沖ノ島とは? 女人禁制「神の島」は世界遺産になれるのか

女人禁制など数々のタブーが残る秘島「沖ノ島」が、世界文化遺産候補として日本から推薦されることになった。
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This September 30, 2016 picture shows a view of Okinoshima island, some 60 kilometres from Munakata city, Fukuoka prefecture.The island of Okinoshima and associted sites in the Munakata Region have been inscribed at the 41st session of the UNESCO World Heritage Committee held in Poland on July 9, 2017. / AFP PHOTO / JIJI PRESS / STR / Japan OUT (Photo credit should read STR/AFP/Getty Images)
STR via Getty Images

女人禁制など数々のタブーが残る九州の秘島「沖ノ島」が、世界文化遺産候補として日本から推薦されることになった。

産経ニュースによると、文科省の文化審議会は7月28日、2017年に国連教育科学文化機関(ユネスコ)に推薦する世界遺産の候補に「『神宿る島』宗像(むなかた)・沖ノ島と関連遺産群」を選出した。今後、閣議了解を経た上で、2016年2月1日までに正式な推薦書をユネスコへ提出する方針だ。2017年夏ごろに開催される世界遺産委員会で、登録の可否が決まる。

この遺産群は、福岡県宗像市の沖ノ島を中心に、宗像大社や福津市の新原・奴山古墳群など5つの資産で構成される。古墳時代から平安時代にかけて、航海の安全などを願い、多くの装飾品などを用いた祭りが行われていた。その祭りが、日本固有の信仰として今も残っていることに価値があるとして推薦されることになったという。

■ 女性は立入禁止、男性は1年に1回のみ入可

宗像観光協会の公式サイトなどによれば、沖ノ島は、玄界灘に浮かぶ周囲4kmほどの島。九州本土から約60km沖合に位置する絶海の孤島だ。日本列島と朝鮮半島の間に位置するため、500年間に渡って航海の安全を祈って、膨大な量の奉献品を用いた大規模な祭祀が行われていた。

鏡、勾玉、金製の指輪など、約10万点にのぼる貴重な宝物が見つかり、そのうち8万点が国宝に指定された。このため、沖ノ島は「海の正倉院」とも呼ばれている

島全体が宗像大社の三宮の一つ、沖津宮(おきつぐう)の神領だ。「神が住む島」として信仰の対象となっており、古来から自由な立入りが禁止されている。島に滞在が許されるのは、宗像大社の神官ただ一人で、交代で宿直を務めている。女人禁制となっている理由は、はっきりしていない。島では田心姫神(たごりひめのかみ)という女性の神を祭っており、神が嫉妬するためという説もある。

男性にしても、一般人の立入りが許されるのは、1年に1回。日露戦争で日本海海戦が開かれた5月27日のみ。島の近海で、激しい戦闘があったことから、戦没者を慰霊する「現地大祭」が開かれる。参加を希望する一般男子の中から抽選で選ばれた約200人の男子が参加するが、上陸の際には全裸で海に入って禊(みそぎ)をする必要がある。

このほか、「不言様(おいわずさま)」といって、沖ノ島で見たり聞いたりしたものは、一切口外してはならないという掟や、「一木一草一石(いちもくいっそういっせき)たりとも持ち出してはならない」という掟など数々のタブーが言い伝えられている

■「差別ではなく伝統だ」地元の声

世界遺産に登録されても宗像大社は「古来、守り続けてきたものは変えられない」と、沖ノ島の立ち入り制限を続けていく方針だ。女人禁制が女性差別として、世界遺産の登録に向けて障害になる可能性もあるが、地元では「差別ではない」と反論する声も出ている。

市民の会の海出耐祐さん(69)は「慣習も遺産価値の一部だ。差別ではなく伝統だと、海外の人に理解してもらう努力が必要だ」と強調。市担当課の職員は「広く知られることで、伝統が破られることがないようにしなければならない」と話した。

「差別でなく伝統だ」女人禁制の慣習 神宿る島…宗像・沖ノ島、世界遺産推薦決定に地元喜びにわく - 産経WEST 2015/07/28 21:24)

