バンドゥーラの音色にのせて(1)生後1カ月の「チェルノブイリ」--カテリーナ

物悲しい弦の響きと透明感のある美しい歌声が、優しく空間を包み込む――

物悲しい弦の響きと透明感のある美しい歌声が、優しく空間を包み込む――。

ウクライナ出身のカテリーナ・グジーさん(31)は、日本で2人しかいない「バンドゥーラ」奏者だ。バンドゥーラとは、60本前後の弦を爪で弾いて演奏するウクライナの民族楽器。この楽器には「ウクライナのすべてが詰まっている」という彼女は、日本に移住し、活動を始めてすでに10年以上経つ。

旧ソ連時代のチェルノブイリ近くで生まれた彼女は、1986年、生後1カ月で原発事故に遭遇し、一家はキエフに避難。幼少時からピアノを習い、後にバンドゥーラを始め、音楽学校で演奏家を目指す。

祖国ウクライナは1991年、旧ソ連崩壊にともなって独立したが、2013年末、親露政権と反政府勢力との紛争が勃発し、翌年、ロシアが軍事介入の果てにクリミアを強引に併合したことは国際社会で大きな問題となった。日本など欧米諸国のロシアに対する経済制裁は今も続いている。

家族が残る祖国の混乱に心を痛めながら、遠く離れた日本でバンドゥーラの演奏活動を続けるカテリーナさん。生後間もなく体験した原発事故を、図らずも日本で再び経験することになった数奇な運命――。バンドゥーラの魅力とともに、自身の半生を語ってくれた。

琵琶法師との共通点

「バンドゥーラ」という楽器をご存じの方は少ないかと思います。この楽器は、弦の数が多いのが特徴。私は64弦ですが、67弦まで増やすことができ、厳密に本数が決まっているわけではありません。素材は松で重さは8キロもありますが、それも原材料を変えることによって、少し軽くすることが可能です。

バンドゥーラの起源は12世紀頃に遡ります。目の不自由な男性の旅人の弾き語りに使われていました。今とは異なり、その頃は胸の前で抱えて弾くことのできる大きさで、弦も15~20本。演奏するというよりは、自身の悲しみや苦悩を「語る」ためのものでした。その点で、バンドゥーラ奏者と日本の琵琶法師とは音楽的な背景が似ているかもしれません。

15~16世紀にはポーランドの王に、18~19世紀にはロシアの宮廷に仕える専属の奏者が現れ、楽器も現在の形へと進化してきました。今は女性奏者ばかりなので、元々の成り立ちを考慮してなのか、ウクライナでは音楽学校、専門学校、大学とも、バンドゥーラを専攻する男性は女性より入学が優先されます

演奏するときには椅子に座って膝の上に楽器を乗せ、左手でベースを、右手でメロディを弾きます。自分の爪で弦をはじくのですが、右手は小指を使用せず、他4本の使い方はピアノとほぼ同じ。左手も弦を抑えるのではなく、1本1本はじきます。

もともと盲目の方がソロで使用していたこともあり、演奏するのは物悲しい曲が多いのですが、ピアノと同じぐらいの広い音域(5オクターブ)なので、ポップス、ロック、ジャズといった様々なジャンルもカバーできますし、また他の楽器とコラボしても、従来のバンドゥーラの演奏とは異なるまったく新しい世界に挑戦できると思っています。

生後1カ月で避難

私が生まれたのは、チェルノブイリの原子力発電所から3.5キロほどしか離れていない「プリピャチ」という町です。原子力発電所の爆発事故が起こったのは1986年4月26日。私はその1カ月前の3月28日に生まれました。

父は発電所の敷地内で、職員たちの作業服をクリーニングしたり新しい服を渡したりする仕事をしていました。家族から当時の様子を聞くと、事故が起こった後、一般市民には何が起きたのか、政府や市からは何も知らされなかったそうです。

1週間ほどしてようやく、旧ソ連政府から「3日間だけ他の土地に避難しろ」と通達が来て、5月初め、用意されたバスで父方の祖父母が住む西の地域に移動することになりました。父は直接発電所の中にいたわけではありませんが、仕事柄、作業員の服についた汚染物質に触れていたことになります。5月はお祭りの多い時期ですから、子どもを含めた周辺の住人たちは、何も知らされないまま、事故後もよく野外で作業をしていました。

