《終戦の日》北海道の廃寺に残る「遺骨と位牌」 東アジアの和解とは

「加害」と「被害」、「謝罪」と「告発」の関係を超えるには
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8月15日、73回目の終戦の日を迎えた。この時期になると、新聞やテレビで戦争の悲惨さや平和の尊さを伝える報道が目立つ。

私も朝日新聞記者時代、広島の被爆者や空襲の被害者、壮絶な飢餓状態に陥ったガダルカナル島の戦いを生き抜いた元兵士やシベリア抑留を体験した元兵士ら、多くの戦争体験者に会い、記事にしてきた。

とりわけ忘れがたい取材が1つある。今から3年前の2015年、私が札幌に勤務していたころの話だ。

戦後70年の節目となったこの年、行政や民間団体などが海外戦没者の遺骨収集に力を入れていたが、私は北の大地で「もう一つの遺骨問題」に向き合っていた。

廃寺に残された遺骨と位牌の謎

北海道北部にある幌加内(ほろかない)町。日本一のソバの産地として知られ、夏には一帯の畑でソバが白い花を咲かせる。それはまるで白い絨毯のようだ。

だが、冬になると、そんな幻想的な光景は一変する。ここは屈指の豪雪地帯でもあり、猛吹雪と零下20度を下回る寒さ。むき出しの自然がしばしば人々を苦しめる。

町の中でも極寒ぶりが際だっている地区がある。町の北に位置する朱鞠内(しゅまりない)だ。大正初期に岐阜からの入植者たちが開拓した場所だ。

日本最大の人造湖である朱鞠内湖は地区のシンボルで、冬には凍った湖上にテントを張りながらワカサギや幻の魚イトウを釣る人たちでにぎわう。

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朱鞠内湖。冬には水面が凍る=北海道幌加内町
Kazuhiro Sekine
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朱鞠内湖。極寒のため、冬は水面が凍り、ワカサギ釣りなどを楽しむことができる=北海道幌加内町
Kazuhiro Sekine

湖から2キロほど西に離れた森の中に廃寺がある。引き戸を開けて中に入る。

正面には祭壇のような空間が広がり、その後ろの棚には無数の位牌が並ぶ。周囲の壁には、何かの発掘作業を撮影した写真などが所狭しと貼られている。

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廃寺を改装した笹の墓標展示館。戦時中、過酷な労働に従事し、亡くなった労働者の遺骨などが保管されている=北海道幌加内町
Kazuhiro Sekine

そして、倉庫の中には、今もひっそりといくつかの遺骨が保管されている。少し長くなるが、この廃寺と遺骨にまつわる話を紹介したい。

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笹の墓標展示館に保管されている遺骨
Kazuhiro Sekine

廃寺はかつて真宗大谷派、光顕寺の本堂だった。1930年ごろに建立されたが、1960年代に入ると、地域の過疎化が急激に進み、檀家が減少。宗教活動が難しくなった住職は寺を去り、それ以降はわずかに残った檀家たちが実質的に寺を守ってきた。

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笹の墓標展示館の中。祭壇の一部が残るなど、寺だったころの趣が残る
Kazuhiro Sekine

寺には戦後長らく、忘れ去られた歴史があった。それを明らかにしたのが、ここから南へ約40キロ離れた北海道深川市の一乗寺で住職を務める殿平善彦さん(72)だ。

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殿平善彦さん=笹の墓標展示館
Kazuhiro Sekine

1976年のこと。友人と朱鞠内湖をドライブしていた殿平さんは、寺の檀家総代だった女性からあるものを見せられた。段ボール箱に入れられた80余りの位牌で、どれも黒ずんだり、赤茶けたり。相当の年数がたっていた。

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ダムの工事現場で働くなどして亡くなった労働者たちを供養する位牌=笹の墓標展示館
Kazuhiro Sekine

刻まれた名前は男性ばかりだった。日本人だけでなく、朝鮮人とおぼしき名前もあった。死亡年月日を見ると、ほとんどが日中戦争が始まる2年前の1935(昭和10)年から終戦を迎えた1945(同20)年にかけてだった。

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笹の墓標展示館に並べられた位牌。朝鮮半島出身者のための位牌も多数並ぶ
Kazuhiro Sekine