■ギリシャには女人禁制の世界遺産も

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アトス山のシモノペトラ修道院

とはいえ、これまでにも女人禁制の宗教施設群が世界遺産に指定されており、前例がないわけではない。ギリシャ北部にある標高2033mのアトス山は、ギリシャ正教最大の聖地だ。20の修道院が建ち、約2500人の修道士が修行の日々を送っている。1406年から600年以上にわたって、女性の立入りが禁止されているが、1988年に世界遺産に指定された。

なおアトス山は、人間以外のあらゆる動物のメスが入山禁止。唯一の例外として、猫だけはネズミ類を捕らえるために必要という理由で、メスも許可されているという。

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明治日本の産業革命遺産
八幡製鉄所(01 of23)
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福岡県北九州市。官営八幡製鐵所創業2年前の1899年に竣工した初代本事務所は、中央にドームを持つ左右対称形の赤レンガ建造物で、長官室や技監室、外国人顧問技師室などが置かれた。 (credit:時事通信社)
遠賀川水源地ポンプ室(02 of23)
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福岡県中間市。遠賀川の河口から約10キロにある八幡製鐵所の取水・送水施設。官営製鐵所第一期拡張工事に伴う工場用水不足を補うため、1910年に操業を開始した。明治建築の典型的なレンガ建造物。動力は蒸気から電気に変わったが、現在も稼働中。 (credit:Wikimedia)
旧グラバー住宅(03 of23)
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長崎市。近代技術の導入を通じて日本の近代化に尽力した、貿易商のトーマス・ブレーク・グラバーが住んでいた日本最古の木造洋風建築。 (credit:時事通信社)
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長崎市。造船業形成期の三菱合資会社時代に、占勝閣は、第三船渠を見下ろす丘上に建設された木造二階建洋館。現在もほぼ創建当時の姿で迎賓館として、進水式・引渡式の祝賀会、貴賓の接待等に使用している。 (credit:時事通信社)
三菱長崎造船所 ジャイアント・カンチレバークレーン(05 of23)
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長崎市。三菱合資会社の時代に、造船所の工場設備電化に伴い日本で初めて建設された電動クレーン。英国アップルビー社製造。大型舶用装備品の吊り上げ荷重に耐え、電動モーターで駆動され、当時としては最新式だった。\n\n1909年に造船所の機械工場付近の飽の浦岸壁に、タービンやボイラなど大型機械の船舶への搭載と陸揚げのため建設した。現在も、機械工場で製造した蒸気タービンや大型舶用プロペラの船積み用に使用している。 (credit:時事通信社)
三菱長崎造船所 旧木型場(06 of23)
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長崎市。三菱合資会社時代の木型場。1898年に鋳物製品の需要増大に対応して建設された。工場建物は木骨煉瓦造二階建てで、鋳型製造のための木型を製作した。\n\n1985年、史料館として改装され、長崎造船所の歴史を紹介する展示施設として一般公開されている。 (credit:時事通信社)
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長崎市。1901年から1905年にかけて三菱合資会社時代に築渠した大型船舶修理用乾船渠(ドライドック)。背後の崖を切り崩し、前面の海を埋立て拡大した。開渠時に設置された英国シーメンス社製の電動機で駆動される排水ポンプは100年後の今も稼働し、ドライドックの機能を維持している。\n\n写真は、1928年当時の第三船渠と建造中の日本海軍軍艦「羽黒」。 (credit:Wikimedia)
小菅修船場跡(08 of23)
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長崎市。現存する日本最初の蒸気機関を動力とする曳揚げ装置を装備した洋式船架。1869年に、長崎港において、薩摩藩とスコットランド出身の商人トーマス・グラバーの協力の下、建設された船舶修理施設で、明治政府が買収し、1887年に三菱の所有となった。 (credit:時事通信社)
端島炭坑(軍艦島)(09 of23)
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長崎市の沖合に浮かぶ端島(はしま)は、軍艦「土佐」に似ていることから「軍艦島」の愛称を持つ。明治中期以降に採炭事業が本格的に開始。1890年からは三菱の所有となり、明治後期の高島炭鉱(高島、端島による海洋炭鉱群)の主力坑となった。高品位炭を産出し、国内外の石炭需要を賄った。 (credit:安藤健二)
高島炭坑(10 of23)
