飯館村「帰還」の哀しみ(下)託した「願い」--寺島英弥

「今まで支援してくれた人たちに出させてもらった」

「拝啓 初夏の訪れも穏やかな飯舘村の山々にもすっかり新緑が映え、つばめが軒下の巣にせっせと餌を運び、さえずっていたり、以前の村の風情が長閑(のどか)さを漂わせています。......が、田んぼに目線を下ろしますと、黒いトンパック(注・除染廃棄物のフレコンバッグ)に覆いを掛けて、ドシーンと塞がっている様に、いつまで続いてしまうのか?(私の生きているうちに......)と不安で胸が痛みます。村は3月30日を以て避難解除になり、ようやく帰れたと村へ戻った人が170人ほど(筆者注・9月現在で約400人)との事。(中略)私たちは『村に帰ってからも続けたい針仕事!』をモットーに、薄気力ではありますが、頑張ってきた想いです。しかし、現在帰村できた人は3人。村外に移住者の多い実態であり、各々が身辺定着も難しい現在では針仕事をする心の余裕が見いだせなく、存続する事は会員の心を和ませる処か、反対に苦痛にしてしまうかと判断致しました」

「肩の荷を下ろせた」

「今まで支援してくれた人たちに出させてもらった」

今年7月1日、福島県飯舘村八和木地区の佐野ハツノさんを訪ねた際、見せてくれた手紙の文面はどこか哀しげだった。古い着物を多彩な柄の普段着に仕立て直す「までい着」創作の活動を本稿(上)で紹介したが、この手紙は、自身が代表だった主婦仲間との「カーネーションの会」を解散するという「お知らせ」。長い感謝の言葉がつづられ、別の便せん1枚には、仲間10人の御礼のメッセージが書かれている。会が解散したことで、ハツノさんの自宅の広い物置には、完成しながらも未販売の「までい着」や、手つかずの着物がそのまま保管されていた。

「福島県立医大小児科の患者さんたちの入所施設に寄付を申し出たら、とても喜んでもらえた。そのことも手紙で報告したの」

ハツノさんは「これで肩の荷を下ろせた」と、安堵の表情を浮かべた。お知らせによくあるような、「今まで支えていただきました皆々様に深く感謝し、御礼のご挨拶を申し上げます」という言葉すら、ハツノさんの人生に関わった人々へ万感の思いを込めた「告別」のようにも読めた。

2013年に最初の手術をした大腸から肝臓に転移したがんは、その後の2回の手術や抗がん剤、陽子線治療、免疫療法でも改善しなかった。「私、顔が黄色くない?」と、ハツノさんは少し気にしているようだった。

「黄疸が強くなってね。動くのも大変で吐き気がする。全身がかゆく、それもひどくなる」

これほどの重い症状が出始めたのは、6月半ばのこと。湯治に行った秋田県の玉川温泉で、湯につかれないほど体がだるくなり、帰宅すると血尿が出た。4年にわたり治療してきた郡山市の病院の主治医の診断では、「もう肝臓が働かなくなっている」ということだった。このとき、夫の幸正さん(70)は「(余命は)あとひと月と告げられた」と言う。6月末に予定していた親戚との温泉旅行を反対していた主治医も、「最後の旅行ですよ」と許可してくれた。

「でも、それからまたひどくて食事もできず、だるくて寝てばかりいたの」

それでも笑顔を見せるハツノさんは、最後になるであろう入院を4日後に予定していた。

心を解き放つ田園風景

この日、見舞いに持参したのは山形のサクランボ。ハツノさんは「おいしそうだ」と真っ赤な1粒をつまんだ。

「きょうは食欲がある。伊達市に避難している人が新しい品種のジャガイモを持ってきてくれて、みそ汁を父ちゃんに作ってもらった。とてもおいしくて、普通の茶わんに1杯食べたよ。ご飯も3分の1くらい。いつもは食べられないんだけど」

