「帝国の慰安婦」刑事訴訟 公判記1――"被告人"としてひとり法廷へ

この裁判の最大のアイロニーは、検事も弁護士も、学者若しくは既存の報告書の意見を「代弁」している点にある。
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2016年8月30日

半年以上を費やした準備期間が終わり、第1回刑事裁判が始まった。予定していたことではないが、昨日の公判について簡単に書いておくことにする。

朝9時半。法廷に入ると、いつものように多くの記者たちが待っていた。感想を述べてほしいと言われたが、言いたいことはなかった。圧倒的な暴力の前では言葉を失う。そうした瞬間を、私はこの2年2カ月間繰り返し体験してきた。

検察は、冒頭陳述で、民事裁判での原告側の主張を繰り返した。「朴裕河の本が慰安婦ハルモニたちの社会的評価を貶めた。よって、処罰すべきである」と。私がそのためのことを「間接的に暗示」したので起訴に至ったというものである。(私は私を「日帝の娼婦」と「明示的に」侮辱したナヌムの家の所長やその他の人々に対し、いまのところ何の対応もしていない)

検察は、河野談話、国連報告書、アメリカ下院決議などを挙げながら(この20年間、慰安婦問題を解決するための運動と研究の成果として蓄積された多くの文書が、いまや私の「犯罪」を証明する「証拠資料」として裁判所に提出されている)、既に「国際法を違反した」ことと国際社会が認めた慰安婦問題について、朴裕河は「性奴隷」を売春婦とみなし、強制連行を否定し、日本軍と同志的関係にあって誇りを感じたとした、と述べた。そして日本語版は韓国語版と異なるとしながら、私の「隠された意図」を今後日本語版に基づいて説明するとまで述べた。(これは告訴のあとずっと私を批判し続けてきた鄭栄桓氏の主張でもある)。

検事は最近出版された私に対する何冊かの批判書を持参していた。そして、応酬の最中に何度も「帝国の弁護人--朴裕河に問う」などを覗きながら本の主張を読み上げた。

検事が主張を述べおわった後、判事が裁判の争点をまとめたパワーポイントを画面に映した。

この裁判は、

1 事実の摘示か、意見の表明か

2 事実の摘示である場合、客観的に名誉毀損に該当するのか

3 告訴人個々人に対する名誉毀損なのか

4 摘示された事実が虚偽なのか

5 違法性があるか

を基準に結論が下されるとの説明だった。

私の弁護人も冒頭陳述を行い、私も発言権を得て検事の起訴状に対する反論を読み上げた。

続いて、検事が名誉毀損だと指摘した35カ所を三つのカテゴリーに分け、処罰すべき理由を述べた。そして弁護人が、指摘された35カ所についての反論を始めた。もともと、35カ所を一つ一つ見ていくことにしていたのである。しかし、午前に続いて午後の4時間をかけたが、結局10までしかできなかった。元々はこの日、判事が「最も重要な証拠」と述べた、本についての検証を全て行う予定だった。

検事が法廷で述べた主張と、それを聞きながら思ったことを「答弁」の形で書いてみた。弁護士もある程度答えたが、私に発言権が与えられたとしても、こういうことをすべて述べるように許されたかどうかはわからない。判事が述べた「判断」のための材料になるものとは認められない内容も多かったろう。

検事の主張は名誉棄損かどうかの域を超えている。しかし答えないと、そうした主張も私を判断する間接的な材料となるだろう。少なくとも傍聴席を埋めた記者たちを通して世論には影響を与えるはずだ。そうである限り名誉棄損とは関係ないと考えながら答えなければならない。

しかも答えるべき発言権がその都度与えられるわけではない。私は法廷で、当事者でありながら当事者ではなかった。

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検事:検察は、原告側と和解させるための調停を行ったが、被告人が拒否したがために起訴に至った。