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長崎市。幕末から明治にかけて、西洋の機械が使えるようになると,石炭の需要が大きくなり、長崎沖の洋上の高島において、佐賀藩がスコットランド出身の商人トーマス・グラバーとともに、海洋炭鉱を開発した。 (credit:時事通信社)
三池炭鉱、三池港(11 of23)
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福岡県大牟田市にあある宮原坑は、三井買収後に初めて開削された明治期から昭和初期にかけての三池炭鉱の主力坑口。炭鉱は閉山し、産業活動は営まれていないが、第二竪坑櫓と巻揚機室等が残る。 (credit:Wikimedia)
三角西(旧)港(12 of23)
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熊本県宇城市。オランダ人のムルドルが設計し、国庫補助を得て建設された港で、日本の明治三大築港の一つ。\n\n三池港が開港するまでの一時期、三池炭は三角西港を経由して、海外に輸出された。現在も、関連施設の遺構と築港当時の景観がよく残っており、当時の土地利用が想起される。 (credit:Wikimedia)
旧集成館(13 of23)
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鹿児島市。幕末、欧米列強に対抗するため、薩摩藩主・島津斉彬は集成館事業を始めた。反射炉への挑戦と試行錯誤を物語る残存遺構が保存されている。\n\nその中でも、旧鹿児島紡績所技師館(写真)は、イギリス人技術者の宿舎として建設された洋館で、洋風の外観ながら、柱には尺寸法が用いられたほか、屋根裏小屋組が和式であるなど、和洋折衷となっている。 (credit:時事通信社)
関吉の疎水溝(14 of23)
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鹿児島市。集成館事業の動力源とする水を供給した疎水溝の遺構が遺跡として保存されている。 (credit:時事通信社)
寺山炭窯跡(15 of23)
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鹿児島市。集成館事業に用いる燃料の木炭を\n製造した炭窯の跡が遺跡として保存されている。 (credit:時事通信社)
三重津海軍所跡(16 of23)
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佐賀市。幕末、海防の必要性から、佐賀藩は、三重津海軍所を整備した。その遺跡が発掘調査により確認され、保存されている。 (credit:時事通信社)
韮山反射炉(17 of23)
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静岡県伊豆の国市。欧米列強に対抗する海防用の大砲鋳造のため、西洋技術の情報を得て、日本の伝統的な施工技術を用い、独力で建設された。日本国内に現存している当時の反射炉としては、最も完全な形で保存されている。 (credit:時事通信社)
橋野鉄鉱山・高炉跡(18 of23)
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岩手県釜石市にある日本に現存する最古の洋式高炉跡。釜石は、当時、日本国内で鉄鉱石が採掘された限られた場所であり、この地において、採掘された鉄鉱石を用い、高炉による製鉄が日本国内で初めて成功した。 (credit:Wikimedia)
萩反射炉(19 of23)
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山口県萩市。反射炉に用いる煙突部分の構造物は、海防上の重要拠点を統治した長州藩が、西洋技術の情報をもとに、独力で、反射炉建設に挑戦した価値ある試行錯誤を物語っている。 (credit:時事通信社)
恵美須ケ鼻造船所跡(20 of23)
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山口県萩市。海防上の重要拠点を統治した長州藩は、萩において海防用の船を建造し、西洋技術に学ぼうとした。1856年に「丙辰丸」、1860年に「庚申丸」が建造されている。 (credit:時事通信社)
大板山たたら製鉄遺跡(21 of23)
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山口県萩市。日本の伝統的なたたら製鉄により、恵美須ヶ鼻造船所に木造帆船の船釘などを供給した施設の跡が遺跡として保存されている。 (credit:Wikimedia)
松下村塾(22 of23)
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山口県萩市。日本の近代化の思想的な原点となった遺産の一つ。特に、海防の必要性と、西洋に学び、産業、技術の獲得を重視する考え方が、長州ファイブや塾生に引き継がれ、後に、明治政府の政策に活かされ、日本の急速な産業化に貢献した。 (credit:時事通信社)
萩城下町(23 of23)
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山口県萩市。西洋技術の導入に挑戦し、産業文化形成の地となった長州藩及び萩の地域社会全体の特徴と本質を示す遺産。 (credit:Wikimedia)