ナルシシスティック・パーソナリティーはこころの中にたくさんの分裂(split)を抱えている

ナルシシズムの発達に問題があるパーソナリティーは、ナルシシスティック・パーソナリティー(自己愛性格)と呼ばれる。
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時事通信社

ナルシシズムの発達に問題があるパーソナリティーは、ナルシシスティック・パーソナリティー(自己愛性格)と呼ばれる。このパーソナリティーの持ち主には、さまざまな特徴があるが、その一つはこころの中にたくさんの分裂(split)を抱えていることだ。

人は、同一の対象に対して異なった考えや感情を抱くことがある。例えば、エディプス・コンプレックスは父を愛おしく思い、父からの愛を求めるこころと、父に強烈な殺意を向けるほどの憎しみを抱くこころとの葛藤を抱く構造を示している。そこには苦悩が存在するが、その苦悩を通じて、他でもない自分なりの、父についての考えや感情を抱くようになる。そのようにして把握されるに至った父は、現実的な父親である。

ナルシシスティック・パーソナリティーの特徴は、そのような苦悩や葛藤を抱かないことだ。それは、こころの中で分裂という機制が多用されていることに由来する。例えば、「日本を愛している」「日本は素晴らしい国だ」というこころと、「日本のことを憎悪している」「日本は劣っている汚れた国だ」というこころは、明らかに矛盾している。しかし、ナルシシスティック・パーソナリティーでは、この二つのこころが葛藤を起こすことはない。ある場面では、ポッと「日本は素晴らしい」というこころが出てくるし、他の場面では「日本ってダメだ」というこころが出てきて、その場その場でどちらかの考えや感情にのみ込まれてしまい、疑問を抱かない。そのような時にこころが抱く日本像は偏っていて、前者ならば当然美化され過ぎているし、後者ならばやはり卑下され過ぎている。ナルシシズムの発達が良い場合には、その両者が葛藤を起こして、その葛藤について考え、現実的な日本像がこころに抱かれるようになる。しかし、脆弱なナルシシスティック・パーソナリティーでは、この両者が葛藤を起こさずに分裂したまま、こころの中に留まることになる。

なぜ分裂が生じやすいかについて、次のように説明することができる。ナルシシスティック・パーソナリティーの場合には、自分の同一化している対象についての好ましくない面を認識することが引き起こす痛みに、耐えることができない。だから、そのような体験については、こころの外に押し出してこころを守ることに、精一杯になるからだ。そのようなこころでは、排泄したはずの悪い対象がこころの中に戻ってくることが、おそろしい混乱を引き起こしてしまう。

そして、こころの中で分裂している対象については、正確に考えることが困難になる。私が「日本的ナルシシズム」という言葉を使って示そうとしているのは、日本が直面する困難な課題について現実的に考えるよりも、日本とそれと一体化した自分との良いイメージを守るという防衛的なこころの動きに終始して、否定的な側面を分裂排除してしまうために、現実的に考えられなくなる弊害が起こり得ることを指摘し、その乗り越えを目指すことだ。

もちろんこれは、ひっくり返した否定的な同一化を果たすことを推奨するものでは決してない。日本と日本人である自分についての否定的なイメージにのみ込まれることも、現実的ではない。この二つを比べるのならば、どちらかといえば前者の方が望ましい。

なぜ、このような分裂が維持されてしまうのだろうか。それは、社会や集団に属する場面で、「人任せにした上で、誰かに失敗させて後出しジャンケンの批評を行い、上から目線で発言する」ことが、現代の多くの場面で容易で可能だからだ。

現実的な場面で、自己責任で一貫した発言や行動がなされる時には、その瞬間には何らかの形での分裂の統合がなされている。このような活動を続けるなかで、一貫した社会的な責任主体たりうる自我が成立するだろう。過剰に楽観的な自分と対象についての考えを持っていた場合には、それは適切な価値下げを経験するだろうし、逆の場合もある。