ハツノさんの誕生日は9月5日。4月の取材では、「思ったより元気で、誕生日までは大丈夫なのでは」と希望を持っていた幸正さんに対して、本人は「私の判断では、夏まで持つのかなと思う。(主治医から)2、3月ごろ、『(がんの)痛みはないか』と聞かれた時は何ともなかったけれど、今は痛くてね」と、淡々と話していた。手術を重ねた後、いちるの望みを託した陽子線治療も効果が現れず、主治医は「手術はもうできない。体力的にも無理」「薬(抗がん剤)も、もう施しようがない」と告げたという。

幸正さんはサルノコシカケや霊芝などを煎じ、回復を願う友人、知人たちも効能があるとされる飲料などを届けてくれ、ハツノさんも一生懸命に服用した。「体調が良くなって。もしかして、治るかもしれないと感じる」と顔をほころばせる時期もあったが、それらもやめてしまった。「あんなに努力してきたのに変わらない」「まったく情けない、情けない」。弱気になるのはハツノさんらしくない、とたしなめると、「今度はだめ、今度はだめなんだ」と涙声になった。

この7月1日の取材の前日に、ハツノさんは親戚との温泉旅行から帰って来たばかりだった。この旅行が心身ともに大きな負担になってしまったというが、ふさいだ心をぱっと解き放ってくれたのは、家から眺めた田園風景だったという。「そのまま外に出て、歩きたかったけどね。父ちゃんと春から野菜を作り始めたハウスが見えて、とても気持ちが良かった。もう、トウモロコシが高く伸びているよ」

東京電力福島第1原子力発電所事故による放射線量が比較的低く推移した八和木地区は、除染作業が2016年の早い時期に終わり、佐野さん夫婦はその年のお盆前に、村の許可を得て仮設住宅からの帰還を果たしていた。思った以上に早く「末期」の告知を受け、闘病の不安を抱えながらの生活再建になったが、ハツノさんに後悔はない。

「帰ってきて良かった。ここにいると、体の具合は悪くとも、心は安らぎ、自由でいられる。ウグイスの声も聞こえて、なんていう長閑(のどか)さ。狭い仮設の毎日のように誰かに気兼ねすることなく、自分の好きなように暮らせるから」

わが家しかない

〈佐野家では、幸正さんの母トミエさん(89)と、長男裕さん(44)の夫婦と2人の孫が同居していました。ハツノさんが開いた「までい民宿 どうげ」の手作りチラシでも、一緒に笑顔を見せていた家族です。村の若い世代の多くは、原発事故の直後から「村内で放射線量が異常に高まった」との情報やニュースが流れたことから、いち早く自主避難を始めていました。裕さんの家族が八和木の実家を離れたのは(2011年)3月17日の夜。両親から経営の移譲を受けて和牛の繁殖を手掛けていた裕さんは、栃木県の那須高原の牧場に仕事を見つけて、先にしばらく福島市を避難先にしていた妻子を7月に呼び寄せました。ハツノさんは、愛する孫たちと別れた朝の悲しさ、苦しみを片時も忘れられないでいると語ります。

「出発する時、男の孫が『お父さん(裕さん)の下駄を持っていってあげたい』と、母屋の向かいの古い板蔵に探しに行ったの。わたしも一緒に入って、手をつないで、こう話した。『ここにあるものはみんな、お前のものだよ。家も田んぼも、お前のものになるんだ。だから、大人になったら戻ってきて、農業をやってな。それまで、じいちゃん、ばあちゃんが一生懸命に守っているからな』」

松川第1仮設住宅から車で30分ほどの八和木の家に用事で戻るたびに、帰り道、板蔵でのことを思い出し、涙があふれるといいます。「明るく元気にしているけど、わたしは泣いているの。いつも、心は泣いているの」〉

(筆者のブログ『余震の中で新聞を作る144~生きる、飯舘に戻る日まで⑧古里最後の集い、家族の別離』より)

ハツノさんから聞いた、福島第1原発事故直後の佐野家の家族の別れだった。わが家から、古里からも離され、その引き裂かれる思いを癒やしてくれる場所は、やはり、わが家しかなかったのだ。たとえ病は重く、あとわずかしか生きられない日々だったとしても。

