文化と社会的機会の平等―女性の土俵立ち入り禁制について

日本相撲協会は、宗教がかった偏見にみちた土俵の女子禁制を即廃止すべきである。
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(画像はイメージ)
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「しきたり」として続いてきたことにも、始まるきっかけがある。江戸時代には存在した女相撲を明治政府が禁止したのは、日本の近代化を進める上で、競技というより風俗見世物的要素の強かった女相撲を、明治政府が好ましからざるものとみなしたからだ。「土俵が神聖」で、「女性は穢れているから土俵に入れない」というような神道による意味づけは、当事の男尊女卑的価値観のもとで、いわば女相撲禁止の口実で出来たものだ。それから長い時が経ち大正、昭和、平成と経てきて今また日本は新たな時代を迎えようとしている。その間社会はは大きく変わった。それなのに昔のしきたりをそれが現代で持つ意味を考えずに固執することは、それこそ「因循姑息(いんじゅんこそく)の音がする」と思える。明治14年の断髪令ではやった言葉が「半髪(はんぱつ)頭を叩いてみれば因循姑息の音がする。 散切(ざんぎり)頭を叩いてみれば文明開化の音がする」である。「半髪」とは月代をそり、ちょん髷を結う髪型のことだ。そういえば相撲取りは未だに髷を結っている。

相撲会の頑迷固陋は、相撲が近代スポーツではなく、伝統芸能的要素が大きいせいもある。特有の髷を結い、まわしを締め、スポーツ審判とはとても見えない仰々しいいでたちの行司が差配し、清めの塩を撒き、力水をつける。スポーツというより宗教的儀式に近い。多くの日本人は知らないだろうが、大相撲は海外でも人気があり、オランダではテレビ放映もしている。筆者はあるとき、オランダ人の相撲通と話す機会があった。だが彼らは相撲のすべてを気にいっているわけではなかった。彼が言うには、相撲はとても面白いがスポーツとしては幾つか大きな問題がある、と。まず下にスパッツなどをはいて尻を隠すなら、「マワシ」は特有の競技服として容認できるが、問題は髷、行司、そして女性の土俵内立ち入り禁止だ、と。髷は日本文化特有のもので、それを外国人力士に強要するのは、こっけいだし競技上必然性のないしきたりの押し付けだ。行司の服装や軍配も全く機能的でなく煩わしい。そして何より、女性の土俵への立ち入り禁止という女性差別、これが最悪だ、と。勿論、日本人がオランダ人の好みに相撲を合わせる必要はない。

だが、最後の部分は筆者も全面的に賛成だ。それはそれが単に文化・伝統の問題ではなく社会的機会の問題だからである。最近「ちびっ子相撲に女子を参加させないように」と日本相撲協会からの申し入れがあり幾つかの自治体が女子の参加を禁止したと報道された。「女子は怪我をする率が高いから」という理由だそうだ。詭弁もいい加減にして欲しいと思う。「土俵は神聖」な場所で、「女性は穢れた存在」だからなどという、それこそ露骨に女性差別的な理由を明治以来頑なに維持してきたのが日本相撲協会ではないか。

以前関西の下町の元気な女の子と家族を描いた、はるき悦巳作の『じゃりん子チエ』という漫画が人気を得た。この物語に「チエ」の親友の「ヒラメ」という自分も周りも「どんくさい」と思っている女の子が登場する。この女の子が得意なのが相撲と絵画である。実は「どんくさい」どころか、「ヒラメ」は気持ちが真っ直ぐで心暖かく、かつ豪快という魅力的なキャラクターなのである。「じゃりん子チエ」は主人公の「チエ」だけでなく、この「ヒラメ」の存在によって、貧しいながらも元気に前向きに生きていく二人のそれぞれ個性的な少女を描き、また大人の人間より理性的かつ人間的な猫たちを同時に描くことで、成功した漫画である。だが女性が土俵に上がることを禁じられるなら、この物語の素敵な「ヒラメ」の個性は描きようも無かった。

土俵は女性禁制という制度が、ちびっ子相撲への女子の参加を拒むことになるのが由々しいのは、それは子どもの世界に公然と女性差別を持ち込むからである。課外活動を含め教育機会の男女平等は、極めて重要な社会的人権問題である。小さいときから、子どもに「女の子だから資格がない」などという、社会のあり方を教え込むなどあってはならないことである。

社会的人権には職業の男女の機会均等も含まれる。これはは筆者の専門領域だが、日本では男女の職業分離が著しく、女性が多くの職業から、完全にではないが閉め出されている。一方家庭内の家事・育児に類似した職業には圧倒的に女性が多い。土俵の女性禁制については、気がつきにくい点だが実は職業の機会の不平等にも影響している。相撲取りの話ではない。スポーツ競技は男女別が普通で、大相撲の「選手」が男性のみであるのは別に女性差別ではない。「行司」と「呼び出し」のことである。

