日系アメリカ人の歴史

松本純、鈴木馨祐、牧島かれんの三代議士と一緒に、アメリカ西海岸に出張してきました。ロサンゼルスを中心とした南カリフォルニアとサンフランシスコを中心とした北カリフォルニアの二つの日系アメリカ人コミュニティを訪問するのが目的でした。日系アメリカ人には百五十年近い歴史があります。1868年、「元年者(がんねんもの)」と呼ばれる約150人の日本人がハワイに移民しました。日本から米国への移民の幕開けです。
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circa 1943: Aerial view of a Japanese-American relocation center in Amache, Colorado, during World War II. It is one of 10 barrack-type cities that were constructed as temporary homes for 110,000 people of Japanese descent who were moved away from the Pacific coast. Each family was provided with a space 20 by 25 ft. The barracks were set in blocks and each block was provided with a community bath house and mess hall. (Photo by Hulton Archive/Getty Images)
Hulton Archive via Getty Images

松本純、鈴木馨祐、牧島かれんの三代議士と一緒に、アメリカ西海岸に出張してきました。

ロサンゼルスを中心とした南カリフォルニアとサンフランシスコを中心とした北カリフォルニアの二つの日系アメリカ人コミュニティを訪問するのが目的でした。

日系アメリカ人には百五十年近い歴史があります。

1868年、「元年者(がんねんもの)」と呼ばれる約150人の日本人がハワイに移民しました。日本から米国への移民の幕開けです。

1869年には、旧会津藩士がカリフォルニア州ゴールドヒルに「若松コロニー」と呼ばれる入植地を築きましたが、失敗に終わりました。

その後、ハワイ、カリフォルニア、アイダホなどに日本からの移民が行きました。米国本土では日系移民の多くは農場や鉄道建設に従事し、ハワイでは移民の多くはサトウキビ農園などで働きました。

1905年にサンフランシスコを中心に反日運動が組織され、1908年に日本政府は日本からの移民を自発的に制限することになりました。

しかし、家族の渡航は禁止されていなかったため、一世のもとに写真だけで見合いをした「写真花嫁」と呼ばれる女性が日本から嫁ぎました。その数二万人以上と言われています。

1913年ごろから市民権を持たない外国人の土地所有を禁止する法律が各州で成立するようになり、後に借地も禁止されるようになりました。

1924年の移民法により、日本からアメリカへの移民が全面的に禁止されました。

1941年、真珠湾攻撃とともに太平洋戦争が始まり、アメリカ本土では日系人の指導者の逮捕が始まりました。

1942年2月19日、ルーズベルト大統領は、陸軍に危険人物を強制的に立ち退きさせることができる権限を与える大統領令第9066号に署名し、3月から強制立ち退きが始まり、最終的に12万人の日系アメリカ人が強制収容所に送られることになりました。

この大統領令は日系人を指定していませんでしたが、ドイツ人やイタリア人には適用されませんでした。

ハワイでは強制立ち退きは行われませんでした。

本土の日系アメリカ人は、1942年から1946年までの間、次の10か所の強制収容所に収容されることになりました。

アリゾナ州ギラリバー

コロラド州グラナダ

ワイオミング州ハートマウンテン

アーカンソー州ジェローム

カリフォルニア州マンザナー

アイダホ州ミニドカ

アリゾナ州ポストン

アーカンソー州ローワー

ユタ州トパーズ

カリフォルニア州ツールレイク

強制収容所では、1943年から「忠誠登録」が行われました。この中には「アメリカ軍に志願する意思があるか」「アメリカ合衆国に忠誠を誓い、天皇への忠誠を破棄するか」等という質問が含まれ、これらにNOと答えたものは忠誠でないとされ、この忠誠登録を巡って日系人の間に亀裂を生むことになりました。

不忠とされた者は、カリフォルニアのツールレイク強制収容所に隔離される一方、陸軍への入隊を志願した二世たちで第442連隊と第100歩兵大隊が組織されました。

この2つの部隊はヨーロッパ戦線の激戦地に投入され、第二次世界大戦中もっとも多くの死傷者を出した米軍部隊となり、また、米軍史上最も多くの勲章を与えられた部隊として有名になりました。

第442部隊には、2010年に米国で最高の勲章の一つであるCongressional Gold Medalが送られました。

強制収容所の中から強制収容を憲法違反だと訴訟を起こし、最高裁判所まで争った日系人もいましたが、強制収容は違法とは認められませんでした。

やがて大学に通う約4000名が強制収容所から解放されることになりました。この中には後に白人以外で初めてNBAでプレーした選手になったワッツ・ミサカ(ニューヨーク・ニックス)もいました。

戦後、マッカラン・ウォルター法が1952年に成立し、日本からの移民の市民権の取得が認められるようになりました。

第442連隊で活躍し、右腕を失ったダニエル・イノウエが日系アメリカ人として初めて1959年に連邦下院議員に、1963年に連邦上院議員に当選しました。

これまでにイノウエ上院議員の他に、スパーク・マツナガ(第442連隊)、サミュエル・ハヤカワの二人が日系人として上院議員に選ばれています。

1965年にパッツィー・ミンクが白人以外の初の女性として連邦下院議員に当選しました。

1973年にノーマン・ミネタが初の主要市の市長(サンノゼ)、1974年にジョージ・アリヨシが初の州知事(ハワイ)に当選しました。

ノーマン・ミネタは2000年にアジア系アメリカ人として初めて閣僚になり(クリントン政権の商務長官)、2011年にはブッシュ政権の運輸長官に就任し、911のテロ発生時にすべての米国内の飛行機を強制的に着陸させる措置をとりました。その後、サンノゼの空港は、ノーマン・ミネタ国際空港と名付けられました。

1988年にレーガン大統領が強制収容に対して正式に謝罪し、市民自由法が成立し、収容された者に対する2万ドルの賠償金の支払いが行われることになりました。

1992年に、クリスティ・ヤマグチがアルベールビルオリンピックの女子フィギュアスケートで、日系アメリカ人として初めて金メダルを獲得しています。

1999年にはエリック・シンセキがアジア系アメリカ人として初めて陸軍参謀総長に就任しました。

アメリカ国籍を持っていながらも強制収容所に入れられた経験を持つ日系アメリカ人は、子供たちを「良きアメリカ国民」にしようとして、熱心に子供を教育する一方、あえて日本語を教えず、日本についても教えないことが多かったようです。

日本企業がアメリカに進出する際に支援した日系アメリカ人もいましたが、他方、日本との接点がなかった日系アメリカ人も多かったのも事実です。

日本と日系アメリカ人コミュニティの間の懸け橋をつくりなおすというのが亡くなったダニエル・イノウエ上院議員の願いでもありました。

そのためにも日系アメリカ人の歴史を理解し、全米各地の日系人コミュニティとの交流を深めていくことが必要です。