答弁:調停では、①ハルモニ(元慰安婦の女性)たちに対する謝罪、②2015年6月に出した削除版の絶版、③日本語版の削除を求めてきた。削除版は原告側の言い分を一部認めた仮処分判決に従い、削除すべきとされたところを削除して出したものである。したがってなんの問題はなく、特に日本語版は翻訳版ではなく独自の出版なのでそうする理由もなく、そうする権利が私にあるわけでもない。

検事:朝鮮人慰安婦を米軍基地の女性と同一視した。

答弁:米軍基地の女性も韓国政府を相手に損害賠償を求めている。彼女たちも、「愛国」の枠組みで働かされた。

検事:「自発的売春婦」と書いていないと主張しているが、このように本に書かれているではないか。それに前後にその根拠がない。

答弁:「自発的に行った売春婦」に引用記号がついている理由は、この認識が引用だからである。本の前半、慰安婦は売春婦と主張する人たちを批判するパートで、「自発性の構造」という小見出しを付けて論じ、彼らの考えを批判した。そして、後ろで、前半の内容を整理するパートで、その概念をもってきて使ったのである。本を最初から文脈を逃さず読んだ人であれば、無理なく繋げて読めるはずだ。

なにより、この部分はもともと2011年に日本で連載しながら日本語で先に書かれたものである。そうした経過や文脈を完全に無視している。このフレーズの前に「日本の否定者たちの言うところの」と書いていれば誤解の余地が少なかったのかもしれない。そのように「わかりやすく」書かなかったからといって、それが告発の理由になるのだろうか。

検事:朴裕河の本は表面的には問題なさそうにみえる。実に緻密な「反論できない構造」なのだ。多くの逆接表現を使って対立する意見を並行させて記している。この本は「隠蔽された犯罪の本」だ。

答弁:そうした主張は批判者たちのものである。しかし、矛盾するようにみえる事柄が並んでいるのは、第1にこの本が一人の読者のためのものではないこと、第2に体験が実際多様な形で存在していること、第3にこの本が一つの事実を規定する歴史書の方法ではなく、過去のあらゆる「事実」に対してその後裔たちがどのように向き合うべきかを考えるような方法の本だからである。残された様々な「事実」のうちひとつだけを強調しがちだったこれまでの「歴史」の記述方式とそのイデオロギー性に私は批判的なので、当時を生きた人たちとどのように向き合い、理解し受け入れるべきかを模索した本である結果であろう。そのような方法論に反発し矛盾とみなすのは、どっちなのかを性急に聞こうとする気持ちによるものである。一つの事実のみを語らなければならないのが法廷だとすれば、そうした意味でもこの本を法廷に持ち込むべきではなかった。

検事:しかし慶北大学の法学者キム・チャンロク教授などは、2016年2月のハンギョレ新聞においてこの本が「例外の一般化、恣意的な解釈、過度な主張」をしていると指摘している。

答弁:私が選んだ内容が、たとえ全体の口述の中での数が少ないものだとしても、それが「例外」だと誰にいえるのだろう。過去に関する口述も、むしろ現在に依拠して行われることが多いというのは、口述史研究の先端認識でもある。キム教授のいう「例外」が、後になればなるほど少なくなったということもそれを傍証している。

また、証言集全てをみれば、強制連行があったと言っている人はむしろ少数だ。にもかかわらずその話をもって「強制連行」を主張してきたことこそ「例外の一般化」ではないのか。

また、もし少数だったとして、それを理由に否定すべきとするのなら、証言者の中で少数の「強制連行」を一般化して主張してきた根拠を示すべきだろう。

検事:また、若い歴史学者の批判によると、朴裕河は非難されないために「安全装置」を使ったという。そうした「安全装置」がこの本では多数使われている。なのに、そうでないという弁明に終始している。