審判員である行司が男性でなければならないという必然性はどこにも無い。他のスポーツ競技では男性の競技に女性の審判員が就くことはごく普通にある。しかし「土俵に立ち入り禁止」である以上、女性は絶対に行司になれない。土俵に上がる「呼び出し」も同様である。行司や呼び出しなど、人数が限られており、女性が排除されていてもたいした問題ではないと考える人もいるかもしれない。だが問題はその理由である。土俵が「神聖な場所」で女性は「穢れた」存在だからなどという女性排除の理由を、日本社会はこれからも「伝統」として、子どもに語り継いで行くつもりなのか。先日土俵内で舞鶴市長が倒れたとき、緊急看護のために土俵内に上がった看護師に対し、「女性は土俵からでてください」と繰り返し場内放送し、さらには女性が土俵外に去った後、大量の「清めの塩」を土俵内に撒くという恥知らずのことまでしたのが日本相撲協会である。後で「反省した」と謝罪したのものの、処分者を出したわけでもなく、かえってちびっ子相撲からの女子排除に積極的に乗り出している。反省も何もあったものではなく、女性差別制度の維持の姿勢は顕著だ。

日本で女性が多くの職業から締め出されているのは主として正規雇用が長時間労働を要求し、出産・育児と両立のしにくい職場環境とあいまって、女性が離職・転職を迫られたり、管理職候補から外されたりするからだ。しかしそれ以外にも、特定の職業が女性に「不向き」というステレオタイプの考えが日本では未だ横行し、中には女性の生理あるいはそれに伴う出血を「穢れ」として、日本において女性が多くの職業に「不適」であるとの理由とされる俗説もある。いわく、「女性は生理の時に味覚が変わるのでプロの料理人には適さない」「女性は生理のときに心が不安定になるのでパイロットには適さない」などなど。だが、長時間労働を人材活用に必須と見たり、上記のような詭弁を弄して女性に男性と同等の職業機会を与えない社会から、日本は大きく変わるべきである。特に相撲に限らず、日本は社会的機会を奪う女性排除を文化・伝統の名のものに正当化することは一切やめるべきだ。

実は筆者は少年時代には相撲ファンであった。荻窪に住んでいた小学生時代に阿佐ヶ谷にあった花篭部屋での出稽古による、花篭・二所ヶ関両部屋の対抗試合を見学する機会を得た。最後に部屋を代表しての若乃花対琴ヶ浜戦で、当事まだ関脇で細身だった初代若乃花が見事な上手投げで琴ヶ浜を倒すのを間近に見て、少年時代の筆者は若乃花ファンになった。その後も様々な出来事が重なり悲劇の横綱といわれた若乃花の筆者は忠実で熱心なファンだった。その後は土俵際の魔術師といわれた弟の初代貴乃花のファンになった。細身の貴乃花が、土俵際で粘りに粘り、最後に逆転する試合など喝采を惜しまなかった。今でも彼を歴代最高の大関だと思っている。残念ながら彼の息子の若花田・貴花田が活躍する頃には、筆者は米国に渡って、相撲を見る機会を失ったが、周防正行監督の映画『シコふんじゃった』を米国でビデオで観たときは、花田兄弟の相撲を見られなかったことをとても残念に思ったものだ。

ところで、『シコふんじゃった』には怪我をして欠場せざるを得ない男子学生の代わりに女子学生が大学対抗相撲に出場するという話が出てくる。「正子」というこの巨体の女子学生は心優しく力持ちの頼もしい女性である。彼女の活躍は常に人間性を暖かく豊かに描く周防映画の中にあって特にユーモアあふれるこの映画の欠かせない一面だ。最後に「シコふんじゃった」のも「夏子」という物語の副主人公格の女性のことである。土俵に女性が上がることを禁じられるなら、この素敵な日本映画は生まれようも無かった。先に述べたはるき悦巳漫画『じゃりん子チエ』の「ヒラメ」の活躍にせよ、周防映画の「正子」や「夏子」の活躍にせよ、これら日本文化の中での相撲は男女平等であり、筆者にはその方がむしろ、庶民の感覚から見た自然な相撲文化のあり方に思える。

将来を考え日本相撲協会は、宗教がかった偏見にみちた土俵の女子禁制を即廃止すべきである。そうでなければ、男女平等により敏感な若者も筆者のような「オールドファン」の多くもいずれ大相撲に愛想をつかすだろし、日本の国技の女性差別的制度は既に国際的に恥ずかしい存在となっている。この差別の慣行が維持されるなら、筆者は相撲を国技として大相撲を国が助成することに反対する。文化・伝統を守ろうとするとき、何を維持し、時代の要請の応じて何を変えるべきか、相撲関係者は良く考えるべきである。女性差別は相撲文化の本質的な部分では全く無いはずだ。筆者はむしろ、初代の女性木村庄之助が生まれ、颯爽と軍配を振るう日が来ることを願う。