しかし、観客席から見物しているような心的状況では、実際に行動している人に同一化したまま、自分の責任は問われないで安全に疑似体験をすることができる。この場合に、ナルシシスティック・パーソナリティーのこころで起きるのは、自分の分裂したこころの中の、都合のよい部分を自分の方に残し、都合の悪い方を現実に行動している人物に投影することである。そして、常に都合の良い方から都合の悪い方を批判する心的体験を継続することが可能となる。この場合に、自覚的にはいつでも気分よく勝ち続けることができるが、ナルシシズムの修正が起きることも、分裂が統合に向かうことも十分には行われなくなる。こころの中で不戦勝を続ける内に、現実では不戦敗を続けるようなものだ。

これでは、民主主義は機能しない。なぜなら、この政治システムの基本は、一貫した責任を帯びた発言や行動を行える自我を備えた個人の集団が、社会を作っていることだからだ。それなのに、ナルシシスティックな同一化を社会の大勢に対して保持しつづけるこころしか立ち現れないとしたら、それは危機的な状況だと考える。

現実に目立つ言動をしている人の批判を行うことは許容されるべきである。しかし、それだけに留まってはならない。自分なりの考えを持てるようになること、それを発言できるようになるための努力を行うことが、民主主義の社会に生きる国民にはどうしても求められている。

加藤典洋は1999年に出版された『日本の無思想』という書物の中で、戦後の日本に一つのニヒリズムが生じていることを指摘した。議論の開始となるのは、社会的な非難を呼び起こすような失言を行った後に、簡単に前言撤回して謝罪することをくり返した何人かの政治家のエピソードだった。その中には、1968年の農相が発した憲法についての「自分の国は自分で守る自主防衛が大切だ。こんなバカバカしい憲法をもっている日本はメカケみたいだ」という発言もあった。ある意味で、私たちの社会は50年前と同じことをくり返している。問題の先送りをくり返して、考えるための時間を浪費していたのだ。他に取り上げられたのは、1994年の法相の「南京大虐殺はでっち上げだ」であり、1995年の阪神淡路大震災の際の大阪府知事の「被災者も自分でコメを炊けばいい」といった発言だった。

前言撤回が拒否された例としては、1986年の文相の「(日韓併合は)形式的にも事実の上でも両国の合意の上で成立している」と、1989年の長崎市長の「天皇には戦争責任があると思う」が挙げられていた。正反対の立場ではあるが、首尾一貫した姿勢を貫いたことによって、この二人は加藤によって評価された。

加藤は一連の出来事に言及しながら、日本社会が「二重思考」を許容していることを問題視した。つまり、政治家が個人の信念としては発言の誤りを認めないが、世間を騒がせた責任を取ってポストを辞任するというような考えと行動の分裂が、受け入れられていることを明らかにしたのだった。それは、より具体的には「失言政治家が前言撤回してなお自分を恥ずかしく思わずにすんでいる」という事態として現れる。私はこれについて、「分裂が許容されることによって葛藤や考えが生じず、ナルシシズムが維持される」と記述したい。

加藤の論考は鋭く、深い。通常ならば、このような思考が可能となるのは「ホンネとタテマエ」を使い分けているからだと言及することで十分とされるだろう。しかしこの著書の中の考察は、その先に進んでいた。「ホンネ」が本当のことで「タテマエ」が嘘なのではない、と喝破されたのだ。

その論理を詳細に追うことはしないが、「ホンネ」は確立した自我が抱く「本当の信念」ではない。こころの中に存在する分裂したこころの一方が「ホンネ」であるに過ぎず、これは実は「タテマエ」と交換可能である。

「ホンネ」と「タテマエ」を使い分けるこころの奥底に、「どっちだっていいや」というニヒリズムが働いていることを、加藤は明らかにした。

国民が「どっちだっていいや」というニヒリズムに取りつかれ、「議論」と称して未熟なナルシシスティックなこころが行う投影や排泄ばかりをくり返すのならば、現実からの急き立てに焦った為政者の強権的な動きを誘発しやすくなってしまうだろう。

ニヒリズムを乗り越え(私にはニヒリズムとは否定的な同一化に由来するナルシシズムの問題と思える)、「オモテ」と「ウラ」の使い分けではない自分の考えを持てるようになることを、この変化と危機の時代に、国民の一人一人が目指すべきだと考える。

しかし、これは容易に達成される課題ではない。性急なやり方ではなく、一つ一つ学び、経験し、対話を積み重ねていくことが丁寧に行われていく必要がある。