元少年Aの自意識がいまだラージサイズだとしたら

インターネット内外で思春期青年期の自意識やナルシシズムについて観察を続けている身としては、元少年Aの自意識のサイズのほうが気になった。

リンク先では、酒鬼薔薇聖斗を名乗って行われた神戸の連続殺人事件の犯人・元少年Aの手記について書かれている。あとがきがまるごと抜粋されているので、雰囲気を確かめるには良いと思う。リテラのほうでも、幾つかの抜粋を読むことができる。

連続殺人犯が手記を売り出すとなれば、当然、色んな声が集まってくるわけで、

好ましく無いとみる向きも多い。元少年Aの行為も、出版話を持ちかけた太田出版の行為も、まだまだ議論されそうだ。

元少年Aの文章から匂い立ってくる自意識

まあ、その手の話はよその人達にお任せしておいて。

インターネット内外で思春期青年期の自意識やナルシシズムについて観察を続けている身としては、元少年Aの自意識のサイズのほうが気になった。

手記のあとがきは、前半は一身上の苦労話が、後半は申し訳ないという謝罪表明が綴られていて、しかし本を書かずにいられなかったと締め括られている。その是非についてはここでは立ち入らない。

それよりも、なんともいえないレトリックの大袈裟さ、どこか芝居じみた文章の手触りが、私には気になって仕方なかった。書き手の自意識の大きさを暗示しているようにみえてならないのだ。通常、インターネット上でこういった文章をものする人物の自意識がラージサイズであることを踏まえるなら、この元少年Aの自意識のサイズ、あるいは自己イメージは相当でかいと推測される。

それをさらに印象づけるのは以下のフレーズだ。

自分の言葉で、自分想いを語りたい。自分の生の軌跡を形にして遺したい。朝から晩まで、何をしている時でも、もうそれしか考えられなくなりました。そうしないことには、精神が崩壊しそうでした。自分の過去と対峙し、切り結び、それを書くことが、僕に残された唯一の自己救済であり、たったひとつの「生きる道」でした。僕にはこの本を書く以外に、もう自分の生を掴み取る手段がありませんでした。

本を書けば、皆様をさらに傷つけ苦しめることになってしまう。それをわかっていながら、どうしても、どうしても書かずにいられませんでした。

注:http://quadstormferret.blog.fc2.com/blog-entry-224.html より引用

自分の言葉で生の軌跡をカタチにしたい、本を書いて生を掴みとりたい、皆様を傷つけ苦しめてでも書かずにいられない......。

平均的な自意識のサイズの人間が、このような欲求にとりつかれ、「皆様を傷つけ苦しめてでも書かずにいられなく」なるものだろうか?自分は特別な人間でありたい、メディアに向かってその特別な自分をひけらかしたいという思いが渦巻き、耐えきれないからこそ、このような出版企画に乗ってしまわずにいられないのではないだろうか。

元少年Aは、生き辛い生を歩んでいるのだろう

ちなみに私は、自意識のサイズが大きい・自己イメージが肥大化している=「悪」だと言いたいわけではない。学生時分に自意識が膨らむのは珍しくないし、中二病をはじめ、ある意味健全ですらある。著名人のなかには自己イメージが肥大しているけれどもそれがカリスマ性の源泉になっている人もいる。だから一概に「悪い」とみなすのは、筋の悪い見方だと思う。

しかしそうでなく、これからごく普通に働き、ごく普通に生きなければならないと期待されているであろう元少年Aが、日常の暮らしのなかでそのラージサイズの自意識を充たすことができず、「"皆様"を傷つけ苦しめてでも書かずにいられない」としたら、さぞ元少年Aの生は苦しいのだろうし、これからも苦しい人生が待っているのではないか、と懸念したくなる。

元少年Aの精神病理については、著名な精神科医をはじめ、たくさんの人がたくさんの言葉を費やしてきた。そういった個々の診断名には私は興味が無い。しかし診断名や精神病理のいかんにかかわらず、ごく普通に働き、ごく普通に生きていくにあたって、ラージサイズの自意識は不向きである。そういうものは十代のうちにある程度小さく折りたたんでおくべきか、そうでなければ、既に恵まれていてスターダムやエリートへの道が見え始めていなければならないはずだ。

しかし元少年Aは、このような手記を書かなければ窒息してしまいそうな程度に、大きな自意識、肥大化した自己イメージを保持している可能性が高いとみえる。だとしたら......それは彼にとって不幸なことではないか。過去の事件に依存したかたちでメディアに這い出て来ること自体、心理的な(ひょっとしたら経済的にも?)彼の生活のエコサイクルが難しい状態にあることを示唆しているようにもみえる。

事件がセンセーショナルに報道されたこと・元少年Aが社会に対しはっきりと挑発していたことを思えば、この、出版にまつわる諸々の出来事もまた、さしあたって彼の肥大化した自己イメージを充当するのだろう。そのことを「救い」として肯定的に語る人だっているかもしれない。しかし、いまだ成長途上にあるはずの彼のメンタリティにとって、それは本当に「救い」たりえるのだろうか?メディア越しに社会を挑発した人間が更生し、そのような挑発と無縁の暮らしをしていくにあたって、プラスの方向性をもった経験たり得るのだろうか?私には、それがわからない。

繰り返すが、私はこの件の善悪是非についてはあまり興味が無いので、そもそも、そんな「救い」が社会的に許されるのかはここでは触れない。しかし、あれだけメディアを挑発してみせたほどには肥大化した自己イメージを持っていたとおぼしき元少年Aが、ここで手記を出版するという選択自体、彼の更生の途上でなにかが上手くいっていないか、なにかが変わっていないことを示唆している気がして、なんというか、ネットで火傷してもまたぞろネットに戻ってきてしまう人々に似た不幸を連想せずにはいられなかったので、ここに書きとめておく。

(2015年6月11日「シロクマの屑籠」より転載)