野球賭博問題、巨人の3選手を無期失格処分 NPB「拭いがたい汚点」【UPDATE】

プロ野球・読売ジャイアンツ(巨人)の野球賭博問題で、日本野球機構(NPB)調査委員会は11月10日、3選手の賭博行為を認定し、無期失格処分が相当とする最終報告書を公表した。
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【UPDATE】2015/11/10 17:45

日本プロ野球機構(NPB)は11月10日、巨人の福田聡志、笠原将生、松本竜也の3選手を失格とするコミッショナー公示を発表した

野球賭博でプロ野球選手が処分されるのは、1969年の「黒い霧事件」以来となる。

【元の記事】

プロ野球・読売ジャイアンツ(巨人)の野球賭博問題で、日本野球機構(NPB)の調査委員会は11月10日、3選手の賭博行為を認定し、無期失格処分が相当とする最終報告書を公表した。NHKなどが伝えた。

報告書はこの日、熊崎勝彦コミッショナーに提出された。

3選手は、いずれも巨人の福田聡志投手(32)笠原将生投手(24)、松本竜也投手(22)。福田投手は巨人戦を含むプロ野球や高校野球、アメリカ大リーグの試合、松本選手はプロ野球の試合を賭博の対象にしたほか、3選手はバカラ賭博などをしていた。野球協約に違反するとして巨人がNPBに報告していた。

NHKによると、記者会見で調査委関係者は以下のように処分理由を説明した。

「3人は野球協約で禁止されていることを知りながら賭博を行っていて、多くの野球ファンを裏切りプロ野球界に拭いがたい汚点を与えた責任は極めて重い」

NPBは、巨人にも指導、管理が不十分だったとして、制裁金1000万円が相当と判断した。一方で3選手以外に、巨人や他球団での同様の行為について、具体的な情報は得られなかったとした

一方で朝日新聞デジタルなどは、警視庁が3選手から任意で事情を聴いていたと報じた。巨人は9日に、3選手を契約解除する方針を発表。原沢敦・専務取締役代表(59)が引責辞任した

