とにかく生きている。だから「死ぬまでに何をするのか」を考える

「人は何のために生きているのか。」こんな事を考えてもしようがないというか、問いかたに問題があると思うようになったのは、三十歳になるかならないかの頃だったと思う。
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「人は何のために生きているのか。」

こんな事を考えてもしようがないというか、問いかたに問題があると思うようになったのは、三十歳になるかならないかの頃だったと思う。「人は何のために生きているのか」という問いの間近には「草花は何のために生きているのか」があるし、「太陽は何のために輝いているのか」という問いとも隣り合っている。人間にしても草花にしても太陽にしても、何かが存在している理由を目的論的に問うたところで、「ただ、そこにあるから」としか言いようが無い――草花が何も考えなくともそこに存在しているのと同じように、人間一人一人も、何を考えているのかとは無関係にそこに存在している。

だからもし、誰かに「何のために生きているんですか?」と聞かれたら、私は「別に...。」と答えるほかない。生きる目的、生きる理由、生きる根拠なんてものは無い。そんなものは存在しないことをいったん認めたうえで、じゃあ、この無目的な生を、どのような指針で転がしていくのか、考えればいいのだ。

今、私は「この無目的な生を、どのような指針で転がしていくのか、考えればいいのだ。」と書いた。でも、実際には何も考えなくても構わない。例えば、本能のままに飯を食い、欲望のままにギャンブルに嵌まり、野良犬のように死んでいくとしても、それはそれで人生だ。無目的な生を、何も考えないまま生き続け、そのまま死んでいくこと自体は、珍しいことではないし、たぶんいけないことでもない。道端のタンポポが目的も無く咲いていることが自然なのと同じように、何も考えずに人間が生き、何も考えずに人間が死んでいくのは自然なことだ。「無目的な生を、どのような指針で転がしていくのか」なんて発想は人生のオマケみたいなもので、あってもいいけど、なくても良いものだとあらかじめ断っておく。

■「memento mori」

もっと差し迫った問いは、「死ぬまでに何をするか」だ。

「生きているうちに何をやりたいか」と言い換えてもいいかもしれない。

人間の生は、無目的ではあっても、無尽蔵ではない。

タイムオーバーの存在する、束の間のものだ。

しかも、いつ寿命が尽きるのか自分では判らない。

そういう危うい条件のもとで自分の生が成立していると自覚すると、この一回きりの人生をどう料理してやろうか、死ぬまでの束の間をどのように過ごそうかという発想が生まれてくる。無目的に、たまたま生きているという巡り合わせを、どのように取り扱うのか?明日死ぬかもしれないとして、今日をどのように生きるのか?もし、あと十年ぐらい生きられるとしたら、その十年を使ってどのような事をやりたいのか?

こんな風に自分の欲目について考えていると、「人は何のために生きているのか。」という形而上的な問いがどうでも良くなってくる。そんな事を考えている暇は無いのだ。明日死ぬかもしれないし来年死ぬかもしれない自分自身が、残された時間をどのように生き、どのように死に至るのか――そのように考えると、人生はあまりに短く、よしんば長生きできるとしても二十代は一度きり、三十代は一度きりなのである。

「死ぬまでに何をするか」と言われ、「自分は後世に名を残すような立派なことが出来ない」と答える人もいるかもしれない。まあ、後世に名を残すような人は勝手に残せばいいとして、ほとんどの場合、死ぬまでに出来ることといったら、そんな大層なことではないと思う。出来る事と言ったら、せいぜい楽しい思い出をつくることかもしれないし、一週間に三回ぐらい酒を飲むことかもしれないし、かろうじて犯罪に走ることなく一生を終えることが立派な人生、ということだってあるだろう。人間の数だけ人生が存在して、その難易度も境遇もまちまちである以上、「死ぬまでに何をするか」という人生の目標・欲目は人の数だけあって良いと思う。

もし、「死ぬまでに何をするか」を決める際に戒めがあるとしたら......娑婆世界は自分の人生だけで完結しておらず、自分以外の人間とつながりながら成立していて、自分の死後もたくさんの人が娑婆世界には残されることを踏まえ、他人の迷惑になるような事は可能な限り避け、後世の差し障りになるような因縁もできるだけ残さないよう心がけることだろうか。とはいえ、これもあくまで一指針で、生まれた境遇・社会・運命の巡り合わせのなかで、できるだけマシに生き、マシに死んでいきましょう、と心がけるぐらいが精一杯のような気もする。そもそも、人間とは生まれてこのかた迷惑をかけたりかけられたりしながら生きているのだから、そのあたり、潔癖症になり過ぎてもしようがない。

どうあれ、人生の有限性やタイムオーバー性を凝視していると、この無目的に与えられた生をどう転がしていくか、自ずと考えたくなるんじゃないかと思う。少なくとも私はそうで、死に思いを馳せることで、かえって生が際立った。タイムオーバーの時を迎えるまで人生が転がるに任せることもできるし、それがいけないわけじゃないけれど、「十年後には死んでいるかもしれない」と思えば十年間の身の振り方を考えたくもなるし、「明日死ぬかもしれない」と考えれば、今日をどのように過ごすのか少しは意識するようになると思う。

あと、日常の喜びを逃さないという点でも、「死ぬまでに何をするか」的発想は適している。「美味いラーメンを食った」「今週のアニメが面白かった」――そんなささやかな喜びも、生きていればこそのものだ。死ぬまで美味いものを食いたい、大好きなエンタメを楽しみたいと思う人は、それがために毎日を真剣に生きたっていいと思うし、そんな自分の生を否定する道理なんて無い。いつか死はやって来る。それまで生を噛みしめよう。私は、自分が何のために生きているのかは知らないけれど、自分が生きているうちに何がしたいのかは知っている。

(2014年2月10日「シロクマの屑籠」から転載)