慰安婦問題との出会い、『帝国の慰安婦』まで

『帝国の慰安婦』はもともとは日本に向けて書かれたものである。当然、日本の責任を問うための本である。同時に、業者や村の人々、さらに親など韓国の中の責任を問うことを避けるつもりはなかった。
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すでに書いたことがあるが、私は1990年代の初めに東京で行われた元慰安婦たちの証言集会で、通訳ボランティアをやったことがある。それが慰安婦問題との初めての出会いだった。だから慰安婦問題は私にとっても四半世紀経った問題ということになる。

もっとも、運動や本格的な研究を早くに始めた人たちに比べれば、私のこの「出会い」は取るに足らない体験に過ぎない。そうした意味で、長い間この問題に関心を持ち続け、元慰安婦の方たちと研究または運動という形で共に歩んできた方々には常に敬意を表したい。

私の研究対象は日本近代文学である。そのため、慰安婦問題を考察対象にすることは考えなかったし、帰国後も、そうした状態は続いた。冷戦終了後の韓国の90年代は強力なナショナリズムの時代でもあり、慰安婦問題がそうした時代に支えられる形で社会問題化されたことも、私をしてこの問題に近づけさせなかった理由である。

私は当時、日本近代を代表する作家夏目漱石のナショナリズムが帝国主義を支えるようになる仕組みに関心をもっていた。民族アイデンティティ自体が女性に抑圧的だという事実を認識し始めた頃でもあった。そのため、そうしたナショナリズムに女性運動が頼っている状況を、複雑な心境で眺める他なかったのである。そして、幸か不幸か、慰安婦問題の中心にいた人たちとのネットワークもわたしにはなかった。80年代後半を日本留学で過ごした結果として、民主化運動関係者も、梨花女子大学を中心とする女性運動関係者も、そして実践的キリスト教関係者も私の周りにはいなかったのである。

それでも慰安婦問題に対する関心を持続できたのは、やはり1990年代の初めに同時通訳をしながら、泣き叫ぶ元慰安婦の方たちの白いチマチョゴリ姿が私の胸の中に深く刻まれたからであろう。同時に、十代からの私の読書リストの中に、韓国戦争前後を背景としたいくつかの小説があったからかも知れない。いわゆる「洋公主」に注がれた暖かな視線のいくつかの小説のおかげで、私は彼女たちの悲しみを理解することができた。

さらに、韓国で日本学を教える者として、若者たちの日本に対する敵愾心や、日本に向けられる自分の好意に対する罪の意識に、無関心ではいられなかったことも、私の関心を継続させてくれた。

元慰安婦の方と直接会って話す機会を得たのは、それから10年以上過ぎた2003年の冬だった。当時、金君子さんなどナヌムの家に暮らしていた数名の方が、韓国政府の無関心への抗議意思表示として、国籍を放棄すると発表したことがあった。丁度、訪韓中であった日本のフェミニスト学者の上野千鶴子さんもその問題に興味をもっておられ、上野さんの知り合いと3人でナヌムの家を訪ねた。そして、この時の訪問で、ナヌムの家の建設に少なからぬ日本人が寄付していること、上野さんもその一人であること、ナヌムの家に来ているボランティアの多くが日本人であることなどを知った。

特に新鮮な衝撃を受けたのは、金君子さんの抱く憎しみが日本軍より(義理の)父親に対してより大きいこと、ナヌムの家からわざわざ離れたところに暮らす方がいること、そしてその方の心の中にある日本軍兵士を想う心が生きていたことだった。

この日得た認識を、私は2年後に出版した『和解のために』に少し書いた。ひとりの中の記憶と社会との関係、過去の記憶と現在の相関作用などに興味を持つようになったのもこの頃である。

2005年、私は初めて慰安婦問題を扱った本『和解のために-教科書・慰安婦・靖国・竹島』を出した。それは、それまで慰安婦問題の中心にいた研究者と運動家に対する私なりに試みたコミュニケーションでもあった。90年代に元慰安婦たちに向けられていた多くの日本人の心、当時の韓国にはほとんど知らされていなかった日本の謝罪と補償について韓国に紹介する意味もあった。

しかし、韓国ではいくつかの書評を得ただけで、慰安婦問題の中心にいる人たちの反応はまったくなかった。

そして、その年の暮れに、前年度の2004年に小森陽一さん、金哲さん、崔元植さんたちと一緒に作った「日韓、連帯21」の企画で和田春樹さん、上野千鶴子さんを報告者とし、小森陽一さんを討論者とする慰安婦問題シンポジウムを開いた(「東アジア歴史認識のメタヒストリー」収録、青弓社)。その時事務局長だった尹美香挺対協現代表を討論者として招待もした。しかし話は噛み合わなかった。

