父と祖国、そして、家...シリア難民となった私がすべてを失った日

これは、今までで一番つらい瞬間でした。革命が始まった時、どんな状況になろうとも、シリアを離れまいと自分自身に誓っていたのですから。
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WAFA MUSTAFA

国を脱出する話は、それぞれの事情や偶然が重なることもあり、いろいろな風に語られています。多くの人々が同じような体験をしているにもかかわらず、その始まりと終わりは結局、人それぞれで違ってきます。

私は最近になって、私たちそれぞれ—つまり、私と母、真ん中の妹のサラ、一番下の妹のゲーナ—が2年半の間、全く同じことをしてきたのだと気づきました。

私たちは、毎晩慣れない、違うベットで寝ました。それぞれ、頭の上の一風変わった天井が、私たちが体験してきた話の断片を整理し直す空間のように思うようになりました。

自分たちの身に起きたことについてよく理解し、恐れることなく、また可能な限り中立な立場で、それらを話せるようにしなければならない—それこそが、私がここでやろうとしていることです。

私たちの身の上話のすべての始まりは、2013年7月のある朝に起きました。母はシリアの山岳地帯の小さな町、マスヤーフにある自宅を離れ、私と父が暮らす首都、ダマスカスへ向かおうとしました。

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その数日前、父は、私をマスヤーフの医師の元で診察を受けさせるために送り出しました。私は自分が不安やうつ病を患っているかを知りたかったのです。シリア政権側からのロケットで、私の親友の1人が殺されてから、3カ月の間ずっと気がめいっていました。

私たちは居場所が入れ替わることになりました。私は妹のゲーナとマスヤーフに留まり、母はダマスカスへ旅立ちました。母はたった2、3着の服と父の好きな食べ物をたくさん持って出かけました。公安部隊に追われている父は、まれに、しかも隠れるようにしてしか、自宅へ戻ることができなかったのです。

その朝、電話が鳴る音で目が覚めました。今でもその音が耳に残っています。それは母からの電話でした! 声は震えていて、私に父のことを聞き、父に電話をするようにと頼むのです。私は訳が分かりませんでした。電話の向こうから聞こえてくるのは、ダマスカスの通りの騒音で、「母がそこにいるというのに、父はどこにいるの? どうして父に電話するように私に頼むの?」と思いました。

母は私が困惑しているのを感じ取り、説明し始めました。「少し前にお父さんに電話して、私が15分遅れると言ったの。お父さんは家で私を待っていると言ったわ。到着してから、荷物を手伝ってもらおうとして、電話したんだけれど、お父さんは電話に出なかったの。携帯でまた連絡を取ろうとすると、2、3回コール音が鳴った後、使用停止になってしまったのよ」

母はこんなことを全部、電話で話すのはよくないと知っています。こんなことを言うのはとても危険なのに、安全な通話を待っている暇はなかったのです。

母は、一階に住む詮索好きな隣人を介して、軍服を着た男たちが家に来たことを知りました。彼らは武器をたくさん携帯し、彼らとは違ういで立ちの人が1人同行していました。建物内で、誰かが打たれたり、物がこわれる音がしたり、叫び声がしたりしました。その後、父ともう1人、親密な友人のホッサムが、彼らに連れられて降りてきました。ホッサムは政権側の刑務所で死亡した、と彼の家族には後に伝えられました。

その状況や危険性、その結果について考える時間は十分ありませんでした。私たちは、勇敢な父、そして夫を一瞬にして失った母親と2人の娘であるということを悲しんだり、考えたりする暇さえなかったのです。ゲーナと私は、すぐにマスヤーフの家を離れ、ハマへ行かなければなりませんでした。政権側が、私たちを見つけて、刑務所にいる父に圧力をかける道具にしないように、遠くへ逃げなければなりませんでした。