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巨人軍、栄光のV9戦士たち
川上哲治(監督)(01 of40)
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巨人V9の監督。県立熊本工高から1938年に入団。1961年から監督を務め、V10を逃した1974年を最後に退団した。2013年10月、93歳にて死去。\n\n▽9連覇を達成し、喜び合う川上哲治監督(右)ら巨人ナイン(東京都)=1973年11月 (credit:時事通信社)
川上哲治(監督)(02 of40)
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▽試合前のセレモニーで巨人の原辰徳監督(左)と話す川上哲治元監督(東京ドーム)=2007年06月08日 (credit:時事通信社)
城之内邦雄(投手)(03 of40)
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V9初期のエース。「エースのジョー」(宍戸錠のニックネームにあやかる)の愛称で呼ばれた。\n\n千葉県立佐原第一高から日本ビールを経て、1962年に入団。24勝12敗で新人王を獲得。1964年から1967年まで4年連続でチームで最多の勝星を稼いだ。1974年にロッテに移籍し、その年に引退。通算141勝。引退後はロッテの投手コーチやスカウト、巨人のスカウト(肩書は編成部専任次長)を務めた。\n\n▽日本シリーズ第3戦・巨人-阪急、巨人の城之内邦雄のピッチング(後楽園)=1967年10月24日 (credit:時事通信社)
城之内邦雄(投手)(04 of40)
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▽東日本大震災復興支援を目的とした巨人-阪神OB戦。力投する巨人OBの城之内邦雄氏=16日、楽天koboスタジアム宮城=2014年11月16日 (credit:時事通信社)
中村稔(投手)(05 of40)
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宇治山田商工高(三重)から1957年に入団。1961年に17勝してチームの勝ち頭となる。1965年に20勝してV9の初年度の優勝に貢献した。1969年限りで現役引退。その後は、巨人や千葉ロッテの投手コーチを務めた。通算72勝。\n\n▽巨人の中村稔投手=1967年05月 (credit:時事通信社)
中村稔(投手)(06 of40)
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▽宮本和知投手(左端)に声を掛ける巨人の中村稔投手コーチ(左から2人目)。右端は山倉和博捕手、右から2人目は駒田徳広内野手(横浜スタジアム)=1990年05月10日 (credit:時事通信社)
堀内恒夫(投手)(07 of40)
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V9のエース。愛称は「悪太郎」。独特の大きなドロップカーブが武器。\n\n甲府市立甲府商高から1966年にドラフト1位で入団。この年に16勝し、最優秀防御率、最高勝率、沢村賞、新人王のタイトルを獲得した。1972年には26勝を挙げ、MVP、日本シリーズMVP、最多勝、沢村賞に輝いた。1978年まで13年連続2桁勝利。\n\n1983年のシーズンで引退。通算203勝。ダイヤモンドグラブ賞7回。その後は巨人ヘッドコーチなどを経て、2004、05年と巨人監督を務めた。\n\n2013年8月、繰り上げ当選で参院議員に初当選した。自民党。\n\n▽阪神-巨人、力投する巨人の堀内恒夫投手(甲子園)=1972年06月09日 (credit:時事通信社)
堀内恒夫(投手)(08 of40)
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▽参院本会議で質問する自民党の堀内恒夫氏=5日午前、東京・国会内=2015年06月05日 (credit:時事通信社)
金田正一(投手)(09 of40)
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享栄商高(愛知)を中退し、国鉄を経て1965年に巨人に移籍。1969年に通算400勝を達成し、同年限りで現役を引退した。\n\nその後は、ロッテオリオンズの監督を二度にわたって務めた。最多勝3回、最優秀防御率3回、最多奪三振10回、沢村賞3回。\n\n▽巨人・金田正一のピッチング(大阪球場)=1965年10月30日 (credit:時事通信社)
金田正一(投手)(10 of40)
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▽試合前の1打席対決で、打者の長嶋茂雄氏へボールを投げる金田正一氏=4日、東京ドーム=2014年07月04日 (credit:時事通信社)
高橋一三(投手)(11 of40)
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V9左のエース。北川工高(広島)から1965年に入団。1969年に22勝を挙げて最多勝、沢村賞を獲得。1973年にも23勝を記録し、2度目の沢村賞を獲得した。\n\n1976年に日本ハムに移籍。1983年に現役引退。通算167勝。\n\n引退後は巨人と日本ハムの投手コーチを歴任。2009年に山梨学院大学硬式野球部監督に就任、2014年春に退任した。\n\n▽日本シリーズ第5戦・阪急-巨人、力投する巨人の高橋一三投手(兵庫・西宮球場)=1972年10月28日 (credit:時事通信社)
高橋一三(投手)(12 of40)
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▽山梨学院大学野球部の監督に就任した、元プロ野球巨人の左腕エース高橋一三氏(山梨・甲府市)=2009年06月07日 (credit:時事通信社)
宮田征典(投手)(13 of40)
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日本野球界におけるリリーフ専門投手の草分け的存在で「8時半の男」と呼ばれた。\n\n県立前橋高から日大を経て、1962年に入団。 1965年は救援投手として大活躍し、20勝(うちリリーフで19勝、さらに現在の規定ならば22セーブ)、防御率2.07(リーグ4位)の好成績を収めた。1969年年限りで現役を引退。通算45勝30敗。\n\nその後は、日本ハム、西武、巨人、中日などの球団で長く投手コーチを務めた。2006年7月、肝不全のため死去。66歳だった。\n\n▽プロ野球オールスター戦に出場した巨人の宮田征典投手(右)。左は巨人の森昌彦捕手、中央は全セ・コーチの大洋・三原脩監督(1965年7月19日、後楽園)=1965年07月19日 (credit:時事通信社)