答弁:私が慰安婦ハルモニを侮辱するつもりだったのなら、直接的に書いたはずだ。原告側と検察は、見えるままに、書かれたままに読まず、意図を疑いながら想像を事実であるかのように主張している。どうして、書かれていないものをあえて読み取ろうするのか。批判者たちの言う「政治的意図」を先に読み取り、そのための記述と疑ってかかった結果なのだろうが、それは過去において、思想犯に対して存在しない事実を自白させようとした態度と同じではないのか。

検事:『帝国の弁護人』という本に掲載された歴史評論家によると、「朴裕河のペンは二つだ。日本に向けたペンは丸く、ハルモニや朝鮮に向けたペンはあまりにも尖っている」。

答弁:歴史家でもない、歴史評論家の意見が犯罪証拠として主張されることを悲しく思う。日本に向けた私の批判がどのようなものかは、日本人が判断すべきことであろう。むしろ、厳しい批判だとの意見も少なくなく、慰安婦問題を植民地支配問題として問うたことに反発する人たちもいた。朝鮮・韓国に対する批判は、韓国人にとって居心地の悪いものかもしれないが、それは個人関係がそうであるように、国家関係でも自省が必要と考える私の価値観ゆえのものである。これに関する私の考えは、機会があるときにもう少し詳しく説明したい。たとえ私の考えに問題があったとして、それは法廷で責められるべきことなのだろうか。

検事:日本に法的責任を問わなければならないのに、朴裕河の論法は主語を省略するなど、記述を巧妙にしてどのような責任であるかを不明確にし、争点をぼやかして日本の責任を否定する。

答弁:そのように見えるのは、「法的責任」のみが責任だとする考えが作り出した疑いによるものだろう。原告側や批判者たちこそ、私が「日本の責任を否定した」とする話を広めて、国民的な非難を率いた。これこそが、私の言葉を歪曲し「争点をぼやか」したことであり、卑怯なことではないのか。この問題を見る視点が異なるが故の結論だが、それは法廷で責められるべきことなのか。

検事:慰安婦を、貧困を理由に自発的に性売買を行う女性扱いした。否定者たちの言葉を引用しながら、「事実としては正しいかもしれない」とした。倫理にもとる戦争犯罪と認められた慰安婦問題を、そうでないかのように歪曲した。岡本ゆかによれば、日本の右翼がこの本を引用しながら慰安婦は日本軍と同志的関係だとした。

答弁:私が本の中で批判した両極端の人たちは、本の出版後はそれぞれ歪曲を続けた。一方は、自分たちが言いたかったことと全く同じであるかのように利用し、もう一方は私の言葉が自分たちとまったく異なるものであるかのように歪曲して攻撃した。思うに、その両者は、それまでの考えを守ることにしか興味がない。私の本が、検察が主張するような本だったなら、出版直後に好意的に取りあげてくれた韓国の新聞の書評らは全て過ちだというのだろうか。慰安婦問題に深く関与しなかった人たちは、心を開いて私の本をありのままに読んでくれた。

検事:慰安婦問題をホロコーストと比較したことを批判したことは、ホロコーストを否定したも同然である。

答弁:ユダヤ人とドイツ人の関係は、朝鮮人と日本人の関係と同じではない。

検事:「娼妓」「売春婦」とは、金をもらい体を売る人を意味する。そうした人たちと慰安婦を同一視し、自発性を強調した。「からゆきさんの末裔」という言葉で、自発的に体を売りに行く者たちと同一視した。からゆきは親が売ったと言われているが、受諾書もあったという。朝鮮人はそうではなかった。

答弁:「日本人娼妓」と苦痛が同じだったという話は「娼妓」よりも「日本人」を強調したかった表現である。日本軍慰安婦はもともと日本人であったこと、身体を搾取されるのは自発であるかどうか関係なく苦痛だという意味だ。朝鮮人の場合も、基本的に受諾書が必要だった。業者が偽造したり、戸籍を偽った場合も多いと見ている。