「私たちは、勇敢な父、そして夫を一瞬にして失った母親と2人の娘であるということを悲しんだり、考えたりする暇さえなかったのです」

着替えの他は何も持っていませんでした。ハマには、政権側の検問所がたくさんあり、いつも、どこの検問所でも足止めされます。旅行鞄だけでも怪しまれました。やっと父の友人の家にたどり着きました。この時まで、全く彼のことを知らなかったのですが、その優しい奥さんや、3人の子供たちが私たちを暖かく迎えてくれました。母は、ダマスカスから、マスヤーフへ、そしてハマへと遠回りをしなければなりませんでした。道中母が抱えていた恐怖や不安、悲しみ、あるいはそれをどのように押し隠したか、想像もできません。

私たちはハマで落ち合い、一週間その家で過ごし、父の友人にせかされて、シリアを離れ、トルコへ渡ることを決めました。その計画は以前、父が私たちに伝えていたもので、父はいつも、自分のことよりも私たちのことを心配していました。

これは、今までで一番つらい瞬間でした。革命が始まった時、どんな状況になろうとも、シリアを離れまいと自分自身に誓っていたのですから。大学から追い出され、ジャーナリズムとマスメディアについての勉強を中止させられて、そのように誓ったのでした。ダマスカスで起こった、多くの抗議運動の中で出会った友人、仲間、名も知らぬ人たちが、姿を消し始めてから、私はそう誓ったのでした。

シリアから出国するため、車から車へと移動しなければなりませんでした。体制側が支配するハマを出発し、地方へと車で移動し、政権の管理下ではないイドリブの田舎へ進み、そしてずっとトルコとの国境まで走りました。全く知らない道でした。

「決してシリアを離れまいと誓いました。ダマスカスでの多くの抗議運動で出会った友人や名も知れぬ人々が、姿を消し始めてから、そう誓いました」

恐怖をさらに煽らないように、母は祈り始め、私たちは歌を歌ったり聞いたりしました。知っている歌や、好きな歌からだんだん離れ、昔一度だけ聞いたような、好きでもなく、歌詞も知らないような歌に耳を傾けました。ファイルーズやアブデル・ハリム、ウム・クルスームの歌にあわせて歌い、父の姿や声を思い出さないようにしたのです。

夜になってトルコに着きました。国境は閉鎖されていましたが、私たちは中に入ることができ、歓迎を受けました。父の友人が若い男に私たちを沿岸の都市、メルスィンへ連れて行くよう、頼んでくれていたのです。メルスィンは、友人から話を聞き、革命以前からいつも訪ねてみたいと思っていた場所でした。彼らはよく旅行を計画し、旅から戻ってくると、その美しさや、奇妙な言葉についていろいろ話してくれました。

何年も前、あるトルコのテレビドラマ番組が、その建築物や恋愛物語、登場人物を連ね、私たちの素朴な世界に飛び込んできました。そして、頭の中で、私たちと彼らの間に何か繋がりが生まれたのです。厳しい現実が後になって、それを台無しにしてしまうとは思いませんでした。

私たちの最初の家は、メルスィンにあり、海岸の向かいでした。そこは、海抜が高く、寒く、適度に清潔でした。なぜ涙が出るのかもわからずに、そこで3カ月ぐらい過ごしました。どうしてなのか何度突きとめようとしても、はっきり理由はわかりませんでした。理由はたくさんあったのですが、結果はいつも同じで、動向がまったくわからない父や、さよならも言わないで去った家や家族、いろいろなイメージや声、夢が寄せ集まった記憶などなど。そして、異国にいることが、生きる力を奪ってしまっていました。

私たちは、いくつか買ったものを、メルスィンに持ち込みました。それは最低限必要なものでした。自分たちや町、家、人々の間に関係を築こうとしたのです。同じ地区内の別の家に移り、そこは前よりも暖かく、さほど気が滅入るようなことはありませんでした。新しい友人ができ、彼らは安全な避難場所を求めて、私たちよりも先にそこに移って来ていました。彼らのおかげで、不安が少し和らぎ、元のような生き生きとした感じに一歩近づけました。

