お寺よ、変わるな!

北海道のお寺の孫に生まれて、よくある田舎のごくふつうのお寺の営みを身近で見ながら育った私は、思春期にオウム真理教の事件なども経験し、仏教やお寺への愛着とともに、伝統仏教の閉鎖的な体質への反発を持ちました。仏教界に飛び込んだ当初の「お寺が変わり、もっと社会に開かれて、人々が仏教に親しみやすくなれば、きっと社会は良くなっていくんじゃないか」という思いが、その後さまざまな活動を経て、現在の未来の住職塾へとつながっています。
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変わらないことの大切さ

なぜ僧侶になったのですかと聞かれたら「お寺を変えたかったから」と答えてきたような私ですが、最近は「お寺は変わってほしくない」と思うようになりました。

北海道のお寺の孫に生まれて、よくある田舎のごくふつうのお寺の営みを身近で見ながら育った私は、思春期にオウム真理教の事件なども経験し、仏教やお寺への愛着とともに、伝統仏教の閉鎖的な体質への反発を持ちました。仏教界に飛び込んだ当初の「お寺が変わり、もっと社会に開かれて、人々が仏教に親しみやすくなれば、きっと社会は良くなっていくんじゃないか」という思いが、その後さまざまな活動を経て、現在の未来の住職塾へとつながっています。

未来の住職塾では、1年間の学びを通して、参加者一人ひとりに自分のお寺の将来像を描いた「寺業計画書」を発表していただきます。その中身は当然、現在のお寺の弱い部分を強化する計画だったり、まったく新しい取組を始める計画だったりするので、総じて「お寺を変革」するためのものです。しかし、ではなぜそのような「寺業計画書」が必要なのかといえば、変化の激しい現代社会の中で、放っておけば現在のお寺の姿を今のままそのまま10年、20年、30年後まで維持していくのが難しいからこそ、大切なものをできる限り損なわずに次の世代へとつなげるため、必要なのです。人口が減りますから、お寺を支える人の数も減るわけで、「お寺で食べていける人」の数も減るでしょう。しかし、たとえ大部分の住職が兼業、あるいはボランタリーな関わり方になったとしても、一つでも多くのお寺が何かしらのかたちでお寺として存続していくことを、私は願っています。未来の住職塾も、「住職の生活を守ること」を目的としているわけではありません。

私自身がお寺を舞台にこれまでいろいろ新しいことをやってきたので誤解されがちですが、お寺は可能な限り、何か新しい取組を始めるよりも、今までやってきたことを維持・継続するための努力にエネルギーを割くべきだと、私は思います。未来の住職塾の「お寺の未来フォーラム」で、浄土宗の神宮さん「新しいことをしない」ことの大事さを説いていましたが、同感です。もちろん、世の中の変化が激しければ、維持・継続の困難さも増しますので、そのために必要な努力はいっそう大きなものになるでしょう。かといって、お寺が新しいことをしてはいけないと言っているのではありません。ただ、もし何か新しいことを始めるならば、これから100年続ける覚悟で、それに耐えうるようなことをやるべきだと思います。

なぜそんなにお寺が維持・継続すること、続けることを強調するのかといえば、おそらくそれがお寺がお寺であるために最も大切なことだからです。私は仕事柄、いろんな地域のいろんな宗派の「ふつうの」お寺にお参りさせていただく機会があります。必ず最初に本堂にお参りしてご本尊様を拝みますが、どんなお寺でも感じるのは「ご本尊様、よくぞここにいらっしゃってくださった」という静かな感動です。ふつうのお寺ですから、ご本尊様が仏像としての文化的価値が高い場合もあれば、そうでもないこともありますが、そこは関係ありません。仏像としての美術的価値、歴史学的価値を見ているのではなく、そのご本尊を中心に営まれてきた過去の人々の生活と、重ねられてきた祈り、無数の死者の存在を見るからです。海外の仏教だと新しいピカピカの仏像が喜ばれますが、日本は古いものをそのまま残そうとしますね。日本は死者とともに生きる文化であり、昔からあり続けるという事実そのものが聖性を生み、人に感動を与える文化なのだと思います。今の時代に新寺を建立されようと頑張っている方も少なからずおられますが、おそらく皆さん今後100年を見据えて今頑張っておられるわけで、その意味で新しいお寺の新しいご本尊様も、同じくありがたいものです。

お寺の真価が発揮されるのは?