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2007年9月6日、東京・外国特派員協会で記者会見する和田春樹・東大名誉教授(左)と朴裕河・世宗大教授

翌年の終わり、日本で『和解のために』が翻訳された。私が最も信頼していた研究者たちが書評会を開いてくれたが、同じく周りにいた別の人たちは批判者に回り、その書評会に出席しなかった。そして、その時討論者として参加してくれたある研究者は、討論会に出ることを挺対協の人たちから反対されたと述べた。

そしてその年の夏、「和解のために」に対する最初の批判が現れた。韓国で挺対協活動を行っていた金富子さんの批判である。その後何人かの批判がさらに出たが、そこには、「和解のために」が誰かに言われて書かされたとする誤解までがあった。現在まで続いている、根拠のない疑惑や誤解は、思えば10年前から始まっていたのである。

そして2008年、2009年に徐京植さん、尹健次さんなどによる朴裕河批判が、主にハンギョレ新聞誌上を借りる形で韓国で相次いだ。

両氏は、私の本が日本の右翼の賞賛を得た、日本のリベラルな知識人たちが朴裕河の本を支持するのは実は植民地支配に対する真の謝罪意識がないため、などと語った。思いもよらぬ、根拠のない攻撃に私は戸惑ったが、記事を書いた記者に抗議したのみで、それ以上の対応はしなかった。

この時の選択が間違った行動だったことを知ったのは、それから何年か経った2014年6月である。突き付けられた告訴状には、朴裕河のいう和解とは日米韓の同盟を強化させるもの、といった考えがそこにはあった。朴裕河の歴史認識は間違っているとする、徐京植、尹健次両氏の影響があからさまなその告訴状は、私が適切な形で訂正しなかったため、私に対する疑いが韓国で拡散されてしまったことを示していた。

あるいは、私を批判した人たちが訴状作成に直接関係したのだろうか。私は未だ、告訴をめぐる状況を知らない。いずれにしても、この告訴が、慰安婦問題に関する知識人たちの考えの影響の元に行われたことだけは確かである。しかも、告訴のあとは学者による、より露骨な告訴への加担が目立っている。

2010年代に入り日韓の関係は更に悪化し、そうした状況の中心には常に慰安婦問題があった。私は、『植民地支配とは何か』というタイトルになるはずの、日本に向けて書く予定だった本の中に、慰安婦問題に1章を割くことにした。アジア女性基金解散以降、慰安婦問題に対する関心が著しく低下し、否定者だけが関心を持っているように見えた日本に向けてまだ話したいことがあったからである。

そして2011年の秋、研究年を迎え滞在することとなった東京都内早稲田大学周辺の小さな家で、後に『帝国の慰安婦』の一部となる原稿を書き始めた。後日、告訴の対象となった、元慰安婦たちの名誉を毀損するものだと指摘された「売春的強姦、あるいは強姦的売春」という言葉は、実はその時書かれたものである。

つまり、わたしは「売春!」と主張する人たちに向けて、実はそれは構造的に「強姦」的なものであることを喚起させようとした。言い換えれば、売春ではなく構造的強姦であることを強調した表現である。(のちに韓国語版を書く時構成を変えたために元の文脈が見えなくなってしまったが、連載した『WEBRONZA』にはそうした意図が残っているはずだ。)

2012年の4月と5月に慰安婦問題解決に向けての日本政府の試みが挫折するのを見ながら、私は韓国に向けてもう一度本を書かなければならないと考えた。そこで、もとの予定を変えて『帝国の慰安婦』の韓国語版を構想し始めたのである。

つまり、『帝国の慰安婦』はもともとは日本に向けて書かれたものである。当然、日本の責任を問うための本である。

それまで戦争犯罪としてのみ扱われてきた慰安婦問題を朝鮮人慰安婦に限定しつつ植民地支配が引き起こした問題として考え、しかし、これまで日本がその点を認識したことはなかったことを強調し、したがって、それに基づく謝罪と補償が新たに必要、としたのがこの本だった。

同時に、業者や村の人々、さらに親など韓国の中の責任を問うことを避けるつもりはなかった。というのも、それは何よりも元慰安婦の一部の人々の考えでもあったからである。