「位牌の主は誰なのか」。殿平さんは調査に乗り出した。

明かされた悲劇

調べるうち、殿平さんは一つの悲劇を知ることになる。近くのダムや鉄道の建設工事に従事した労働者たちが過酷な環境下で働かされ、多数の犠牲者が出たという事実だった。

舞台として浮上したのは、朱鞠内湖にある雨竜第一ダムだった。今は北海道電力が管理しているが、元々開発したのは王子製紙だ。

一帯には原生林が広がっており、紙の原料となる木材資源も当て込んでの建設だった。1938年に着工し、1943年に完成した。

工事の前半は飛島組(現・飛島建設)が受注した。下請けには計10社ほどが入った。建設資材を運び入れるため、鉄道工事も合わせて進められた。

そこでの労働は非人間的なものだった。「タコ部屋労働」と呼ばれ、労働者たちは監禁状態で長時間にわたる重労働を強いられた。寝泊まりしたのは粗末な小屋で、集団で押し込められた。常に監視され、逃亡して捕まれば殴る蹴るの暴行を受けた。実態は強制労働だった。

労働者は日本人だけでなく、朝鮮半島出身者たちもいた。日本政府は当時、戦争の長期化で深刻な労働力不足に直面していた。それを打開するため、1939年に朝鮮半島から労働者を動員することを決めた。

企業による「募集」や、役所や警察が仲介する「官斡旋」、あるいは「国民徴用令」によって多くの朝鮮半島出身者が内地の民間事業所などに送り込まれた。

殿平さんたちの調査は困難を極めたが、突破口を開いたのが、役場に保管されていた当時の「埋火葬認許証」だった。埋葬や火葬を許可する行政の記録だ。

死亡場所欄にダムや鉄道の工事現場と記されているものを洗い出した結果、110人の犠牲者がわかった。うち朝鮮半島出身者は15人だった。

日本人の犠牲者については、彼らの本籍地がある役所に調査協力を依頼し、遺族が判明することもあった。

問題は朝鮮半島出身者だった。犠牲者15人の出身地は現・韓国だったが、当時の韓国は朴正熙・軍事政権の時代。日本人が遺族調査を進めることは難しいと思われた。

だが、殿平さんらはあきらめなかった。本籍地がわかった犠牲者あてに手紙を書き、遺族に死亡の事実などを伝えようとした。一縷の望みを託して送った「死者への手紙」に、7通の返信があった。

犠牲者と寺のつながりも明らかになった。工事で亡くなった人たちはいったん光顕寺の本堂に運ばれた。当時の住職が経を読んで供養し、その後、近くの共同墓地に埋葬された。

殿平さんは、そんな情報を工事に携わった人から得た。多数の位牌が寺に残されていた謎が解明された。

掘り起こされた「歴史」

殿平さんたちは遺骨の発掘にも乗り出した。共同墓地は寺から西へ数百メートル。埋葬された場所にはクマザサ(熊笹)が生い茂っていた。

1980年から始めた4回の発掘で計16体の遺骨が見つかった。人定はおろか、日本人か朝鮮人かもわからなかったが、戦後埋もれかけていた「歴史」が40年ぶりに掘り起こされた形となった。

1992年、本堂は取り壊しの危機を迎える。檀家が減少し、もはや寺を維持できなくなっていた。

取り壊しを前に最後の法要が開かれ、殿平さんも呼ばれた。そのとき、殿平さんは寺の存続を提案した。ここで起きた悲劇を伝える数少ない場所だったからだ。

檀家の人たちは、殿平さんたちが責任を持って管理することを条件に本堂を譲った。殿平さんらは本堂を展示施設に改装した。

「笹の墓標展示館」。犠牲者たちが笹藪の下から見つかったことにちなんでそう命名した。

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笹の墓標展示館という看板が取り付けられた旧光顕寺
Kazuhiro Sekine

殿平さんたちの活動を知った作家の森村誠一さんは推理小説「笹の墓標」を書き、印税の一部を殿平さんらの活動のために寄付した。

国境や民族を超えて

殿平さんたちの活動は、展示館を拠点にさらに広がっていった。1997年8月。13年ぶりとなった遺骨の発掘は、日本人と韓国人、在日コリアンの若者たち約100人による共同作業として実現した。

「東アジアの近代史をともに考え、国境や民族を超えて若い世代のつながりをつくりたい」。そんな殿平さんの思いに、知人の韓国人研究者が共感、自身の学生らを引き連れてきたのだ。

