麻原彰晃死刑囚の人生をたどった。貧しい家の四男が、テロを指示する「教祖」に【オウム真理教】

選挙での敗北後、教団の武装化が進んでいきました。
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拘留尋問を終え、警視庁に戻るオウム真理教の麻原彰晃(本名=松本智津夫)容疑者(東京・霞が関)=1995年06月16日
時事通信社

7月6日、刑が執行された麻原彰晃(本名・松本智津夫)死刑囚。その人生をたどった。

1955年熊本県八代市生まれ。9人きょうだいの4番目に生まれた。先天性緑内障で左目は見えなかったが、右目は弱視でわずかに視力があったという。

家は貧しく、地元の小学校から県立盲学校に転校。以後、小中高と盲学校で学び、鍼灸師の資格を取って専攻科を卒業した。

「東大受験」を希望し、上京。予備校「代々木ゼミナール」で妻と知り合い、1978年に結婚。漢方薬局の経営を経て、1984年にヨガサークル「オウム神仙の会」を設立した。

座禅を組みながら浮き上がる「空中浮揚」の写真で話題を集め、87年に「オウム真理教」に改称。全国各地に支部や道場を開いて信者を増やした。

1989年、信徒の田口修二さんの殺害と、教団の被害者の相談活動にあたっていた弁護士・坂本堤さん一家3人の殺害を教団幹部に指示。

その一方で、1990年の衆院選には「真理党」を結成し、松本死刑囚自身や信徒計25人が立候補したが、全員落選した。信者が急増する一方で、信徒の脱会や高額な「お布施」の支払いなどを巡ってトラブルが相次ぎ、社会的な批判を浴びた。

選挙での敗北後、教団の武装化が進んでいく。

1994年6月には長野県松本市で猛毒の化学物質「サリン」を噴霧。8人が死亡し、600人以上が負傷した。95年3月には、東京の地下鉄車内で教団幹部5人が一斉に「サリン」を散布。13人が死亡し、6000人を超す乗客らが負傷した。

地下鉄サリン事件の2日後から、警視庁などは教団への一斉捜索を始めた。5月、山梨県上九一色村の教団施設の2階天井に札束を抱いて隠れていた松本死刑囚が逮捕された。

1996年から東京地裁で公判が始まった。

13の事件で27人を死なせたとして2004年2月、死刑判決が出た。2006年9月、死刑が確定した。その後、特別手配されていた3人の元信徒の全員逮捕を経て、オウム関連の刑事裁判がすべて終わったのは、2018年1月だった。

公判で、殺害などを認める教団幹部の供述が相次ぐようになると、公判中に居眠りをしたり意味不明な独り言を繰り返すようになる。一審の死刑判決の言い渡しの瞬間、松本死刑囚は立ったままうつむき、身動きもしなかったという。