野田聖子氏発言で問われる「南シナ海と日本」の深い関係

戦後の日本の南進政策が、間接的にだが、今日の混乱した状況を生み出したのは紛れもない事実だ。
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南シナ海をめぐる米中対立にからみ、最近、自民党の野田聖子衆院議員が「直接日本と関係がない」と語ったことについて、「失言だ」という批判が集まった。野田議員は自民党のベテラン女性議員で、日本で初の女性首相に最も近い1人と目されている。その政治的主張はハト派で安倍首相とは一線を画しており、9月の自民党総裁選挙でも唯一、安倍首相の無投票再選に異を唱えようと出馬を目指し、注目された。

野田議員の発言について、安全保障問題に理解がなさすぎる、米国が南シナ海に艦艇を派遣した深刻さを理解していない、など、主に外交論や安保論から疑問が向けられた。野田議員が対中関係を重視するために南シナ海について当面中国への批判を封印すべきだという考えで語ったのであれば、筆者の考えとは違うが、それはそれで1つの立場であると受け止めることができる。ただ、もしも日本と南シナ海との深い関わりを念頭に置かずに語ったのであれば、それは残念ながら歴史に対する誤認があると言えるだろう。

なぜなら、南シナ海の島々の領有問題や資源問題は、明治維新以降、「南」を目指した日本近代史の重要な一部であり、今日の領有をめぐる混乱についても、日本には歴史上の「責任」が少なからず存在しているからだ。

日本の戦後の再出発を確定させた1951年サンフランシスコ講和条約において、日本が権利を放棄すべき対象のなかに、台湾や朝鮮半島、満洲などに加えて、南沙諸島、西沙諸島も含まれていた。そこにはこう書かれている。

「日本国は、新南群島及び西沙群島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する」

新南群島とは、南沙諸島のことで、日本がつけた名前である。放棄するということは、国際承認があったかどうは別に、事実上、日本が領有あるいは占有していたことが前提になっている。一方、講和条約では権利を放棄したあとの帰属先が確定されていないため、事実上の無主状態に置かれたことで、今日の領土紛争の種がまかれる形になった。

中国の「南沙諸島領有」主張の論拠

米イージス艦が「航行の自由」作戦を展開した南沙諸島について、台湾の国防部の古い資料から、こんな公文書を見つけた。

「進駐南沙群島経過情形報告表」という1946年12月26日付の公文書で、「海軍総司令部独立第2グループおよび海軍南沙気象観測部隊」が、総勢54人の隊員とともに「太平号」(駆逐艦)と「中業号」(登陸艦)を派遣し、南沙諸島の長島(いまの太平島)に上陸したときの様子を報告している。

それによれば、派遣隊は12月12日朝7時、長島に進駐し、物資を運び込み、太平島に改名する石碑を立てた。そして、報告書には現地の様子をこう描写している。

「島には多くの樹木が茂っており、ヤシ、パパイヤ、パイナップルなど。井戸が5つ。居民なし。住居は破壊され、無線も破壊され、港湾では1艘の沈没船があった。日本人の建てた石碑があり、日時や名前が書かれていたが、いずれも削り取った」

1939年に日本は南沙諸島にあたる「新南群島」を台湾の高雄州高雄市に行政編入している。これらは、日本の資源獲得を狙う南進政策のなかで行われたことである。この中華民国による上陸活動は、南沙諸島の接収行動であり、以後、南シナ海のほかの島々に対する中華民国の接収行動が続き、今日の9段線(当時は11段線)と呼ばれる中国の南シナ海領有の実績づくりが進んだ。それは、大陸から追い出された中華民国を継承すると主張する中華人民共和国によって、南シナ海の島々の領有を主張する有力な論拠になっている。

日本人の足跡と記憶

一方、東沙諸島についても、日本人は浅からぬ縁を持っている。1900(明治33)年ごろから、小笠原諸島のアホウドリ捕獲で大もうけをしていた玉置半右衛門や水谷新六などの商人が、アホウドリを求めて東沙諸島に渡った。そして、台湾が日本に割譲されたあと、台湾北部の基隆で海運ビジネスを展開していた西澤吉次が、船団を率いて東沙諸島のプラタス島に到着。そして、海鳥たちの堆積した糞などによるリン鉱やグアノの採集事業が始まり、一時は400人を超える日本人や福建人などの労働者が、小さなプラタス島にひしめいていたという。

西澤は島名を「西澤島」と命名、島ではさらに「西澤島通用引換券」という私的貨幣まで発行したという。西澤は日本政府にこの島の台湾への編入、つまり日本領有を申し出て、日本海軍の艦船が派遣されたこともあった。しかし、この動きに反発した清朝は日本政府に抗議を行い、清との関係悪化を恐れた日本政府は清による東沙諸島の領有を確認し、西澤の置いた施設などは破壊され、新たに清の領有を示す建築物、碑、廟などが建設された。

そのときには「東沙島の返還に関する条項」が、清朝外交部から授権された両広総督と、日本駐広東総領事の間で交わされている。東沙諸島の領有権についての措置がサンフランシスコ講和条約に入ってこなかったのは、このとき、清朝の領有が確定したと目されるためだではないかと推測される。

その後も、日本は東沙諸島付近で漁業を行う漁民の問題で、中華民国政府から抗議を受け続けた。そして、日中戦争が勃発した1937年、日本は東沙諸島、その2年後に西沙諸島を占領している。そんな経緯で南シナ海の各地には日本人の足跡が残されていたのである。当時、日本という国家と日本人が、資源を求めて「南」というフロンティアに前がかりに向き合っていた歴史的証拠でもある。

中国も台湾も南シナ海すべての島々が領土であると主張している。フィリピンは南沙諸島を、ベトナムは南沙諸島と西沙諸島を、それぞれ領有しているとしている。戦後の日本の南進政策が、間接的にだが、今日の混乱した状況を生み出したのは紛れもない事実だ。こうした経緯を鑑みれば、南シナ海問題が日本に関係がないと言うことは難しいと思える。

野嶋剛

1968年生まれ。上智大学新聞学科卒。大学在学中に香港中文大学に留学。92年朝日新聞社入社後、佐賀支局、中国・アモイ大学留学、西部社会部を経て、2001年シンガポール支局長。その後、イラク戦争の従軍取材を経験し、07年台北支局長、国際編集部次長。現在はアエラ編集部。著書に「イラク戦争従軍記」(朝日新聞社)、「ふたつの故宮博物院」(新潮選書)、「謎の名画・清明上河図」(勉誠出版)、「銀輪の巨人ジャイアント」(東洋経済新報社)、「ラスト・バタリオン 蒋介石と日本軍人たち」(講談社)、「認識・TAIWAN・電影 映画で知る台湾」(明石書店)、訳書に「チャイニーズ・ライフ」(明石書店)。

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(2015年11月26日フォーサイトより転載)