「私はもう十分、頑張った」

最後の見舞いとなったのは8月7日。客間に通してくれた幸正さんはこう話した。

「(郡山の病院に)1週間入院した後『もういたくない』と、ハツノはずっと帰ってきている。具合が悪くなるばかりで、ずっと寝ているよ。看護士さんが1日おきに来て、点滴をしてくれる。病院からもらう、かゆみ止めの薬なんだ。(看護士が休みの)土曜日は俺がやって。調子が良い時は起きてしゃべるが、あんまり『痛い痛い』と言わないのはいい」

やがて、奥で休んでいたハツノさんが現れ、精いっぱいの笑顔を浮かべてくれた。

「足がむくんじゃった。でも、割としっかりした顔をしてるでしょ」

幸正さんは「(黄疸による)目の黄色いのが、きょうは取れているな」と、ハツノさんに気遣う。ハツノさんは、父母の下へ最後に会いに行ったと語った。原発事故前まで、両親は弟の家族と一緒に飯舘村宮内地区の実家で暮らしていた。

〈3世代、4世代で暮らしてきた人々とその共同体の離散は、飯舘村の歴史になかった出来事でした。とりわけ高齢者たちにとって家を追われる事態は、身を切られるも同然の痛みを伴いました。「絶対に行かない。死ぬ時は放射能のためじゃなく、寿命で死ぬんだ。だから、俺に構うな」。同村宮内地区にあるハツノさんの実家の父嘉兵衛さん(93)は、一緒に避難するよう説得した娘にこう訴え、母チヨさん(91)と一緒に、てこでも動こうとしませんでした。「あのころ双葉町(福島第1原発が立地)で、避難を嫌がっていたお年寄りを自衛隊員がやむなく助け出す、というニュースがあった。父はそれを見ていて、『自衛隊が来たら、俺は山に逃げる』とまで言った。頑強だった」とハツノさんは苦笑する。「最後は、『一緒に岳温泉に行こうよ』と言って連れ出したの」』〉(同上ブログより)

父母(現在は95歳と93歳)はその後、佐野さん夫婦と仮設住宅で暮らしていた。そんな両親を、ハツノさんが時々、実家まで車で乗せていって心を慰めていたという。しかし、自立生活が難しくなり、伊達市(飯舘村に隣接)の高齢者ホームに移っていた。

「母親は私をつかんで、『私とおじいさんも連れていって』と泣き出した。父親は足が不自由で、いすに座ったままの暮らしで、耳も聞こえにくいのに、『ああ、もう会えないんだ』と思ったのだろうね。私が帰る時、いすから地力で立ち上がって、ずっと手を振っていた」

しゅうとめのトミエさん(91)も同じ仮設住宅で6年半を過ごしたが、「飯坂(福島市)の方の施設に入った。肺と心臓を弱らせて酸素を吸っている。ハツノのことは知っているよ」と、幸正さんは説明した。

ハツノさんは、解散した「カーネーションの会」の仲間のことなどを、いつもと変わらぬくらいの快活さでしゃべった後、疲れたのか、「頭がガンガンとなってだめなの。部屋で横にならせてもらうね」と立ち上がった。「私はもう十分、頑張ったと思うの」と、言い残したことが、今でも心に残っている。

幸正さんから電話で、ハツノさんの再入院の話を聞いたのは8月25日。

「家にいられる状態でなくなり、病院に入って終末期のケアを受けている。モルヒネを打ってもらい、穏やかにしている。こちらの話に返事はできて、意識もはっきりしている。だが、誕生日(9月5日)までは持ちそうにないな」

それから、訃報が届いたのは3日後の朝5時半だった。

心残りがあるとすれば

この夏の東北は、戦前の「昭和の大凶作」があった1935年以来の長雨と低温が続き、残暑もないまま9月になった。葬儀から1週間後の6日。太平洋岸特有のヤマセの霧雨に煙る飯舘村に、ハツノさんにあらためて線香を上げたいと幸正さんを訪ねた。

「『太く短く、悔いなく生きられた』と本人は言って穏やかに逝った。4日前には昼に大好きなうどんを食べたが、その後は目を覚ますことなく、8月26日の朝4時ごろ、呼吸が少し荒くなった後に息を引き取った。看護士さんから『今夜あたりか』と知らされていたから、家族みんなで見送ることができた」

