「人権」が理解されない日本

残念ながら日本では人権というものの本質がなかなか理解されず、「仲良くすること」「思いやりを持つこと」と一緒にされてしまうことが多い。
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警察官が沖縄県民に「土人」「シナ人」などと暴言を吐いたのを受け、「差別かどうか断定できない」「第三者が決めつけるのは危険」などと人権意識のかけらもないことを露呈させたのが、よりにもよって沖縄を担当する鶴保大臣。マスコミがトランプ氏の当選にかかりっきりでほとんど報道されなくなったこの問題ですが、糾弾されずに済んだことで大臣はさぞや「ラッキー」と考えていることでしょう。

それどころか注目されていない今がチャンスとばかりに、政権は「発言は撤回も訂正の必要もない」と原理原則を捨てて仲間をかばうだけの閣議決定をしました。人権意識のないその政権が改憲を通して日本における人権保護を完全に骨抜きにしようとしていることを、国民はしかと認識する必要があるかと思います。

そもそも日本では「人権」が誤った理解をされることが多い。この度の事件も例に漏れず、「沖縄の県民感情」「傷ついた沖縄県民」などという論調ばかりが目立ちます。沖縄県民には敏感に反応する人もいるでしょうし、放送禁止用語を浴びせられたことを気にしない人も(あるいは)いるのかも知れませんが、誰かが個人として「傷ついた」かどうか問題ではありません。

歴史的に弱い立場に立たされてきた沖縄県民という少数者の人間性を否定する言葉はそれ自体が問題であり、その少数者のみならず、社会全体に対する犯罪行為なのです。社会があるグループに対する差別を許してしまうとそれは必ず他の少数者にも拡大し、社会が破綻へと向かってしまうからです。

残念ながら日本では人権というものの本質がなかなか理解されず、「仲良くすること」「思いやりを持つこと」と一緒にされてしまうことが多い。

政府や自治体などが「人権週間」などと称して、例えば「年配の人に席を譲りましょう」という広告が電車で貼られたりします。当然年配者に席を譲るべきだと思いますが、それは人権とは関係ありません。人権は弱者を強者(主に国家権力)から守るためのもので、「皆で思いやりを持ちましょう」というレベルに矮小化できるものではないのです。

社会の力関係を是正しようとするのが人権ですが、それを単なる「思いやり」にすり替えてしまうと、その本質が失われてしまいます。特に日本では弱い立場のものまでもが「思いやり」を持つことが要求され、弱者が人権保護を求めるのは「他人に対する思いやりに欠ける行動」という、トンチンカンな考えになりがちです。

「自分の権利ばかり主張することが他人の人権侵害につながる」という論調は日本の人権保護が任務であるはずの法務省のサイトにもありますし、驚くに値しないことですが、改憲案に関する自民党の宣伝などにも極めて強く出ています。

強者から弱者を守るはずの人権が、いつの間にか弱者を抑圧するための正当化として使われてしまいます。当然のことながらこれは権力にとっては極めて都合のいい論理で、人権の本来の趣旨とは全く逆の結果を招きます。憲法を「権力を縛るもの」から「市民を縛って権力に好き放題を許すもの」に変えようと政権が突進している現在、人権の本質を改めて再認識する必要があるように思います。