日系カナダ人映画監督が映し出す 東北に生きる人々の姿

「この映画は、私にとって"自分のDNAを探る旅"なのだと思います」

東北を始めとする東日本各地を襲った大地震の発生から7年。震災直後、被災地の復興に向けて懸命に汗を流した多くの外国人を取材した私たちですが、ここでもう一人、地震をきっかけに祖国とつながった方をご紹介します。

リンダ・オオハマさん。カナダ西部の都市バンクーバーで生まれた日系3世のドキュメンタリー映画監督です。これまでに世界各地で作品を上映し、数々の賞を受賞してきました。そんなリンダさんが、日本を直撃した大地震の報道に触れて東北へ飛び、現地の人たちとふれあい、声に耳を傾けながら、彼らの生き様を映像に記録。取材・撮影に約2年半、編集にも同じく約2年半を費やし、ついに2016年、映画『東北の新月』として世に放たれました。

その映画が昨年11月下旬、世界都市・東京の中心である銀座で上映。リンダさんもカナダから駆けつけ、東北に縁や思いを持つ人たちとの交流が行われました。

*上映会@銀座ソーシャル映画祭(主催:中越パルプ工業株式会社)

*撮影:蔵原実花子さん(TWFF)

映画のタイトルにある"新月"は、リンダさんが初めて訪れた時の東北の印象を言葉に表したもの。「初めて私が東北に行った時、私には何も見えませんでした。その頃の東北は新月でした。しかしきっと、東北もいつか必ず満月を見る日が来ます」「長崎経済新聞 動画版」より)そのような思いを、リンダさんは『東北の新月』の名に込めました。

「関東大震災から逃れるように祖母がカナダに渡ったその約90年後、東日本大震災をきっかけに私は日本に戻ってきた」というリンダさんの独白で、この映画は始まりました。

※上の画像をクリックすると『東北の新月』予告編に移動します。

上映後、トークセッションへ。今回の上映会の実現に向けて奔走した「TOKYO WOMEN'S FILM FESTIVAL」(TWFF)代表のディアス実和子さんの進行のもと、リンダさんは東北での人々との交流を通じて学んだ日本語で静かに語り始めました。

写真右端:ディアス実和子さん(TWFF) 写真左端:西村修さん(銀座ソーシャル映画祭 企画・運営)

2011年3月11日、私はカナダのバンクーバーにいました。インターネットで津波の映像を見て、とても心が痛みました。

その翌日の3月12日、私の6歳の孫が私に聞きました。「おばあちゃん、東北の子供たちは大丈夫?」と。そして彼女は言いました。「私は東北の人たちにハグをあげたい。あの人たちは、もしかしたらお父さんやお母さん、おばあちゃんを失ってしまったかもしれない。でもハグをあげたら、きっと孤独が癒されるはず」。だから私は孫に「一緒に東北に行かない?」と言いました。でもそれは無理な話。そこで孫は「おばあちゃん、私が東北の人たちのために、写真や手紙、絵でハグを作るからね」と言いました。彼女が作った"クロスレター・ハグ"はとても素晴らしかったので、私はカナダの子供たちと東北の子供たちをクロスレター・ハグでつなぐプロジェクトを立ち上げました。孫の友達やクラスメイトがたくさんハグを作り、私もバンクーバーやトロント、モントリオールなどの人たちに呼びかけ、クロスレター・ハグがカナダ中の子供たちから届きました。

私は2011年6月、東北に行きました。映画監督としてではなく、おばあちゃん、お母さん、そして日系カナダ人3世である一人の人間として、初めて東北の地を踏みました。そのまま約2ヶ月間、現地に滞在し、その後の約2年半もバンクーバーに帰らず、東北に滞在し続けました。私はたくさんの人たちに出会いました。たくさんの友達、たくさんのおじいちゃんやおばあちゃん、たくさんの孫・・・多分私には、2000〜3000人の孫がいます。誰にそれだけたくさんの孫がいるでしょうか?