「からゆき」という言葉を使ったのは、第1に日本軍慰安婦の最初の対象は日本人だったという点、第2に国家の勢力拡張に伴い移動させられた人であるという点、第3に貧困な人たちであったという点を主張するためのものだ。あえて日本語の「からゆき」をそのまま使ったのは、そのためである。

検事:同志的関係であって愛国的誇りがあったという表現に、ハルモニたちは一番憤慨している。

答弁:同志的関係とは、一次的レベルを指摘したもので、帝国の一員として包摂された状況を意味する。その枠の中で慰安が戦争を助けるものと意味付けられた状況を示している。その中で、たまたまありえた男女の親密な関係は、正確にいえば、朝鮮人と日本人の関係、すなわち民族アイデンティティとして出会ったというより、男女として、性的アンデンティティを中心にした関係だ。また、遠くに移動させられ孤独だった人同士の環境的、階級的なポジションが作ったものでもあった。

愛国を強制されたが、死ぬときには「天皇陛下万歳」よりも「お母さん!」と叫びたかったという日本人兵士の場合も同じである。私は国家が強制した愛国の枠の中にあったと説明しただけだ。もちろん、実際にどれだけ内面化したのかは誰にもわからない。私はそこまで書いておらず、目に見えるテキストの存在を指摘し、分析しただけである。

検事:愛国的誇りがあったという根拠がない。

答弁:例えば、国防婦人会のタスキを付けると嬉しかったという記述がある。それは、愛国の枠の中に置かれるとき、ようやく一人の人間として認められたかのような錯覚がおきたのであり、国家がそれを利用したことを語っている。

検事:日本語版では、異なることを言っている。次回に、朴裕河の隠れた意図を証明してみせる。

答弁:異なることを言っていると考えるのは、第1に最初からそのように見ているからだ。第2に読者が異なる以上、表現や内容を多少整理するのは当然のことだろう。

日本に対し、より必要な言葉を、同時に日本人を説得できる言葉を探そうと努力した。それは、糾弾の言葉は他者への説得において効果的でないと考える私の価値観ゆえのことである。それにしてもなぜ日本語版のことをここで話さねばならないのだろうか。

検事:朴裕河の本を擁護する人も多数いる。しかし、我々が指摘した35カ所について反論した人はひとりもいない。

答弁:擁護者たちが反論しなかったのは、批判書の中の批判だ。あえてそうするだけの生産的な議論にならないと認識したからだろう。そのほとんどが名誉毀損とは関係のない指摘である上に、また、一々対照して検証しないと、私さえも批判の歪曲に気づけないほどの巧妙な歪曲と嘘の多い批判が多い。

私ですら、そうした批判に向き合う時間的余裕と意欲が最近までなかった。しかし彼らの批判が検察の主張の根拠として使われているので、今後答えることにする。基礎的なレベルの誤読や嘘に答えるのは私一人で十分だ。すでに2年もやっている。

同時に、指摘された部分を含めて、全体として私の本が名誉棄損をするような本でないことを、多くの人たちが指摘している。

検察は名誉毀損と関係ない部分を持ちだし、私をある意図を持った魔女扱いしている。民事裁判がそうだったように、裁判部と国民に向けて(検事は常に記者たちの顔を見ながら主張していた)影響を与えようとしてのことだろう。名誉毀損とは関係のない、学問的見解に関しても答えるほかないが、こういう話が法廷で行われることが悲しい。

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裁判所でのことなので徹底した反論になるほかない。本当の批判者たちに向けての言葉は、また別のものになるだろう。

この裁判の最大のアイロニーは、検事も弁護士も、学者若しくは既存の報告書の意見を「代弁」している点にある。そうした論文や報告書を作成した当事者たちは法廷にいない。疑いようのない代理戦でありながら、議論の当事者たちは法廷に姿を表さないのである。そして彼らと異なる考え方をした私だけが、「被告」として法廷に呼び出されている。耐えられないアイロニーの坩堝の中に。