ミュンヘン・路傍の石に秘められた暴虐の歴史

ミュンヘンのニュンフェンブルク公園では、ときどき道端に岩の塊が並べられているのを見かける。
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私が毎週ジョギングをするミュンヘンのニュンフェンブルク公園では、ときどき道端に岩の塊が並べられているのを見かける。市民が歩く道と、芝生を区切るためだ。岩の一部は緑色の苔で覆われ、風雨にさらされて表面がザラザラになっている。

しかしよく見ると、どの岩にも、古代ギリシャやローマの神殿建築に見られたような、無数の細い溝が刻まれている。自然の岩ではなく、人工物であることは明らかだ。道端に並んでいるどの岩にも、溝が刻まれていることを考えると、建物の一部だったのだろうか。

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私は長い間、この岩がどこから来たものか頭をひねっていたが、由来はわからなかった。ところが今年になって、ドリス・フクスベルガーという郷土史家の「ナチス支配下のニュンフェンブルク城」という本を読んでいて、この岩が連合軍によって爆破されたナチスの神殿の残骸だということを知った。

*栄誉神殿の残骸

この神殿は、現在もミュンヘン中心部にある「王の広場」の東側に、ナチスが1935年に建設した通称「栄誉神殿(Ehrentempel)」である。ヒトラーは1923年にバイエルン政府に対して武装蜂起したが、この「ミュンヘン一揆」は政府軍によって制圧され、ヒトラーは一時刑務所に拘束された。しかしナチスは総選挙によって圧勝し、1933年に政権を掌握。ナチスがミュンヘン一揆で死亡した党員を「殉教者」として祭ったのが、この栄誉神殿だった。ナチスは古代ギリシャ風の建築物を好んだ。このため当時の記録写真を見ると、栄誉神殿の柱には、ギリシャ風の細かい溝が掘り込まれているのがわかる。

この地域は、ミュンヘンで発足したナチス党の神経中枢でもあった。「王の広場」ではナチスが大衆を動員して集会を開いた。その東側には、英仏独が、チェコスロバキアの分割に関するミュンヘン協定を締結した「総統の館」や、ナチス党の本部が置かれた「茶色の館」があった。

ミュンヘンを1945年に占領したアメリカ軍は、ナチス支配の象徴である栄誉神殿を爆破。現在は建物の基礎だけが残っており、草木に覆われている。

ミュンヘン市は、ナチスの建物の残骸を公園の路傍に置くことによって、かつて欧州史上最悪のテロ集団がこの国を支配したことを、人々の記憶に留めようとしているのだ。

*資料館もオープンへ

ナチスによる迫害を体験した人の数は、時とともに減っていく。将来、生き証人がいなくなった時に、過去との対決をどのように続けるかは、ドイツ人にとって重要な課題である。「もうそろそろ過去にこだわらなくてもいいじゃないか」という人々は、少数ながら、ドイツにもいるからだ。そうした誘惑に対抗するための試みの一つが、資料館の建設である。この国には、すでにナチスの歴史について市民に情報を与える資料館が無数に建設されているが、その動きは今も続いている。たとえばミュンヘンでは、ナチスの党本部「茶色い館(Braunes Haus)」があった場所に、2015年にナチス問題に関する資料館が開かれる。2820万ユーロ(39億4800万円)の建設費は、連邦政府、州政府、ミュンヘン市役所が負担する。

ナチスにとって、ミュンヘンはドイツで最も重要な町の1つだった。正式には国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP)と呼ばれるナチス党は、反ユダヤ主義者らが1920年にミュンヘンのビアホール「ホーフブロイ・ハウス」で結成した。このためナチス党員は、ミュンヘンを「ナチス運動の中心地」と呼んだ。

「茶色い館」は、1930年からナチスが党本部として使った建物で、その改築には、建築に関心を持っていたヒトラー自身も加わった。茶色い館は、前述の栄誉神殿から東へ100メートルほどのところにあった。

この建物の周辺には、ナチスが勃興期に使った建築物が、数多く残っている。すぐ北側には、1938年にチェコのズデーテンラント割譲に関するミュンヘン会談が行われた「総統の館」(現在は音楽演劇高等学校として使われている)、南側には「ナチス党行政館(現在はバイエルン州の美術関連省庁が入っている)」がある。その西側にはナチスがしばしば式典を催した「王の広場」がある。

*倫理的な公共投資

ドイツ政府と地方自治体は、かつてナチスの神経中枢だった地域に資料館を建てることによって、ミュンヘンやバイエルンという地域がナチス台頭の中でどのような役割を果たしたかについて、市民に詳しく伝えようとしているのだ。時間の経過による、犯罪の忘却に抗うための試みである。

読者の中には、政府や地方自治体がナチスの犯罪に関する資料館の建設のために39億円の金を投じたことに、驚かれる方もいるだろう。39億円の血税を投じても、国内総生産が増えたり、景気が良くなったり、失業者の数が減ったりするわけではないからだ。過去との対決に投じられる公費は、市民の生活水準を引き上げるという物質的な効果は持たない。その意味で、高速道路や鉄道網の建設のように、景気の刺激に直接つながる公共投資とは異なる。いわば倫理的、形而上的な投資である。

だが、私は、この国の政府や地方自治体が、物質的な利益とは無縁の、形而上的なプロジェクトに39億円の公費を投じたことに敬意を表する。経済学者やメディアは、公共投資というと、たいてい景気刺激のための手段しか考えない。だが、物質的な利益とは無縁の、国家の未来のための投資も、公共投資と見なすべきである。

たとえばナチスの犯罪について国民を教育することは、他国のドイツに対する信頼を強化する。ドイツ人が自国の過去について知れば、他国民に接する時の態度は、おのずと傲慢なものにはならず、控え目なものになるはずだ。(私は、一部の日本企業のアジア駐在員が、かつて日本軍が被害を与えた国の市民に対して、極めて傲慢な態度を取った例をいくつか知っている。30年前のことではなく、ごく最近の例である。こうした態度の根源には、日本の過去についての無知がある。つまり、こうした態度を取る日本企業マンは、戦時中の日本人が、これらの国の人々をどう扱ったかについて、十分知らないのだ)

「過去との対決」は、独裁国家の再来を防ぎ、ドイツの未来を守ることにつながるので、公共の利益にかなう。私は、過去との対決への公費の投入も、立派な「公共投資」だと思う。

保険毎日新聞連載コラムに加筆の上転載

(文と写真・ミュンヘン在住 熊谷 徹)

筆者ホームページ: http://www.tkumagai.de