そして私は映画を作りました。当時の私は日本語が話せなかった上に、通訳がいませんでした。カメラマンもいませんでした。私は映画監督であり、カメラを回したことがありませんでした。でも製作資金が無かったから、私が撮影するしかありませんでした。そして東北で出会った人たちの中から約80人の人たちにインタビューをしました。彼らは英語を話さないし、私も日本語が話せない。でも心と心でつながりました。

だから今なら言えます。「英語だろうが日本語だろうが中国語だろうがフランス語だろうが、言葉の壁など無いのだ」と。人間は同じ人間であり、"痛い"という感覚、"ハッピー"という気持ちは誰もが同じように持っている。そしてボディーランゲージとアイコンタクトで通じ合うことができる。それを私は東北で学んだのです。

ディアスさんが解説を加えました。

リンダさんが現地でインタビューしている時は、彼らが何を話しているのかを、少し理解した程度でした。東北からカナダに帰国後、カナダ在住の日本人たちの協力を得て彼らの言葉を英語に翻訳。そのときリンダさんは、彼らが何を話していたのか、その全てをようやく理解しました。

リンダさん:

最初は挨拶程度だった私の日本語でしたが、出会いの中で、やがて「ちょっとお茶でも飲んでいきなよ」と誘われるようになり、それからハグし合うようになり、やがて共に涙する間柄になったのです。

ディアスさんがリンダさんに質問しました。

東北の人たちは、震災取材などに来たジャーナリストにあまり心を開かないということを聞いたことがあります。リンダさんはどうやって彼らの心を開いていったのですか?

リンダさん:

とにかく彼らに「私はあなた方を怖いと思っていません。だから私のことも怖がらないでください」と伝えました。私は"人間皆同じ"だと信じています。上も下もない、先生も赤ちゃんも、カナダ人も日本人も、みんな平等なんだと信じている。そういう私の性格が、東北の人たちに伝わったのだと思います。

東北には何もありませんでした。ホテルが無かったから、私は小さいテントを立てて、そこに住んでいました。東北の人たちは、そんな私のもとへ訪ねてくれました。そして彼らが、あまり日本語が話せない私のことを心配してくれたのです(笑)

ディアスさん:

震災から6年半以上(*上映会当時)が経ちましたが、今の東北の人たちの生活はどうですか?

リンダさん:

今でも仮設住宅に住んでいる人が多くいます。日本はカナダよりも豊かな国のはずなのに、なぜそのような状況が続いているのでしょう?岩手県大槌町の人が言っていました。「東京ではもうすぐオリンピックが開かれ、それに向けて準備が進んでいる一方で、この町には建設作業員がいない」と。それは私にとってもすごく辛いのです。

東北の人たちは、寄付など求めていません。彼らが恐れているのは、自分たちが"Invisible"、つまり忘れられた存在になってしまうことなのです。彼らは生きている。でも人々はそんな彼らのことを忘れつつあるのではないでしょうか?彼らに最も必要なのは"愛"であり、"ハグ"。彼らは同じ日本人からの愛を求めているのです。

私は日系カナダ人として、日本を愛しています。食べ物などの日本文化は本当に素晴らしい。そして東北の人たちは、侍の精神を持ち続けています。また東北の若い人たちも、地元の踊りを教えるなど、自分たちの文化を守ろうとしています。田舎の人たちは、自分たちがおばあちゃんやお母さんから教わった食事のレシピを守ろうとしています。災害で全てを失ってしまっても、生きる力は自分たちが大事にしてきた文化や家族、仲間、そして自分たちが育った国が与えてくれる。だから皆さんも、自分たちの宝物を大事にしてください。

ディアスさん:

この映画への、海外の反応はいかがですか?

リンダさん:

イタリア人もカナダ人もアメリカ人も、この映画を見た人たちは一様に"人の命"、そして"人の絆"を感じるようです。そして映画を見た人は笑い、泣き、そして東北の人たちに愛情を抱くのです。

途中、お父様が映画に登場した、南相馬市小高ご出身の裕美さん(上の写真中央)を交え、トークが続きました。

裕美さん:

映画の中では、私が見たことの無い父の姿を見ることができました。だからこの映画に感謝しています。

リンダさん:

東北に住むお父さん、お母さん、おじいちゃん、おばあちゃんたちは、子供たちに対してあまり多くを語らないもの。一方で子供たちは、彼らのことをもっと知りたいと思っています。ところが映画では、普段は多くを語らないはずの大人たちがたくさん話している。「こんなことを話したのは初めてだ」とおっしゃった人も多いです。そして話すことが癒しになったという声も聞いています。

裕美さん:

