「戦艦武蔵」で発見された謎の文書 解読に成功か(画像)

旧日本海軍の戦艦「武蔵」とみられる船体から発見された謎の文書を、アメリカの資産家ポール・アレンさんが3月6日にTwitterに掲載した。
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旧日本海軍の戦艦「武蔵」とみられる船体から発見された謎の文書を、アメリカの資産家ポール・アレンさんが3月6日にTwitterに掲載した。一部は汚れで不鮮明だが「手入後ハ必ズ射出状態ニ復ス」などと、漢字とカタカナで何かが書かれている。

「武蔵についての新しい発見は今日は少なかったが、日本語の文書がいくつか見つかった。どんな翻訳の手助けも感謝する」

一体、何について書かれているのか。このアレンさんの呼びかけに、多くの日本人が飛びついた。

どうやら、戦艦武蔵の後尾にあった水上偵察機を発進させるためのカタパルトの説明文書だったようだ。

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アレンさんらが撮影した動画に映し出された「戦艦武蔵」のカタパルトと思われる部分

これは旧日本海軍で広く使われていた「呉式二号五型」という形式。発射のタイミングに合わせて射手が引き金をまわすと、爆発筒内の火薬が炸裂してピストンが動き、艦載機が乗せられた滑走車に繋がる作動索が引っ張られ、秒速30メートルもの速さで艦載機が撃ち出されるというものだったという。

広島県呉市の大和ミュージアムに展示してある「戦艦大和」の10分の1模型だと、この部分になる。

アレンさんはマイクロソフト共同設立者。自身が所有する巨大ヨット「オクトパス号」と潜水艇による調査の結果、フィリピン中部のシブヤン海で、水深1000mに沈んだ戦艦武蔵を発見したと3日に報告していた。

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戦艦武蔵・画像集
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1942年8月竣工時の「武蔵」 (credit:Wikimedia)
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1942年6-7月、徳山-呉間で公試運転中の武蔵艦橋 (credit:Wikimedia)
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1943年5月のトラック諸島で撮影された「武蔵」(手前)と「大和」。 (credit:Wikimedia)
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昭和天皇(中央)行幸の際の記念写真。対空機銃設置前(1943年6月24日) (credit:Wikimedia)
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1943年5月23日、戦死した山本五十六長官の遺骨を内地へ届けた武蔵 (credit:Wikimedia)
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レイテ沖海戦直前、10月21日にブルネイ泊地に集合した日本戦艦群。手前が戦艦長門、そして右から巡洋艦最上を挟んで、戦艦武蔵、大和だとされる (credit:Wikimedia)
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ブルネイを出航する「武蔵」 (1944年10月22日) (credit:Wikimedia)
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1944年10月24日、シブヤン海でアメリカ軍艦載機の攻撃を受ける「武蔵」 (credit:Wikimedia)
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1944年10月24日、シブヤン海で猛煙をあげる「武蔵」。魚雷による水柱が、艦橋の高さを超えている。 (credit:Wikimedia)
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シブヤン海で黒煙を上げている「武蔵」。左に旋回行動中の「大和」と、妙高型重巡洋艦、右側に高雄型重巡洋艦と金剛型戦艦が確認できる。(1944年10月24日) (credit:Wikimedia)
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アメリカ軍艦載機の攻撃後、沈みつつある「武蔵」(1944年10月24日、駆逐艦「磯風」から撮影) (credit:Wikimedia)