このとき見つけた遺骨は4体。遺骨が見つかると、国際交流を楽しむかのような和気藹々とした雰囲気は一変した。夜、若者たちは展示館に集まり、歴史認識の問題や日本の植民地支配、その結果としての日韓関係、あるいは在日を取り巻く問題などについて本音で議論し合った。

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戦時中に過酷な労働に従事した人たちの遺骨が見つかり、死者を弔うワークショップの参加者たち
Yoshihiko Tonohira

「日韓共同ワークショップ」と称したこの取り組みはその後、朝鮮籍の若者たちも多数参加するようになった。この取り組みは、「東アジア共同ワークショップ」へと名前を変え、今なお続いている。

今年のワークショップは初めて台湾で開いた。日本の統治時代も含め、過酷な支配の歴史を持つ台湾の原住民がテーマだった。文字通り、ワークショップは東アジアの問題へと広がっている。

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2016年のワークショップで参加者に語りかける殿平さん(左)
Kazuhiro Sekine

返還

戦後70年を迎えた2015年、殿平さんたちにとって喜ばしい出来事があった。朱鞠内で発掘された遺骨と、北海道にあるほかの3つの寺に安置されてきた遺骨計115人分を、ふるさと韓国に返還することができたのだ。

実はそれまでも、殿平さんたちは遺骨の返還を何度か試みてきた。だが、発掘された遺骨の多くは、誰のものか特定できなかったり、日本人のものか、朝鮮人のものかもわからなかったりした。

殿平さんらは韓国に渡って遺族を捜し出そうとしたが困難を極めた。身元がわからない以上、遺骨を受け取る訳にはいかない、というのが韓国側のスタンスだった。

別のハードルもあった。殿平さんたちが発掘した遺骨以外にも、北海道内で働き、亡くなった労働者の遺骨が別の寺などに保管されていたが、これらは徴用先の企業の依頼でのちに合葬されて遺骨が混じり合い、日本人や中国人、朝鮮半島出身者の区別すらつかなくなっていた。このため、韓国の遺族らは受け取りに難色を示してきた。

だが、戦後70年もたち、一部の遺族が「分骨でもいいから返してほしい」と望んだ。それがきっかけとなって返還が実現した。

殿平さんら草の根のつながりで民間人の遺骨の返還が実現した一方、この問題に対する国の動きは鈍い。

戦時下、日本内地の民間事業所で働き、死亡した現韓国出身者の遺骨をめぐっては、2004年に日韓両政府が所在確認と返還に向けて取り組むことで合意した。

ところが、その後の日韓関係の悪化などから返還は実現しないままだ。

殿平さんは言う。「私たちがやったことは規模としては小さいかもしれないが、希望という種はこういうところから育つのだと思う。それが東アジアの人たちの真の友情をはぐくみ、真の和解を実現することにつながる」

冒頭でも述べたとおり、朱鞠内の寺にはまだいくつかの遺骨が残されている。身元が特定できなかったものもあれば、身元は判明したにもかかわらず、遺族が受け取りを拒否したものもある。

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木箱で保管されている遺骨もある
Kazuhiro Sekine

北海道の別の寺には、今の北朝鮮出身者の遺骨もある。身元はわかっているが、北朝鮮との国交がない今、遺族捜しは難しい状況だ。

先の大戦をめぐる遺骨の問題は、海外の戦地で収集される戦没者のものだけでない。朱鞠内の寺のケースは一例で、同じように今なお遺族のもとに返っていない遺骨は無数にある。

朱鞠内での過酷な労働で亡くなった人たちは、日本人も朝鮮半島出身者も中国人もいた。彼らの遺骨を前にしたとき、国や民族の違いを超えた感情がこみ上げた。同じ人間、同じ死者に対する哀悼の気持ち、無念さ、怒り...。同じ人間としての尊厳を痛感した。

慰安婦問題や靖国神社参拝問題、戦争責任......。戦後73年たった今でも、日本は韓国や中国などとぎくしゃくしている。

もちろん、被害者に対する謝罪は必要だ。だが、「被害と加害」「謝罪と告発」という関係から一歩踏み出さない限り、東アジアに生きる私たちの人間関係はいつまでたっても和解できないだろう。

そのためのヒントを、朱鞠内の遺骨は私に与えてくれたような気がしてならない。

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展示館に置かれたノートに書き込まれた感想文
Kazuhiro Sekine