東北の人たちは、話し始めるまでの壁が厚いですが、一度その壁が外れたら、たくさんのことを話し始めるという傾向があります。

ディアスさん:

もしかしたら、言葉があまり通じないリンダさんだからこそ、東北の人たちが口を開いたのかもしれませんね。

リンダさん:

私が東北で取材・撮影した約2年半の間、スカイプで話す以外は一切家族に会いませんでした。その間は、東北の人たちが私の家族だったのです。

そしてリンダさんは結びました。

トークセッション後は懇親会。「銀座ソーシャル映画祭」恒例の、運営スタッフの方々による手料理が振る舞われました。

上映会に参加した方々に『東北の新月』の感想を聞いてみました。

男性

「私は震災発生当時にボランティアとして支援活動に行き、それがきっかけで今も月に1回は東北、特に気仙沼や陸前高田、大船渡周辺に伺っています。つまり私にとって東北は日常になっているがために、震災発生当時に東北に行った時の気持ちを忘れかけていたのです。この映画で改めて当時の思い出が蘇ってきました。これからもずっと、東北に縁がある人にも無い人にも、この映画を見ていただきたいです」

女性

「東北の人たちの声だけでなく、作り手であるリンダさんの気持ちも伝わってきました。被災者の人たちに寄り添い、時間をかけて作られたということから、リンダさんが東北に大変心を寄せられていたのではないかと思いました」

女性

「すごく変な話かもしれませんが、どこか遠い国の出来事のように思いました。それは、まだ私が東北に行ったことが無く、東北出身の友人などもいなかったからだと思います。だけどこの映画を通じて、現地の人たちの気持ちや心を感じ取ることができました。作品の中に出てくるお父様(トークセッション時にパネリスト参加した裕美さんのお父様)の姿を、私の父に重ねたりもしました」

裕美さん(作中に登場した男性の娘さん)

「この映画は、カナダ大使館での試写会で初めて見ました。その時に映画の中で見た父からは、身内に対して話している姿と、外から来た人に話している姿の両方が見受けられました。家族だからと言って必ずしも本音を話すとは限らないような気がしていますが、インタビュアーがリンダさんという、言語でのコミュニケーションが難しい相手だからこそ、そして映画を撮影する上でのインタビューだったからこそ、父は素直に話せたのかもしれません。私が思っていたよりも、父が抱えていた悲しさや悔しさなどの、娘には強がって見せない部分が見えました」

トークセッションでモデレーターを務めたディアス実和子さん、そしてリンダさんご本人にもお聞きしてみました。

ディアスさん

「リンダさんとは、震災前から交流がありました。だから彼女がこの映画を製作していた姿をずっと見てきました」

リンダさん

「東北で取材していた間、ほとんどがテントか車の中での生活で、ホテルに泊まったのは2年半のうちの4日間だけでした。取材期間中はキッチンが無い環境だったため、料理の手間がかからないパン食が中心。そのため小麦アレルギーにかかってしまったほど(笑)でもご自宅や仮設住宅に泊めてくれた方もいました。さらに映画製作費についても様々な人たちに支援していただきました」

ディアスさん

「リンダさんからは、東北の人たちがどれだけ大変な思いをしているかを、ずっと聞いてきました。だからこそ、私はたくさんの人たちにこの映画を見てもらいたいと思いました」

リンダさん

「だけど私には力もコネクションもない。だからNHKを始めとする日本の大手メディアの力をお借りして、この映画を広めたいと思っています」

最後に私たちから、こんな質問をしてみました。

Q. 単に被災地の様子を撮影しているのではないと思います。単に東北の人たちの生活をカメラに収め、彼らにインタビューしたのではないと思います。リンダさんは東北の人々の生活に密着するうちに、やがて自身のルーツを、東北の人々を通して探るようになったのではないか - そんなことを考えましたが、いかがでしょうか?

リンダさん:

そうですね。きっとこの映画は、私にとって"自分のDNAを探る旅"なのだと思います。

裕美さんのお子さんと

『東北の新月』関連リンク

協力団体

TOKYO WOMEN'S FILM FESTIVAL (TWFF):www.twff.info/

かすかべメディアカフェ:www.facebook.com/KasukabeMediaCafe/

銀座ソーシャル映画祭:www.facebook.com/ginzasocialfilmfestival/

(2017年12月31日「My Eyes Tokyo」より転載)