「支持政党なし」善戦をもたらした"徹底的に孤立した個人"

「支持政党なし」が登場し、国政選挙に挑戦するたびに票を伸ばし、単なる「勘違い」を越えた支持を得つつある現実については一度考えてみる価値があるように感じている。
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安藤健二

3年前の参院選ではハフポストに「山本太郎の当選は「終わりの始まり」か?」を書かせていただいた。その記事で指摘したことが果たして妥当であったか、それは3年間の日本社会の動向を経て読者諸兄の評価を仰ぎたいところだが、今回の参院選の結果もまた判断材料のひとつに新たに加わることになるのだろう。

それはそれとして、今回、新たに注目しておきたいのは「支持政党なし」の予想外の「善戦」である。朝日新聞の出口調査では無党派層の比例区投票先で民進と自民の19%、共産党の13%、おおさか維新の会の11%に次いで「支持政党なし」が10%に達していると報じられた。(朝日新聞デジタル「無党派層、比例投票先は民進と自民互角 朝日出口調査」7月11日)。結果的には比例区で64万7071票にとどまり、擁立した2名とも落選。選挙区候補も全員落選したが、総得票数では正規の政党である「こころ」と「新党改革」の間に入った。

赤瀬川原平が生きていたらきっと喜んでいただろう、この反語的な名称の政党について、筆者は報道されている以上の情報を持ち合わせていない。代表者の人となりや政治的スタンスについて特に興味はなく、独特な電子政府実現を謳う公約の実現可能性についても現状のままでは全く期待していない。

だが、この反語的名称の政党が登場し、国政選挙に挑戦するたびに票を伸ばし、単なる「勘違い」を越えた支持を得つつある現実については一度考えてみる価値があるように感じている。

言うまでもないことだが代議制民主主義は唯一の民主主義形態ではない。たとえばジャン・ジャック・ルソーは『社会契約論』の中で英国議会選挙への皮肉を書いている。「イギリスの人民は自由だと思っているが、それは大きな間違いだ。彼らが自由なのは議員を選挙で選んでいる間だけで、議員が選ばれるやいなやイギリス人民は奴隷になって、無に帰してしまうのだ」。

このように代議制民主主義は選挙に投票した個々人の意志を政治に必ずしも反映させないという欠点を持っている。議会での多数決に勝つため、政治家たちは政治結社=政党を作り、数の力にものいわせようとする。そして政党を作る際に定められた党是や党執行部の方針を所属議員に従わせるために党議拘束をかける。こうしたメカニズムは選挙でその政党に投票した人の意志とは別に作動するので、支持政党の政策は往々にして支持者の意図を離れてゆく。

こうした事情を前にしておよそ二つの態度がありえよう。代議制民主主義の欠陥を認めたうえで、対話の継続により、漸進的に有権者の意志を実現させるように仕向けてゆくこと。ユルゲン・ハバーマスやハンナ・アレントはそうした議論の積み上げを評価する。熟議民主主義という概念もある。こうして未来の可能性を信じる人は多少の違和感を感じつつも、清濁合わせ飲んで特定政党へ投票するのだ。

しかし対話の可能性を認めない人、あるいは対話自体を好まない人、その必要性を感じていない人もいる。先に引いたルソーはその一人で、政治結社を認めず、代議制民主主義を避けるべきものとみなした。ルソーを先駆とする、こうした資質の人にとって最近の日本の政治状況は好ましいものではない。たとえば今回の選挙でも、改憲を発議できる議席数が話題となり、改憲勢力側の政党のそれに対抗する戦いという構図が強調された。議席数の戦いとなった以上、代議制民主主義下では数を束ねられる政党が主役にならざるをえず、自公その他の改憲政党対反自公野党連合という二大政党制的な状況が擬似的に形成された。インターネット上でも、改憲を望まない側からは、改憲を阻止するために、非改憲勢力側の政党に所属する、勝てる可能性がある立候補者への戦略的な投票を勧める書き込みが多くみられた。

ちなみに前掲した朝日新聞の出口調査で支持政党を尋ねたところ、過去の参院選では2割を占めていた無党派層が減少し、13%になっていたという。これは無党派層の棄権が多かったか、今回は支持政党を決めて選挙に臨んだか、つまり無党派層を卒業したかのいずれかだが、投票率は前回に比べて低くなかったので後者の可能性が高いだろう。