宮田征典(投手)(14 of40)
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七回表横浜二死、小川博文に本塁打を打たれ降板する巨人の高橋尚成投手(左)。右から宮田征典投手コーチ、阿部慎之助捕手(東京ドーム)\n\n撮影日:2001年06月22日 (credit:時事通信社)
渡辺秀武(投手)(15 of40)
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静岡県立富士高校、本州製紙、日本軽金属を経て、1963年に入団。1966年に13勝を挙げ、1970年にはノーヒットノーランを達成、23勝を挙げるなど堀内恒夫、高橋一三と並んで主力投手として活躍した。\n\nその後、日拓(その後日本ハム)、大洋、ロッテ、広島に移り、1982年に現役引退。通算118勝。広島のスカウトとして活動。2007年8月、肺炎のため死去、65歳だった。\n\n▽力投する巨人の渡辺秀武投手(1966年7月、撮影場所不明) (credit:時事通信社)
渡辺秀武(投手)(16 of40)
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▽広島と仮契約を結び、笑顔で会見する石川・遊学館高校の鈴木将光外野手。左は渡辺秀武スカウト(石川・金沢市内のホテル)=2005年10月29日 (credit:時事通信社)
新浦壽夫(投手)(17 of40)
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静岡商高を中退し、1968年にドラフト外入団。V9最終年に先発ローテーション入り。第一次長嶋政権の1976年~1979年は大車輪の活躍で4年連続2桁勝利と2桁セーブポイントを同時に挙げ、そのうち1977年、1978年は2年連続で最優秀防御率と最多セーブを同時に記録した。\n\n1984年~1986年は韓国の三星に在籍、1987年から日本球界に復帰し横浜、ダイエ、ヤクルトにわたり、1992年に現役引退した。日本通算116勝、39セーブ。\n\n▽新浦寿夫・投手 読売ジャイアンツ(背番号28)=1978年00月00日 (credit:時事通信社)
新浦壽夫(投手)(18 of40)
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▽大洋の新浦壽夫投手(東京ドーム)=1990年04月18日 (credit:時事通信社)
森昌彦(森祇晶、捕手)(19 of40)
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V9時代の正捕手で、「V9の頭脳」の異名を取った。\n\n岐阜高から1955年にテスト入団。8年連続ベストナイン。V10を逃した1974年限りで現役引退した。\n\n巨人、ヤクルト、西武のコーチを経て、1986年に西武監督に就任し、合わせて登録名「森祇晶」に変えた。監督として9年間で8度のリーグ優勝、6度の日本一に輝くなど西武黄金時代を築いた。2001,02年は横浜監督。\n\n▽プロ野球日本シリーズ第6戦・阪急-巨人、最高殊勲選手(MVP)に選ばれ喜ぶ巨人の森昌彦選手(西宮球場)=1967年 (credit:時事通信社)
森昌彦(森祇晶、捕手)(20 of40)
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▽横浜-広島、五回表広島、一塁走者の東出輝裕の盗塁に対する判定を確認する横浜・森祇晶監督(神奈川・横浜)=2002年05月22日 (credit:時事通信社)
吉田孝司(捕手)(21 of40)
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神戸市立神港高から1965年に入団。森昌彦に次ぐ二番手捕手としてV9を支えた。\n\n1984年に現役引退。巨人コーチを経て、1995年にフロント入り。2012年からDeNAの編成・スカウト部長。\n\n▽巨人-ヤクルト6回戦、初完投で3勝目を挙げ吉田孝司捕手(左)と握手する巨人の堀内恒夫投手(後楽園)=1977年05月07日 (credit:時事通信社)
吉田孝司(捕手)(22 of40)
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▽DeNAと仮契約したドラフト1位で指名された日本生命の柿田裕太投手(右)と吉田孝司スカウト部長=18日午後、大阪市内のホテル=2013年11月18日 (credit:時事通信社)
王貞治(内野手)(23 of40)
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「一本足打法」と呼ばれる独特の打法で、ON砲として並び称された長嶋茂雄とともに、V9の顔として国民的人気を誇った。一塁手。\n\n早稲田実業高から1959年に入団。通算は868本塁打、2786安打、打率.301、2170打点。三冠王2回、首位打者5回、本塁打王15回、打点王13回、MVP9回、ベストナイン18年連続18回、ダイヤモンドグラブ賞9年連続9回と、抜群の成績を残す。\n\n引退後、巨人助監督を経て、監督。その後、ダイエー、ソフトバンク監督。2009年1月からソフトバンクの取締役会長。\n\n▽1970年代のプロ野球。巨人軍の王貞治一塁手(東京都) (credit:時事通信社)
王貞治(内野手)(24 of40)
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▽ソフトバンクのスタッフ会議に臨む王貞治球団会長(手前右)と工藤公康監督=23日、福岡ヤフオクドーム=2015年01月23日 (credit:時事通信社)
土井正三(内野手)(25 of40)
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育英高(兵庫)、立教大を経て1965年に入団。二塁手。主に2番打者を務め、主軸の王、長嶋へつないだ。通算1275安打、242犠打。\n\n1978年に引退した後は、巨人コーチを経てオリックス監督。2009年9月に67歳で死去した。\n\n▽巨人・土井正三選手のバント=1978年 (credit:時事通信社)
土井正三(内野手)(26 of40)
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▽土井正三 プロ野球監督 オリックス・ブルーウェーブ(背番号75) \n(2009年9月25日死去、67歳)=1993年01月29日 (credit:時事通信社)
長嶋茂雄(内野手)(27 of40)
