STAP問題報道に見られる日本のおかしな「人権」感覚

マスコミ機関は当然謝罪して補償するべきですが、侵害された小保方さんの「権利」が即イコール「人権」ではありません。
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最初に断っておく必要がありますが、私はSTAP細胞問題に関しては詳しくありません。「女性の研究者だから叩かれているのでは」と最初から疑いましたが、詳細にフォローしているわけではありません。

しかし、指摘しなければならないのは、これは「人権」問題とは言えないことです。被害者の小保方さんは名誉が傷つけられたことで実害を被り、そういう意味では権利が侵害されたと言えます。マスコミ機関は当然謝罪して補償するべきですが、侵害された小保方さんの「権利」が即イコール「人権」ではありません。そう書くことで私は小保方さんの苦しみを決して軽視しているのではなく、その問題が社会的に「人権問題」として扱われることに異議を唱えたいのです。あらゆる権利侵害や被害が「人権侵害」となれば、「人権」の本質が失われます。

「人権問題とはどういうものか」と聞かれると、大抵の日本人は例えば「学校のいじめ」や「介護施設での虐待」「妊婦への心ない言葉」などあげるのではないでしょうか。また、このSTAP問題のように、マスコミの誤報道や行き過ぎた取材も人権問題とされるでしょう。無論これらはどれも大きな社会問題に違いがなく、取り組むべき課題です。しかし、人権問題とは性質が違うものです。

上に挙げられた例のように、日本人の考える「人権問題」はほとんどの場合、「市民同士のいじめ」「市民間の不当な扱い」などといったものです。しかし、以前の投稿にも書きましたが、国際法に基づいた、人権のいわゆるグローバルスタンダードは、国家権力の不当な行為から市民を守るためのものなのです。市民を国家の横暴から守る盾で、市民同士のいじめなどとはレベルが違います。

実際日本の国家権力が引き起こしている人権侵害は数多く、例えば代用監獄における容疑者の拷問難民保護の不十分さ入国管理局の収容所における虐待ムスリムに対する根拠のない監視などなど、先進国の中では「人権侵害大国」の座を狙っていると言われても仕方がないほどです。しかし「人権」が市民同士のいじめ問題に矮小化されているため、国家権力が当事者である問題はクローズアップされにくく、重大な人権問題として認識されません。

それだけに日本人のこの間違った人権感覚は、権力者にとってこの上なく都合がいいものです。国際法で認められた限定的な制限はありうるのですが、人権というのは基本的に絶対的なものです。人として生まれた以上は人権がありますし、国家がそれを侵害することは断じて許されません。しかし日本では人権は市民同士のものとされるため、いともたやすく相対化されてしまいます。例えば国内の人権保護が任務の一つである法務省のサイトにも、「お互いのことを思いやるのが人権」といった、国際基準からかけ離れた記述が多く見受けられます。そして人権保護を大幅に後退させる改憲を謳う自民党の宣伝資料にも、「自分の人権ばかり主張するのは自分勝手」「皆がわがままを言えば社会は崩壊する」などと、頓珍漢なことばかりが書かれてあります。どっちも当然、日本の当局が主体の人権侵害には一切触れていなく、人権保護を完全に市民同士の問題にし、市民の責任にしています。

人権が真に大切される社会を作るには、上記のような「仲よし人権」論を見抜く必要があります。その上でグローバルスタンダードの人権を再認識し、その実現を目指すべきではないでしょうか。