科学が好きということとSTAP騒動(その2)

小保方さんがやったような、論文の剽窃や捏造は、これまでも科学の世界でちょくちょく起きてきた。たいていは、それほど重要なものでもないんだけど、たまにびっくりするような重要な研究が、実は捏造だと解って大変な騒ぎになることもある。
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小保方さんがやったような、論文の剽窃や捏造は、これまでも科学の世界でちょくちょく起きてきた。たいていは、それほど重要なものでもないんだけど、たまにびっくりするような重要な研究が、実は捏造だと解って大変な騒ぎになることもある。

そういう捏造研究は、主に研究を追試し、さらにその先をやろうと努力する、学位収得を志す世界中の大学院生の時間と研究費を無駄にするので、非常に罪深い。

しかし、捏造する人を完全にシャットアウトするすることはできない。それは査読付き論文誌でも、性善説に基づいているからだといわれる。

でも、これは性善説とはちょっと違うと思うんだよね。

倫理的な正しさを前提にしているというより、科学そのものを好きでやっている人にとって、捏造なんて、そもそも意味がないんだっていうことの方が大きいと思う。

科学が好きでやっている人にとって、その最大の喜びは、この世の誰もまだ気が付いていない宇宙の真理を、自分だけが知っている瞬間があるってことなんだよね。

それが仮に、ハタからみたら大したことではないように思えること、そんなの知って何の得があるのって事であったとしても、自分が宇宙の真理の最先端に居るという実感に勝る喜びはない。

それに比べれば、第三者による賞賛なんて、あとからついてくるオマケみたいなものに過ぎないんだよね。

だから、科学が好きで、自分に正直であれば、捏造なんて嘘をつく理由なんて、出てきようがない。

捏造なんてのは、科学が好きな事とはかけ離れた、次元の違う話ってことになる。

しかし、実際には、科学が好きって気持ちが薄い人が、研究をやっていることがある。そういう人にとって、科学は名誉とか地位とか、研究費を得る手段になっている。

日本では、昔から、科学の大ニュースに対して、それは何の役に立つのかって聞くのが、お約束になっている。

それはまあ、無理もない。

ヨーロッパの文化と歴史の中で培われた科学以外の、東アジアとかイスラムとか、他の文化圏における「科学的な行為」は、何かの役に立てるためのものだってことが前提になっている。

そう考えるのは当たり前で、だからメディアも何の役に立つの?という問いを発する。

しかし、ヨーロッパ起源の科学というのは、本質的なところで、それとは違ったへんてこりんなものだ。

役に立つとか役に立たないとか関係ない。とにかく誰も知らんことを最初に見つけてやろうってのが、ヨーロッパ起源の科学の暗黙の前提なんだよね。

日本は、東アジアの文化圏にありながら、明治以降、科学を根付かせようと努力してきた先人たちが、折に触れて、科学とは役に立つとか、たたないとか関係ないと、弟子たちを薫陶してきた。

だから、他国に比べて異例な感じでこの科学の本質が解っている人が多かったと思う。

それがあるから、日本は非ヨーロッパ文化圏の国でありながら、ノーベル賞の受賞者が多いのだろう。中国や韓国などは、すごく優秀な人は多いけれど、役に立つ当てのない研究方面には、あまりモチベーションが働かないみたい。だから、欧米の大学に所属して優れた成果を出す人はいっぱいいるのに、本国ではそういうものがなかなか出てこない。

しかし、役に立つ当てのない研究の中から、なぜか人類の文明を劇的に変えるような発見がたくさん顕れる。

パラドキシカルだけど,それが科学の面白さだ。

おそらくは、役に立つことをやろうとするのは、人類普遍の心理で、世界中の人が自然にしてしまう行為だ。でも、それだけでは到達できない境地がある。

たぶん、役に立てようとすると、与えられた枠組みの中での、部分最適化になってしまうんだろうね。

役に立つこと、良かれと思うことだけをやろうと部分最適化すると、最初は良くてもだんだん苦しくなるってのは、企業とかの失敗とかにもあるし、人間がやる行為の多くに見られることなんじゃないかと思う。

でも、役に立つことに関心が薄い科学の好きな人たちは、そこを超えて、そこからは発見不可能だった領域を見つけてしまうことがある。それがヨーロッパ起源の科学が、他の文化圏の科学的な行為に優った、秘密なんじゃないかと思う。

STAP騒動の背景には、そういった科学の暗黙の前提が、崩れて来ていることにあるんじゃないかと思うんだよね。

(2014年3月31日日「くねくね科学探検日記」より転載)