自殺と自己愛(前編)

われわれは、どうすれば自殺を回避することができるのでしょう?

「自殺」という言葉を聞いて、みなさんは何を思い浮かべるでしょうか?

もちろん、自殺とは、自ら命を絶つという意味で自己に非常に残酷な行為ですので、誰しも自分には関係がないと思いたいところです。けれども、以下に見るように、自殺は日本の主要な社会現象の一つであり、この意味で自分に全く関係がないというのはちょっと言い過ぎです。

もしそれでも関係ないというのなら、自分が深刻なレベルで精神的に追い詰められたときに何を思うかを考えてみればいいかもしれません。

とても重要なことですが、社会科学的な意味では、人間以外の動物は自殺することができないということになっています。つまり、自殺という行為は、人間に特有の現象なのです。すなわち、厳密な意味で自殺するためには、自分が生きているということを知っており、また自分が何者であるのかということをある程度理解していなければならないのです。

精神医学の世界では、自分を愛するという行為は「自己愛(1)」と呼ばれますが、これは自殺とどのように関係しているのでしょうか。この学問分野では、行き過ぎた自己愛は「自己愛性パーソナリティ障害」などと呼ばれ、精神疾患の部類に分類されます。

けれども、自分を愛することはいけないことなのでしょうか? むしろ問題は、自分を愛することができないということではないでしょうか?

真の「自己愛」とは、自分を愛することができ且つ他者を愛することができる状態を意味するのではないかと私は考えています。私の意見では、個人の心理のうちでこの自己愛の原理が壊れたときに、人は自己を崩壊させる方向へ導いてしまいます。すなわち、自殺という破壊的な行為へ。

われわれは、どうすれば自殺を回避することができるでしょうか? ここでは、自殺という社会問題を自己愛という観点から一つ考えてみようと思います。

それでは、上に書いたことを念頭に置いて、まず以下に日本の自殺を統計的に見てみたいと思います。

年約3万人の自殺者

最新の統計を見ても、この国の自殺者の数は依然として極めて高い水準にあります(2)。日本では、1998年から2011年まで14年連続で1年間の自殺者が3万人を超えており、以後4年間は、2012年が27,858人、2013年が27,283人、2014年が25,427人、2015年が24,025人と年々減少してはいるものの、なお高い水準を維持しているといえます。

例えば、年2万5千人の自殺者がいるとすれば、1日当たり68人もの人たちが自殺している事になります。これを見れば、自殺がいかに切迫した日本の社会問題であるかということを理解できると思います。

なお、日本の自殺死亡率(人口10万人あたりの自殺者数)は、1998年から2014年まで17年連続で20人を超え続けており、そのうちの11年間は25人を超えています(3)。

この数字は、国際的にも非常に高い水準にあり、例えば、2009年の24.4人を例にとった内閣府発表の「自殺死亡率の国際比較(平成26年度版)(4)」によれば、日本の自殺死亡率は世界第6位です。本年度の調査に従えば、日本より上位にあるのは、韓国(第2位:31.0人)、ロシア(第4位:26.5人)をはじめとするリトアニア(第1位:34.1人)やベラルーシ(第3位:28.4人)といった旧ソ連とハンガリー(第5位:24.6人)です。

すなわち、日本を除き、他はすべてユーラシア大陸に位置する国々です。中でもいわゆる先進国と呼べる国は、日本と韓国だけで、これら二つのアジアの代表的工業国の自殺死亡率は、他の先進諸国に比較し群を抜いて高いといえます(5)。

自殺と精神疾患

この人間に特有の自殺という現象は、「精神疾患」という視点から考えることはできるでしょうか?

例えば、ある最近の研究では、自殺死亡率(以下、自殺率と略記)と自殺を引き起こす社会的諸要因(収入や貯蓄額)の相関性が精神疾患との関連において統計学的に実証されています(本橋秀之ほか「精神疾患と自殺に係わる社会的要因に関する研究―都道府県別解析による精神疾患の現状把握」2013年)。

この研究によれば、自殺率と貯蓄額とは、統計学的に相関関係があります。しかし、この研究成果において私が最も注目するところは、精神疾患の羅患率(疫学で使用される用語で、疾病が発生する頻度を表す指標)が高い日本の地域において「うつ病対策」が自殺率の減少に貢献したということです。

換言すれば、精神疾患と自殺とは相関関係にあり、精神疾患への対策がそれから自殺への発展を防ぐことに繋がると考えられるということです。だとすれば、むしろ自殺に関してわたしたちにとって問題なのは、個人の収入や貯蓄額よりも社会における精神疾患者の処遇ではないでしょうか。

「狂気」としての精神疾患

フランスの哲学者ミシェル・フーコーは、近代という時代の特徴を描写するために、精神疾患としての「狂気」という現象に注目しました。

フーコーによれば、狂気にある精神疾患者の狂人は、かつて崇高な存在として見做されていた時期さえあったけれども、次第に観察される対象すなわち「監禁」される存在となっていきました。19世紀には、彼らは精神の不調をきたした「精神病」と宣告されることになったと指摘します。

フーコーの主な目的は、「狂気」の取り扱われ方の変化に近代の「権力」の現れ方の特徴を見るということでした。すなわち、彼は、近代装置としての「監禁」と近代技術としての「科学」との共同関係において、社会から「狂気」が取り払われるようになったということを強調しました。

このフーコーの視点から見れば、近代科学(精神医学)こそ「監禁」を正当化する諸悪の根源です。まさにこの見方によって、「狂気」は「矯正」という任務を近代という権力装置(精神医学と病院)によって強制されることになったとフーコーは主張しました。

このような意味では、現代精神医学は悪の枢軸である権力と共犯関係にあると見做され、むしろ批判の対象となります。しかし、このような視点から精神医学を批判することにどれだけの意味があるでしょうか?

これに関しては、何でもかんでも病気にするな、ということ以上の事は言えないのではないでしょうか。というのも、権力の存在に関係なく、現代社会において精神疾患の存在を否定することはできないからです。

この意味で、精神医学は、近代における諸悪の根源でありながらも、「狂気」と向き合うことができ且つ「狂気」を彼の苦悩から解放することができる必要悪的技術です。ちょうど、ドラえもんがのび太を甘やかすだけのロボットでありながらも、のび太を「矯正」することができる唯一の存在であるように(もちろん、この「プログラム」がのび太にとってマイナスかプラスかどうかは、意見の分かれるところではあります)。

つまり、精神疾患に対する「矯正」を権力としての「強制」と看做すのか、あるいは「共生」のための技術と看做すのかでは、その扱い方は全くといっていいほど異なってしまうということです。

(次回「後編」では、精神疾患者ではない「自己愛者」としてわれわれはどう振る舞うべきかを考えます。)

(1) 日本の精神医学の分野では、「自己愛」の原語はnarcissism(ナルシシズム)であることが多いが、厳密に言えばこれは誤訳である。「自己愛」はself-loveと見做されるべきであり、両者はむしろ正反対の意味を持つ。しかし、本稿では、両者を区別しない。

(2) 内閣府「自殺の統計」(http://www8.cao.go.jp/jisatsutaisaku/toukei/)。

(3) 最も高い値は、2003年の27.0人である。なお、この年の自殺者数は34,427人であり、本統計調査の範囲で確認できる期間である1978年から2015年の間で最も多い。

(5) 先進国の中で日本の次に高いのは、順番に、ベルギー(18.3人:2006年)、スイス(18.0人:2007年)、フィンランド(17.8人:2010年)、フランス(16.7人:2008年)となっている。