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愛称は「ミスタージャイアンツ」。闘志溢れるプレーと無類の勝負強さで巨人の4番打者として活躍した国民的スター。ポジションは三塁。\n\n千葉県立佐倉第一高から立教大を経て、1958年に入団。1974年現役引退。通算2471安打、444本塁打、1522打点。生涯打率は.305。\n\n首位打者6回、本塁打王2回、打点王5回、MVP5回、新人王、ベストナイン17回、ダイヤモンドグラブ賞2回。 \n\nその後、二度にわたって巨人監督を務めた。\n\n▽ネクストバッターズサークルで、出番を待つ巨人・長嶋茂雄選手=1973年 (credit:時事通信社)
長嶋茂雄(内野手)(28 of40)
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▽「2015読売巨人軍激励会」に出席する長嶋茂雄終身名誉監督=17日、東京都千代田区のホテルニューオータニ[代表撮影]=2015年03月17日 (credit:時事通信社)
黒江透修(内野手)(29 of40)
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遊撃手、二塁手。私立鹿児島高を卒業後、杵島炭鉱などを経て1964年入団。1974年引退。通算923安打。\n\n引退後は、指導者として主に名参謀として活躍。巨人、中日、西武、千葉ロッテ、ダイエー、横浜でコーチを務めた・。\n\n▽巨人時代の黒江透修遊撃手の守備。左は長嶋茂雄三塁手(撮影年月日、場所不明) (credit:時事通信社)
黒江透修(内野手)(30 of40)
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▽西武の渡辺久信監督(右)と黒江透修ヘッドコーチ(西武ドーム)=2008年10月19日 (credit:時事通信社)
広岡達朗(内野手)(31 of40)
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広島県立呉三津田高、早稲田大を経て1954年入団し、新人王。遊撃手としての堅実さ、華麗さを阪神の吉田と競いあった。1966年に現役引退。通算1081安打、117本塁打。\n\nその後は解説者として容赦のない毒舌な解説が人気を博した。広島コーチを経て、ヤクルト監督となり日本一に導く。西武監督、ロッテGMも務めた。\n\n▽巨人時代の広岡達朗内野手。この年を最後に現役引退した(1966年、撮影場所不明) (credit:時事通信社)
広岡達朗(内野手)(32 of40)
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▽プロ野球・ヤクルトのキャンプ地を訪問した広岡達朗元監督(沖縄・浦添市)=2012年02月06日 (credit:時事通信社)
高田繁(外野手)(33 of40)
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球界屈指の名左翼手として「壁際の魔術師」と呼ばれた。 甘いマスクとスマートなプレースタイルで女性からの人気も高かった。\n\n浪商高(大阪)、明治大を経て、ドラフト1位で入団。1980年に引退。通算1384安打、打率.273。盗塁王1回、新人王、ダイヤモンドグラブ賞6回。\n\n引退後は、日本ハム監督、巨人コーチ、日本ハムGM、ヤクルト監督を経て、現在はDeNAのGM。\n\n▽新人時代の巨人・高田繁外野手(撮影年月日、場所不明) (credit:時事通信社)
高田繁(外野手)(34 of40)
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▽DeNAと仮契約し、高田繁ゼネラルマネジャー(左)と笑顔を見せる亜大の山崎康晃投手=7日、神奈川県横浜市(2014年11月07) (credit:時事通信社)
柴田勲(外野手)(35 of40)
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赤い手袋をトレードマークに盗塁王6回。自己最高は1967年の70盗塁。通算盗塁数579は現在もリーグ1位で、歴代3位。\n\n法政二高時代に甲子園で優勝。1962年に入団。投手から野手に転向し、スイッチヒッターとなる。二枚目でもあり人気になる。\n\n1981年に現役を引退した後は、巨人コーチを務めた。通算2018安打。ダイヤモンドグラブ賞5回。\n\n▽巨人・柴田勲外野手のバッティング(1972年5月、後楽園) (credit:時事通信社)
柴田勲(外野手)(36 of40)
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▽東日本大震災復興支援を目的とした巨人-阪神OB戦。ベンチで話す巨人OBの王貞治氏(左)と柴田勲氏(中央)=16日、楽天koboスタジアム宮城=2014年11月16日 (credit:時事通信社)
末次利光(外野手)(37 of40)
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鎮西高(熊本)から中央大を経て、1965年に入団。 V9では主に5番打者、外野手として活躍。1977年に引退するまで、通算895安打、107本塁打。\n\nその後は巨人コーチ、二軍監督を経て、巨人フロント入りし、スカウト部長を務めた。\n\n▽日本シリーズ第5戦・巨人-阪急、最高殊勲選手(MVP)に選ばれ喜ぶ巨人の末次利光選手(東京・後楽園)=1971年 (credit:時事通信社)
末次利光(外野手)(38 of40)
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▽末次利光(巨人-中日戦前に行われた巨人歴代ユニホーム紹介セレモニー。東京ドーム)=2014年07月04日 (credit:時事通信社)
国松彰(外野手)(39 of40)
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京都市立西京高、同志社大を経て、1955年に入団。外野手。ONの脇を固める巧打者としてV9を支えた。\n\n1970年に現役引退。通算979安打。その後は巨人コーチや二軍監督を務めた。\n\n妻が東京の和菓子店「亀屋万年堂」の創業者の娘で、2002年に同社の社長、2011年に会長に就任した。\n\n▽巨人・国松彰外野手のバッティング(1968年10月16日) (credit:時事通信社)
国松彰(外野手)(40 of40)
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▽国松彰 元プロ野球選手 亀屋万年堂会長(巨人-中日戦前に行われた巨人歴代ユニホーム紹介セレモニー。東京ドーム)=2014年07月04日 (credit:時事通信社)