つまり今回の参院選では、改めて政党同士の争いの土俵に乗った人が結構いた。しかし、それでもなお政党選挙になじめない人は一定数残った。彼らの受け皿になったのが「支持政党なし」政党ではなかったか。(先の出口調査で「支持政党なし」を政党として支持した人が、無党派に数えられているのか、支持政党ありに分類されていたのかはわからない。こうした撹乱を導くところにこの反語的政党名の前衛芸術にも通じる前衛政治性がある)。

英国、米国の政治制度への憧れからか、日本には二大政党制へのコンプレックスがあるように感じる。二大政党制の下で、政権交代を易くする制度として小選挙区制が取り入れられたが、にもかかわらず肝心の二大政党制が成立していないのが、自公圧勝の背景事情なのだが、それでも懲りずに二大政党制への憧れは根強く残り続け、今回、非改憲野党の統一候補選出に注目が集まったのも二大政党的な政治状況の出現を依然として期待してのことだろう。

しかし二大政党制どころか、政党という中間団体に忌避感を持つ人もいる。彼らにしてみれば二大政党制願望の強まる世間は住みにくいことこのうえない。「二大政党制のもとの政治は、社会から政治への回路が2つの政党にしか担われない欠点を持」つ(吉田『二大政党制批判論』)。二大政党制は政治を二つの政党間の争いに単純化し、選挙で勝つか負けるかを隔てる端的な一つの論点をめぐって争うので政治的多様性を失わせる。それは個人の多様性をも犠牲にして人々を強引に二つの群れに分断しかねない。

そこに登場した「支持政党なし」は、そもそも特定政党への支持表明を好まない自分たちの心情を積極的かつ反語的に示すチャンスだと思われたのではなかったか。

政党を経由して政治を考えることに慣れて、それ以外の可能性を考えられなくなっている人は、そうした人たちの存在をも視野に入れる必要があるはず。というのも今後、いつでも国民投票の実施が可能な状況に日本社会は突入した。国民投票は衆参両議院での2/3以上の議員の合意によって発議されるので、数の勝負となる点では事実上、政党主導にならざるをえないが、発議された後は代議制を経由しない直接民主主義的な手続きを踏むことになる。そこでは政党経由の代議制民主主義の手法が通用しなくなる。そうである以上、政党の枠組みを超え、個々人に向けて改憲内容への信を問う必要が生じる。

「支持政党なし」に投票するような人たちは、政党に投票し、数の力で自分の意志が政治に反映してゆくことを望み、そのためには小異を捨てて大同につける人たちとは異なる。小異は議論を積み上げてゆけば合意に至ると信じる熟議民主主義の信奉者でもない。束ねられることを嫌い、公共の利益実現のためであれ自分を曲げることを好まない、いわば徹底的に孤立した個人主義者だ。

たとえば山本太郎や三宅洋平を支持する人たちも、既存の政党政治状況へのルサンチマンが強い。そんな寄る辺なき気分を共有したいという願望が、たとえば選挙フェスの盛り上がりに通じたのだろう。今回、そんな三宅洋平をというオルタナティブな選択肢を提示されてもなおそこにも流れず、「支持政党なし」に投票した(投票するしかなかった)人たちやその予備軍は、あくまでも群れることから遠くあろうとするアトム化した個人だ。

「支持政党なし」を謳う政党という反語が、そうした個人の存在をかいま見せる装置として機能したとはいえないだろうか。そして、個人のアトム化は今後強まってゆくのだろう。プロ市民や政治通が跋扈したり、コミュニケーションの重要性が強迫観念のように繰り返し語られるインターネット空間だが、それは一方で、その一方で自分の好きなことにしか関心を持たず、他者と学び合わずに孤立して生きることを可能にもしてきた。

とはいえ、そんな「アトムたち」でも、たとえば現行憲法13条で「すべての国民は個人として尊重される」とされているところを改正草案13条では「すべての国民は人として尊重される」とされ、個人を基本的人権の単位とする考え方自体を放棄しようとする改憲案が存在していることを知れば、改憲論議に参画することができるのではないか。「人」は種としての人間を総称する全称名詞だ。全称名詞で憲法の記述を行えば、(たとえアトム化していても)個人を、尊厳を持つ最小単位としてきた現行憲法の精神は「終わる」。

個を認めることの重要性――国民投票がそれを否定する改憲のためではなく、むしろそれを確認するための機会になればいい。そう望むのであれば、アトム化した人たちにも届く言葉を、マスメディアやネットメディアが育むべきなのだろう。