【戦後70年】「徹底抗戦」うごめくクーデター派 1945年8月13日はこんな日だった

鈴木首相は「明日午後に改めて聖断(昭和天皇の判断)を仰ぐ」と宣言して閣議は閉会した。陸軍大臣官邸に帰った阿南陸相を、一部青年将校が待ち受け、クーデター計画の詳細を明らかにして同意を迫る。
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早朝

阿南惟幾・陸軍大臣が昭和天皇に面会。陸軍内の徹底抗戦論を念頭に、ポツダム宣言の受諾で、天皇の地位が脅かされないか不安を訴えたが、昭和天皇は「私には確信がある」と答える。

9:00~14:00 最高戦争指導会議。

前日の閣議の議題を再び議論した。

12日に連合国側から来た回答で「国体の護持」(天皇制の維持)ができると解釈して、ポツダム宣言を受け入れて降伏するか。「日本による自主的な武装解除と戦犯の処理」など4条件を求めるか。それとも、連合軍側の回答で明確にならなかった「国体の護持」の真意を、もう一度問い合わせるか。

出席者は、鈴木貫太郎首相、東郷茂徳外相、阿南惟幾・陸軍大臣、米内光政・海軍大臣、梅津美治郎・参謀総長(陸軍大将)、豊田副武・軍令部総長(海軍大将)の6人。

阿南、梅津、豊田の3人は、4条件の貫徹と連合国への再照会を求め、早期降伏受け入れを主張する鈴木、東郷、米内と激しく対立。3対3のまま、5時間たっても結論が出ず、鈴木首相が散会を宣言する。

空襲は終わらず

この日もアメリカ軍は地方都市の軍事施設を中心に爆撃や機銃掃射を繰り広げた。山梨県大月市では午前8時ごろ、B-29が来襲し、女学生ら50人以上が死亡。宇都宮市では午前8時から正午前にかけて、宇都宮中学や宇都宮飛行場などが狙われ、8人が死亡した。千葉県館山市にも断続的に戦闘機P-51が来襲した。

14:00~15:00 クーデター計画

会議の合間を縫って陸軍省に戻った阿南陸相を、大臣室で、軍務課の畑中健二・陸軍中佐らが出迎え、クーデター計画の概要を明らかにする。

15:00~18:30 閣議再会

前日の8月12日に結論が出ないまま休会となっていた閣議が再開される。阿南陸相は徹底抗戦を主張。降伏受け入れを迫る鈴木首相らと対立し、またも長時間の議論となる。鈴木首相は「明日午後に改めて聖断(昭和天皇の判断)を仰ぐ」と宣言して閣議は閉会した。

16:00前 まぼろしの大本営発表

「勅令(天皇の命令)で、日本軍が米英ソ中の連合国軍隊に、新たな作戦を開始した」との偽情報を大本営が発表したが、午後4時のラジオ発表前に発覚し、阻止される。ポツダム宣言受諾阻止を狙った一部将校の工作だったようだ。

13日の閣議の席から、迫水(久常)内閣書記官長が首相秘書官によび出された。よび出したのは(朝日新聞)政経部の柴田敏夫だった。柴田は緊張した表情で、迫水に1枚の紙片をわたし「これをご存じですか」ときいた。

それには「大本営13日午後4時発表 皇軍は新たに勅令を拝し、米英ソ支4軍隊に対し、作戦を開始せり」とある。柴田は「この発表はすでに新聞社や放送局にくばられ、ラジオでは午後4時に放送する予定になっています」といった。迫水は、すぐ閣議室にとびこんで、阿南陸相に紙片をみせると、知らぬ、という。そこで、急いで処置をしたので、この発表は報道されずにすんだ。

迫水は手記『大日本帝国最後の四カ月』で、「この発表文は、大本営の報道部が勝手につくりあげ、陸軍次官と参謀次長の決裁をもらっていた。主役はもちろん、大本営報道部の若い将校たちであった。もし、この発表が誤っておおやけにされていたら、軍を中心として大きな混乱が起こり、終戦の工作があのように円滑に運んだかどうかわからない。わたしは、内報してくれた朝日新聞社の柴田記者に深く感謝した」と記している。(*1

18:30~ 一部将校のクーデター計画に阿南陸相は

陸軍大臣官邸に帰った阿南陸相を、一部青年将校が待ち受け、クーデター計画の詳細を明らかにして同意を迫る。「国体護持」が保障されるまでポツダム宣言を受諾せず、東部軍と近衛師団を動かして皇居を隔離したあと、鈴木首相、東郷外相ら「和平派」を拘束して戒厳令を発布するとの内容だった。

翌14日午前10時の閣議に乱入して閣僚を拘束しようとする将校らに、阿南陸相は、深夜0時に陸軍省で回答すると述べ、返事を保留する。

14日 0:00

阿南陸相、陸軍省に登庁し、クーデター派の荒尾興功・軍事課長(陸軍大佐)と面会。陸相は「あすの早朝に梅津美治郎・参謀総長と話し合って決める」と回答する。

8月14日に続く)

【参考文献】

半藤一利『日本のいちばん長い日(決定版)』文芸春秋、1995

*1 『朝日新聞社史 大正・昭和戦前編』朝日新聞社、1991