幸正さんはハツノさんの最期の様子をこう語った。

祭壇の遺影は、「までい着」作りの活動で4年前、内閣府の「女性のチャレンジ賞」に選ばれ表彰された折の和服姿で、金屏風を背にした微笑が、ほのかに輝いていた。

祭壇のある居間の外は、原発事故前までハツノさんが営んだ民宿の別棟が解体されて更地になっていた。急に広くなった敷地に古い板塀の蔵がぽつんと残っている。

「板蔵も壊したかったが、邪魔が入ってね」と、幸正さんが蔵に目を向けた。避難する家族の別離の話に登場した板蔵だが、「古くても、俺がメンテナンスをするから残してくれ」と長男の裕さんが訴えたという。あの時、ハツノさんが「ここにあるものはみんな、お前のもの。大人になって戻るまで、守っている」と孫に伝えた言葉が、「遺言」のようになって残させたのかもしれない。幸正さんは、江戸時代に越後(現在の新潟県)長岡から移住した木挽(こびき)の7代目の末裔に当たり、代々使われたのこぎりも、この蔵に保存されているという。

「壊して、新たに車庫を造るつもりだったが、この広々した眺めもいいな」

ハツノさんの心残りがあるとすれば、原発事故のために廃業した「までい民宿 どうげ」のことではなかったか。佐野さん宅の入り口にどんと据えられた、「どうげ」と刻んだ大きな石の看板は既に撤去されていた。「主治医から『もう長くはない』と言われた2月の時点で、(民宿の復活に)諦めはつけていた」と幸正さんは語る。が、4月の取材では、「都会の人に農家の暮らしを分かってほしい。山の恵み、星空や自然の美しさ、飯舘の豊かさを体験してもらおうと始めたの」と、未練を断ち切れていないように、ハツノさんが振り返っていたことを思い出した。

願いを託した「苗木」

「Dear大切な人~10年後のあなたへ~2006 .9.30」というスタンプが押された1 通の手紙を読ませてもらった。飯舘村の立村50年を記念し、村が住民に参加を呼び掛けた「10年後に届く手紙」だった。「佐野幸正様」と宛名が書かれたハツノさんの手紙には、「10年後、20年後、もっともっと長く元気で生きましょうね」「助け合いながら大好きなこの飯舘村で 悔いない人生を送りましょう お約束!!」など希望と愛情がこもっている。その最後の文章は、「(2006年)9月中旬に"農家民宿 どうげ"の許可をいただいたから、ばあちゃん(義母富江さん)にも一役発揮してほしいよ、頼りにしていますからね」と結ばれていた。

避難が解除され、これから復興を目指す村にこそ「どうげ」のように人を招き、交流できる場が必要だ。そんな役目を、ハツノさんは担いたかったのではなかったか。

幸正さんからもらった土産は、この春、ハツノさんがハウスに苗を植えて、丸々と実った白いカボチャだ。飯舘村出身の農業技師が品種改良し、村の農家の主婦が避難先で栽培して広めた「いいたて雪っ娘」。味の良さが評判というが、それがハツノさんの形見にもなった。

佐野さん宅の居久根(屋敷林)の裏手に放牧地跡がある。原発事故前はのんびりと和牛たちが遊んだ。全村避難とともに多くの農家は、全村で約3000頭を飼育していたという牛の大半を、泣く泣く県家畜市場(本宮市)で競売に掛けた。幸正さん、ハツノさんは放牧地の周縁に、昨年暮れ、ケヤキ60本、桜10本の苗木を植えた。

「苦難を乗り越えて帰ってきた証しなの。ここで2人で精いっぱい生きて、いなくなる時が来ても、きっと木は大きく伸びている。私たちの思いを子どもや孫たちにつないでほしい、この家や村をいつか受け継いでほしいという願いを託したの」

牛が消えて荒れたこの土地は今、「太陽光発電のパネルを設置することにした」という幸正さんの発案で工事の最中だった。それでも、ハツノさんが願いをこめた苗木たちは育ち、緑の葉を付けた枝を伸ばしていた。

帰り道、放牧地跡のそばの道で偶然に出会ったものがある。雨に濡れながら、朽ちることなく立つ「までい民宿 どうげ」の木の表札だった。ハツノさんの夢は、この地で確かに生き続けている。

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