トルコに滞在するのは、一時的なものだと思っていました。父が刑務所から出て、私たちは家や国に帰り、2年前に始まった革命を持続させるのだと思っていたのです。しかし、事はそう簡単ではありませんでした。みんなを危険から守るため、私は仕事を見つけなければならず、一方で以前に仕事を持ったこともないし、学位を終了する機会も持てないのだと思いました。

「トルコに滞在するのは、一時的なものだと思いました。父は刑務所から出てくるだろうし、私たちは、家に帰るのだと思いました。でも、そう簡単ではなかったのです」

家族ぐるみの友人が、ある反体制派のシリアのラジオチャンネルで、仕事ができるよう、私に手を貸してくれました。その当時は、そこは建設工事中で、母と妹を残して、トルコ南東部の都市、ガジアンテップへ移らなければならなくなりました。そこで、3カ月過ごし、働いて、小さい家を手に入れるための預金を確保しながら、自分の力量を認めてもらおうとしました。母やゲーナと合流するまで、それをずっとしなければならず、その後、全く今までにないような不安や挑戦、待つことなどを体験することになるのです。

ガジアンテップへ来て、2年になります。母と妹と私の3人は今、小さな家に住んでいます。最初の年は、辛く、疲労し、苦痛だらけでした。2年目は、少し良くなりました。母は仕事で新たな体験に取り組んでいて、ゲーナは、学校や友人たちがいつも変わってしまうのにも馴染んでいこうとしていますが、シリアに帰るという決心はまだ変わっていません。

母と私は、トルコへ来た最初の日から、シリアへの帰国がどれほど難しいことなのか、ゲーナを説得しようとしました。他の選択肢を探したり、待ったりすることが大切だと、彼女に分からせようとしていました―例えば、アメリカに保護を求めて受け入れてもらうなどですが、その場合は、国連の難民高等弁務官事務所の手続きを経ることになるだろうと。

ある人たちは、私が言葉に神経質になりすぎていると言いますが、「難民」と言われるときは、多分そうかもしれません。この感情は、私が何か不正義を感じるとか、認めてもらえないこととは関係はありません。誰かにそのことを尋ねたり、Googleで「難民」の定義を探したりすれば、いろいろ答えがでてくるでしょう―現実的、法的、あるいは時には人権の見地からの定義など。

しかし、それらはどれも、シリア人として私たちが体験することを、明確に示していません。人々が難民となった様々な、劇的な様子を目のあたりにする時には、特にそうです。革命前に、国際法や人権団体が定義したものばかりではないのです。

シリア政権とその同盟軍の犯罪は、人々を他の町や都市、他の諸国へ逃れさせた唯一の理由ではありません。こう信じることにより、シリア人民やその文化、思考について、奇妙なイメージや汚点が生み出されました。シリア政権はそのイメージや世界の他の諸国が私たちを見る見方を台無しにしてしまいました。シリアの人々に、ほんのわずかな可能性しか与えず、その中で最善なのが、この国の地獄から抜け出すことでしょう。

ここですべてを言うことはできません。私はまだ、体験した事やその詳細をまとめようとしています。今はまだ、まとめ終わっておらず、すぐに終わるとも思えません。どんなにむき出しで、感傷的なものであれ、1つの物語にして、起こったすべてを語ることができるとは、今だに思えません。

昨年のクリスマスに、家の壁にたくさんの写真を飾りました。それを木の形にし、根っこのほうは、若かりし日の父の写真、枝のほうは、私たちの声や夢、子供時代を思い出させる写真が飾ってあります。それらの写真には、私たちが最も幸せな瞬間を共有した、多くの人たちの顔が映っています。

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筆者のウァファ・ムスタファ氏は、トルコに拠点を置くシリア人の活動家兼ジャーナリスト。

この記事は最初に「Elite Daily」に掲載され、その後ハフポストUS版に翻訳・掲載されたものを翻訳しました。

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