私が現職大統領として、88年振りにキューバを訪れた理由

アメリカ人とキューバ人は、たくさんのものを共有しています。
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キューバのオールド・ハバナを視察した後、自分たちの車まで歩いて戻るオバマ大統領とミッシェル・オバマ婦人。2016年3月20日、ピート・ソウザ氏撮影。ホワイトハウス公式写真)

編注:アメリカのオバマ大統領は3月20日、現職大統領として88年振りにキューバを訪れました。これは訪問初日を終えたオバマ大統領が書いたブログです。

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¡Hola desde Cuba!(キューバからこんにちは!)

妻のミッシェルや娘たちと共に、キューバでの最初の1日を首都ハバナで過ごしました。キューバの人々が、沿道に集まって私たちを歓迎してくれました。アメリカからたった90マイル(約145キロ)しか離れていていこの国を、約90年振りに訪れるアメリカ大統領になれて大変光栄です。

多くのアメリカ人と同じように、私はキューバとアメリカが断絶している状態しか知りませんでした。私が生まれたのはピッグス湾事件が起こった1961年。翌年の1962年にはキューバ危機が起こり、世界は核戦争に突入する瀬戸際にまで追い込まれました。それから数十年経ちましたが、両国政府間の不和は、キューバ人とアメリカ人に悲しみと苦しみを与えてきました。中でもキューバ系アメリカ人の多くは、数十年にわたって母国や肉親と引き離された状態を耐え忍んできました。

キューバの人々との友情を結ぶために、私はハバナに来ました。冷戦が残した最後の痕跡を消すため、そしてキューバの人々を理解し、生活向上の手助けをするという新しい時代を築くために、ここに来たのです。

両国政府の間には、今でも現実的で重要な違いが存在してます。それには、安全や防衛面での違い、人権や人々が受ける機会といった面での違いが含まれます。一方でアメリカ人とキューバ人が共有しているものもたくさんあります。文化、情熱、未来への希望、そしてもちろん野球への愛です。

一回の訪問、そして一人の大統領が、多くのキューバの人々を貧困と亡命に追いやった過去を消し去れるとは思ってはいません。しかし、時に最も重要な変化が、小さな一歩から始まることもあります。キューバの人々、そして自分たちで未来を築きたいという彼ら願いを私は信じています。時間をかけて、両国の間に存在する問題に対処する方法を変えていけば、可能になると信じています。

だからキューバでさまざまな人々にお会いし、直接お話を伺うことを楽しみにしています。キューバとアメリカが協力すれば、両国が共に前進できる新しい関係を築けるでしょう。

ハフポストUS版に掲載された記事を翻訳しました。

▼関連スライドショー(写真をクリック)▼

10枚の写真で振り返るキューバとアメリカの歴史
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1953年7月26日に起きたモンカダ兵営襲撃に失敗し、法廷に出廷するフィデル・カストロ。襲撃は失敗に終わったが、当時の大統領フルヘンシオ・バティスタ政権に対するこのクーデターは、キューバ革命の重要な出来事だと考えられた。 (credit:Keystone-France/Gamma-Keystone via Getty Images)
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共産主義革命家のチェ・ゲバラ。断固として反アメリカを唱えたゲバラは、バティスタ政府を倒すためにゲリラ戦をしていたフィデル・カストロに加わった。ハバナで葉巻を吸っている姿をとらえた一枚。 (credit:ASSOCIATED PRESS)
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バティスタがドミニカ共和国へ亡命した3日後の1959年1月4日、キューバ中部の都市カマグエイで演説をするフィデル・カストロと支持者たち。共産主義の支援者にとって「勝利の日」として知られている。 (credit:Hulton Archive/Getty Images)
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1960年9月、国連で抱き合うフィデル・カストロ(左)とソ連の最高指導者ニキータ・フルシチョフ(右)。2つの共産主義国は冷戦中に関係を深めた。 (credit:Underwood Archives/Getty Images)
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アメリカ合衆国がキューバ政府と外交関係を絶った後にアメリカの国旗をしまうハバナのアメリカ大使館職員。1961年1月3日に撮影。 (credit:ASSOCIATED PRESS)
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アメリカとキューバの外交関係が途絶えた後、通商禁止措置がとられ両国間では輸出入が禁止された。多くの品物が不足するようになったキューバでは、1950年代のアメリカ製自動車が未だ使われている。 (credit:Michel Setboun/Getty Images)
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1961年4月、革命裁判所で裁かれるCIAの訓練を受けた在米亡命キューバ人たち。1400人の亡命したキューバ人がカストロ政権打倒を試みてキューバのピッグズ湾に侵攻したが、失敗した。 (credit:Keystone/Getty Images)
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核ミサイルをキューバに配置するソ連の計画を察知したジョン・F・ケネディ大統領は、海上を封鎖する命令書に署名した。数日後、フルシチョフはキューバの軍事基地での活動を中止しミサイルを撤去すると発表した。 (credit:AFP/Getty Images)
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1980年4〜10月、カストロ議長は希望するキューバ人のアメリカへの亡命を許可した。4月23日、キューバのマリエル港でフロリダへ向かう船に乗る人たち。約12万5000人がキューバを後にした。 (credit:Jaques Langevin/ASSOCIATED PRESS)
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アメリカとキューバの国交回復を受けて再びオープンしたアメリカ大使館のそばを走るクラシックカー。アメリカの国旗を掲げている。 (credit:ADALBERTO ROQUE/AFP/Getty Images)

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