合良く無視され、彼らの説を崩す武器にはならないのである。つまり大量の情報が現場から発信されるような状況は、実は陰謀論者にとってむしろ好都合であると言えるだろう。

20世紀半ば、メディアに関する優れた考察を行ったマーシャル・マクルーハンは、「テレビとは何か」と題された講演の中でこんなことを述べている。

全人類の歴史の中で、20世紀の子供ほど一生懸命に働いている子供はいない。なにをしているかといえばデータ処理である。今日、子供たちの環境にあふれている情報の量は驚異的なものである。今日ほど大量の情報を毎日処理しなければならない人間はいまだかつて存在しなかったのである。今日、一人一人の子供がデータ処理を迫られているその量は、いかなる人間の標準からいっても大きすぎるのである。

ではどうするか。子供たちは近道を見つける。子供たちは現実というものを構造的につかむことにおいて神話的となる。データを分類する代わりに、神話をつくるのである。過重負担に対処するには、それが唯一の可能な方法なのである。

ここでは主語が「子供」となっているが、現代を生きる大人にも同じことが言えるだろう。大量の情報を前にした人間は、その真偽や妥当性をいちいち検証するのではなく、「神話」というイメージをつくることで情報処理の手抜きをするようになる――これは脳に関する近年の研究からも証明されていることで、私たちのアタマは論理的思考を好むのではなく、過去の経験から色眼鏡をつくるようにできているようなのだ。だとすると、ますます大量の情報が氾濫しようとしている現代は、事実ではなくアタマの中にある「神話」が人々を導く時代なのかもしれない。

マクルーハンは新しいテクノロジーが登場することで、古いテクノロジーによって駆逐されていたものが復活する場合があることを指摘している。大量データという新しいテクノロジーが神話を復活させるのも、実は不思議なことではないのかもしれない。

現代が神話の時代なのだとすれば、人々を動かす立場にある人は、科学的な思考力だけでなく神話や宗教の構造を学ぶ必要があるのではないだろうか。別に客観的な事実を無視したり、詭弁を弄したりしても良いという意味ではない。事実をふまえたうえで、それだけでは人々を動かすことはできないと認識し、どうすれば人々が受け入れてくれるのかを考えるのである。神話に対抗できるのは、別の神話しかない。

最近、高度なデータ分析を担当する「データサイエンティスト」という職業が話題になっているが、彼らに求められるのは数学や統計学といったスキルだけではない。分析した結果を分かりやすく示すビジュアライゼーションや可視化といったスキルも要求されるようになってきている。数値という事実だけを示せば十分なのであれば、このようなスキルは必要ないだろう。しかしデータ分析という行為が最終的な価値を生み出すためには、ここでも何らかの物語を提示して、人々に受け入れてもらうという過程が必要になるのである。

もちろん私たち一人一人が、事実から論理的に考えるという行動が取れるようになるのが理想であることには変わりない。しかし現実には神話が私たちを支配していること、それが非常に強力なものであることを認め、それを無理なく変えてゆくことが必要ではないだろうか。