その後私たち家族は各地を転々とし、最終的にはキエフに建てられた仮設住宅に入居しました。でも、日本の仮設住宅とは異なり、しっかりとした造りの9階建ての建物でしたので、母は今もここで暮らしています。

1キロのバナナ

キエフ市内はいくつかの地域に分かれており、政府はその1つを避難してきた人たちに割り当てたので、今考えれば、以前から住んでいた人たちの反発を買うのは当たり前でした。私が通った小学校は1学年6クラスで、1クラス30~33人。その中に必ず10~12人は避難してきた子どもたちがいました。小学校の児童数は一気に増加し、そのため、いじめや差別も出てきたのです。

学校では毎日、お昼ご飯を食べる前に、各クラスで避難している子が何人出席してきているのかをチェックして、食堂に申告しなければなりません。

体が弱く、ビタミンや栄養素が通常よりも必要となるため、私たちには通常の食事に加えて、1キロのバナナやジュースや牛乳を1ケースといったような"特別食"が配られるからです。もちろん、1回の食事でそんなに食べることはできません。

こうした子どもたちと地元の子が同じテーブルにつくのですから、当然「なぜあの子たちだけ」という気持ちが芽生えてきます。それを分けてあげようとしても、「食べたい」のではなく「嫉妬」ですから、その態度が余計鼻につくのでしょう。食べ物を投げられたり、殴られたり......。

私たち避難してきた子に対する様々ないじめは、そのあとも5~6年ほどは続きました。あまり思い出したくはない、辛い体験です。

「可能性が広がる」楽器

私がバンドゥーラを本格的に始めたのは、小学校に入学した年からです。私は4人姉妹の末っ子ですが、バンドゥーラのプロ演奏家となったのは、私とすぐ上の姉ナターシャ・グジーだけです。姉も今、日本でバンドゥーラ奏者として活躍しています。日本でプロとして演奏活動をしているバンドゥーラ奏者は、私と姉の2人だけなのです。

私たちが生まれた頃は、ウクライナではだいたいどの家庭にも大小さまざまなバンドゥーラが1台はあったそうです。プリピャチから避難するとき、父はピアノとバンドゥーラを手放さなかったので、私も幼いころから自然と触れる機会がありました。

母は幼い頃、アコーディオン奏者になりたくて音楽学校への進学を希望していたのですが、祖父母が「入学金を用意するためには、家を売らなければならない」と話していたのを立ち聞きしてしまい、諦めてしまったそうです。母はその経験から、子どもにはできるだけやりたいことをさせてあげたいと思っていました。

正直、最初はバンドゥーラを弾いてみたいという気持ちはありませんでした。今でこそ小さくて軽い子ども用のバンドゥーラが販売されていますが、その頃はありません。6歳上の姉が練習する姿を見て、あんなに大きな楽器を抱えるのは嫌だなと思っていました。

ウクライナでは音楽文化が発展しているので、本格的に学びたければ、小学校や中学校と並行して音楽学校に通うことができます。

私はピアノを習いたいと思い、母の親友でバンドゥーラの先生をしている方に相談したところ、「ピアノなら誰でも弾いているけれど、バンドゥーラ奏者は珍しいから、チャンスが広がるわよ。それにバンドゥーラは弦の並びがピアノと似ているので、ピアノも弾けるようになるし。弾き語りが中心だから歌も歌えるし、民族楽器なので音楽史や音楽理論の授業も受けることができる。ね、こんなに可能性が広がるのよ」と勧められて。

私も子どもなりに、それなら将来の夢ももっと広がるかもしれないって思い、結局、その先生の音楽学校に入ることにしたのです。

まさかそこから、子ども時代のあんな大変な"地獄"が始まるとは思いもよらず......。(つづく)

【本インタビューは全5回でお届けします】

カテリーナさんの公式HPはこちら(演奏動画もあります)

カテリーナ

バンドゥーラ奏者。1986年、ウクライナ・プリピャーチ生れ。幼少期より故郷ウクライナの民族楽器であるバンドゥーラに触れ、民族音楽団「チェルボナカリーナ」で活動する中で、10歳の時に日本公演のため初来日。16歳からウクライナ・レフゥツキー音楽専門学校で声楽、バンドゥーラの演奏技術、音楽理論を本格的に学んだ後、2008年、音楽活動の拠点を東京に移す。現在は日本で活動する数少ないバンドゥリストの一人として、国内ツアーの開催やライブハウスでのパフォーマンスなど精力的な活動を行っている。

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(2017年9月13日フォーサイトより転載)