立場を分けるのは、人間の「理性」への信頼度。大きな政府VS小さな政府を考える

私は政府の役割は極小化していくべしと考える「小さな政府」派の人間ですが、正月休みの最後のこの辺りについて書いておきたいと思います。

こんばんは、おときた駿@ブロガー都議会議員(北区選出)です。

元旦から年頭所感代わりに自由主義・小さな政府に関する論考をアップしたところ、BLOGOSやTwitterを中心に多くのご意見をいただきました。

「子ども・若者政党」≒小さな政府という、わが国での見果てぬ理想

その中で比較的多かったのが、「格差を是正するためには、大きな政府になって権力が介入するべし!」といった類の考え方でして、正月休みの最後のこの辺りについて書いておきたいと思います。

私は政府の役割は極小化していくべしと考える「小さな政府」派の人間ですが、なにも

「弱肉強食バンザイ!」

「強いものはそれだけの成功を手にし、弱いものは淘汰されれば良いのだ!」

と考えているわけではありませんし、多くの自由主義者たちもそうだと思います。

まあ、そういう考え方の人もゼロではありませんけど...

一方で「大きな政府」を志向する方々も、貧富の格差が一切ない共産主義的な社会を理想としている人は、現在としてはそれほど多くないものと推察されます。

お互いにより良い社会を築きたいという想いは一緒であり、そこに至るまでのプロセス・手法に違いがあると言えます。

ではこうした「小さな政府」「大きな政府」への志向を分ける要素はいったい奈辺にあるのでしょうか?そのもっとも重要なものの一つが、

「人間の理性への信頼度」

です。

政府が課税や社会保障制度などを通じてコントロールをすれば、やがて格差や貧困はなくなっていくはず!と考える人々は、この人間の理性に重きを置いていると言えます。

一方で小さな政府を掲げる人々は、この「理性」に極めて懐疑的です。中央政府の指導で平等な社会を築こうとした共産主義は腐敗にまみれて失墜し、わが国の社会保障制度はむしろ世代間格差などの新たな問題を生み出しました。

政府や官僚組織が不完全な人間によって構築されている以上、彼らの考え実行することには明白な限界や失敗があり、その権限が強ければ強いほどこうした「歪み」が大きくなります。

自由主義の大家であるハイエクは、理性に重きを置き社会をデザインしようとすることを「設計主義」と名付け、その傲慢を激しく批判しました。

不完全な人間の理性よりも、アダム・スミスが奇しくも名付けたような「神の見えざる手」といった人智を超えたメカニズムの方がよっぽど信頼に足るものであり、その結果、政府の介入は極小化した市場重視の考えに辿り着きます。

小さな政府主義者は社会保障のすべてを否定するわけではありませんが、そこにもなるべく理性≒恣意性が介入しないシステム、ベーシック・インカムや機械的な負の所得税を提唱するのも、上述の理由によるものです。

「保守思想の父」とも言われるエドモンド・バークは、急進的に新しい社会制度を「設計」しようとするフランス革命に対して、そのような人工的社会が上手く行くはずがないと警鐘を鳴らし、蓄積された伝統の重要性を説きました。

実はこうした「理性への信頼度」は、いわゆる保守 / リベラルを分けるリトマス紙でもあり、

保守=小さな政府

リベラル=大きな政府

となる理由も、なんとなく理解できるのではないでしょうか。

私は政府のコントロール≒理性に懐疑的ですから、人々の自由を最大化するべきと考え、小さな政府を主張する立場を取ります。

ただ勿論、大きな政府を目指すのも「アリ」だとは思います。どちらが日本社会にとって正解なのかは、現時点では誰にもわかりません。

しかしながら、仮に日本が本当に大きな政府を実現するのだとすれば、「想像を絶する増税」や「マイナンバーによる徹底した管理」などは避けて通れません

「負担が大きいのは嫌だ」

「無駄遣いをやめれば財源は捻出できるはず」

「政府に管理されるなんて、国民総背番号制だ!」

といって現実から目をそらし続けるのは、単に将来世代へツケの先送りをしているだけであることは、政治家を始めとする為政者は正面から認めなければならないはずです。

いよいよ迎える国政選挙では、社会保障制度などの「設計」がどこまで争点になるかわかりませんが、こうした思想的な背景から考えて見るのも良いかもしれませんね。

いよいよ明日からは仕事始めの方が多いと思います。

改めて今年も、張り切って参りましょう!

それでは、また明日。

(2016年1月3日掲載の「おときた駿公式ブログ」より転載)