僧侶の使命が布教伝道だとすれば、住職の使命は預かったお寺を次の世代に正しく渡すことです。釈尊の時代からの伝統として、お寺はその時々の社会の枠組みと調和するかたちで自らのあり方を規定してきましたから、今のお寺が現代社会の枠組みの中でその存在価値や有用性を示すことは、ひとつ大切なことです。明治期以降、従来はお寺が担ってきた教育や自治といった社会的機能がどんどん行政側に移されていきました。昨今では「葬式仏教」として唯一残された葬送儀礼の分野においても、異業種からの参入が相次ぎ、社会の中でのお寺の役割が縮小しています。それに対して、最近はグリーフケアやソーシャルキャピタルなど、これまでお寺界が持ち合わせていなかった外の視点から自らの価値を照射することにより、お寺の役割を再評価しようとする動きも活発です。行政やNPOなど様々な活動体が複雑に絡み合って構築された社会のセーフティネットの中で、お寺がその強みを活かして誰にどんな価値を提供するのか、ポジションを明らかにしようという試みです。そのように、現在の社会の枠組みを前提としてお寺の存在意義や有用性を社会に示し続けることは、今後お寺が存続していく上で欠かすことのできない大切なことだと思います。

ところで、ここからは私の思いですが、お寺の存在意義が社会に対して真に発揮されるのは、むしろそのような「現在の社会の枠組み」が完全に崩壊したときなのではないでしょうか。

戦後、安定した時代が長かったため、経済システムや行政サービスに対する国民の信頼はほとんど絶対的なものになっていますが、高々、まだ戦後せいぜい70年です。建立後300年・400年当たり前のお寺的な時間軸で見れば、子どものようなものです。そして、日本社会の変化を1000年以上も見続けてきたご本尊の視点から確実に言える真理は、ただ一つとして、永続した社会の枠組みというものは存在しないということです。栄華を誇った平家も没落し、200年以上も政権を維持した徳川幕府も倒れました。最近は、国家の経済破綻や戦争など、いずれ日本に「ひどいこと」が起きる現実味が増していますが、お寺を足場に世の中を見るならば、遅かれ早かれ「ひどいこと」は間違いなく起こるのです。過去、崩壊しなかった社会システムはありません。むしろ、人類の精神が段階的に成長しているようにも思えないのに、これほどまでに科学技術が進歩した結果、まるで体ばかり大きくなった幼児が手に負えない事件を起こしかねないような、そんな状況ではないかと思います。

医者にはできない僧侶の役目が「人は必ず死ぬ」という事実を語ることであるならば、国にはできないお寺の役目は「国のシステムは必ず滅びる」という事実を語ることかもしれません。現代人は、経済システムや行政サービスに高度に依存した生活を送っています。国家もセーフティネットをさまざまに張り巡らせて国民の生命や暮らしを守ろうと(たぶん)努力しています。しかし、そこで想定されているセーフティネットは、現代の国の枠組みが無事に成り立っていることを前提としたものにすぎません。もし仮に、というより、遅かれ早かれ間違いなく来る未来として、経済破綻や戦争などで既存の国のシステムがすべてシャットダウンしたときに、私たちは社会をどこから再起動しますか? 行政も自衛隊も警察も消防も動かず、通貨も機能しない世界で、何を手がかりに私たちは再び立ち上がることができるのでしょうか?

最後のセーフティネットとしてのお寺

それはたとえば、お寺が昔から大事にしてきた「コミュニティ」かもしれません。コミュニティ、特に損得を超えた慈悲の心を大切にするお寺のコミュニティは、たとえ通貨が機能せずとも、信頼を軸に人と人との恊働が成り立ちやすいでしょう。平常時には意識されませんが、お金で得られるサービスに生活のすべてを依存している人は、非常時には大きなリスクを抱えています。当たり前ですが、信頼はお金では買えませんし、作るには時間のかかるものです。非常時にあわてても遅い。何気ない平常時から、非常時を見据えてお寺に集うということが、大事だったのではないでしょうか。

あるいは「儀礼」。昔から民衆は戦乱に翻弄されながらも、現実の生活においては「国滅びても、されど暮らしは続く」わけです。たとえ昨日と今日で国家の枠組みが総入れ換えとなったとしても、いつもと変わらず家族が皆集まって、仏壇の前でお経を読み念仏を称えるところから一日がスタートする、そんなところに日本人の粘り強さの源があるのではないかと思います。先日、釈徹宗先生のインタビューで儀礼の重要性について伺いましたが、その辺りも現代人の弱点かもしれません。儀礼がそれを行う人の生きる力となるまでにも、それなりの時間とエネルギーがかかります。非常時になっていきなりはじめても、間に合いません。自らの「死」を意識することも含め、人が日頃からお寺や仏壇に参る習慣を持つということは、日常に非常時の感覚を組み込むための巧妙な仕掛けだったのかもしれません。

そしてもちろん「思想」。皆が共有する既存の価値観が壊れてしまったとき、いったいどこに立ち戻ればいいのか。私は、そのようなときに立ち戻るべき原点として幾度となく参照され続けてきたのが、現代では「古典」と呼ばれるような、過去の偉大なる思想家たちの思想ではないかと思います。生老病死という人生の実相に向き合うための実践的な叡智、人間観や世界観の豊かな表現が仏教にはあふれていますから、原点に立ち返って価値観を再構築する場としても、お寺はとても適しています。

国のシステムが崩壊し、すべてのセーフティネットがシャットダウンした後に、最後に起動するセーフティネットが、お寺です。人々の平穏な日常の安心を支えながら、想像を超えた非常事態への準備を促すのが、お寺の布教活動というものなのかもしれません。

お寺よ、変わるな!そして、生き残れ!

やがて必ず来るすべてが灰燼に帰した世界で、人々が再び立ち上がるために。

(2014年6月15日「彼岸寺」より転載)