クールジャパン政策をどう扱うか、投票前に少し考えてみる

日本政府は日本のポップカルチャーの発展に産業政策的貢献は一切していない。むしろ、クールジャパン政策は、そういう中で自生的に生まれたポップカルチャーを一つの鳥羽口として日本の産業構造を改善してもらおう、日本ブランドを作っていただこうという、いわばポップカルチャーの胸を借りる話である。その文脈で日本政府がポップカルチャーを政府として好ましいものにしてしまおう、鋳型にはめてしまおうとするのであれば、それは不遜の極みというしかない。
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クールジャパン政策なんてハッキリ言って選挙とは関係ないよな!とか思いつつ、ちょっと敢えて投票前にクールジャパン政策について考えてみたい。

クールジャパン政策は、アニメやマンガなど日本の「クール」な(カッコイイ)商品やサービスを主として海外に展開し、「日本ブランド」を確立する運動だと思われる。実は、参照したクールジャパン官民有識者会議提言では「クールジャパン」という言葉そのものについての定義はなく、もう当然のものとされているようである。

従って、「クールジャパン」は、2002年にマグレイが「フォーリンポリシ-」で発表したコラム「Japan's Gross National Cool」で触れた時とは異なり、日本が日本のために日本について自己規定する言葉になった。その中で、当初のアニメやマンガといったコンテンツは「クールジャパン」の一要素に過ぎなくなり、その他の要素、例えば食だとかデザインといったものが大きな割合を占めるようになってきた。

Wikipediaの「クールジャパン」の項には「具体的には、日本における近代文化、ゲーム・漫画・アニメや、J-POP・アイドルなどのポップカルチャーを指す場合が多い。さらに、自動車・オートバイ・電気機器などの日本製品、現代の食文化・ファッション・現代アート・建築などを指す。また、日本の武士道に由来する武道、伝統的な日本料理・茶道・華道・日本舞踊など、日本に関するあらゆる事物が対象となりうる」とあるが、これは筆者の実感と近い。

とはいえ、クールジャパン政策がコンテンツ産業政策に与えた影響は軽視できない。

その中で、ポジティブな影響の一つは、「コンテンツが儲かる政策」から「コンテンツで他の産業を儲けさせる政策」へと腰を据えたことだと思う。実は、外部経済効果が強いコンテンツに関する産業政策の中で、このどちらを軸にするかは常に問題にされてきた。教科書的に言えば、著作権やその他の道具を使いながら「コンテンツで儲かる産業」からコンテンツ生産自体へ収益を移転させる、つまり経済を内部化できれば両者は統合されるのであり、そうした使命を負った者としてプロデューサの育成が強調されてきたという歴史もある。だが、具体的な方策が確立しないまま、プロデューサが大事という考えだけが強調されてきた感もある。

そうした中で、まずは「コンテンツで他の産業を儲けさせる政策」を第一に据えたということは、一つの節目として評価していいと思うのだ。

言い換えれば、クールジャパン政策の本質は二つに集約できるだろう。一つは、経済活動においてプロモーションの重要性をもっと理解しようということである。もう一つは、商品・サービスの価値においてデザインやその商品と消費者との出会い方といった主観的価値(多分、それはマルクスならば幻想だと切り捨てるようなもの)の大切さを理解しようということである。それは日本国内でも、海外の市場でも同じことで、そこから、一つは国内で育ってきたこういう性質を持った産業をもっと伸ばそうということ、もう一つは国内だけで閉じてきたこういう産業を海外市場でも活躍してもらおう、ということになる。

では、その具体的施策の要点はどこなのか。まぁ、マンガやアニメの愛好者として、政府がこれまで無視(やや蔑視?)を決め込んできたポップカルチャーを急に産業政策の柱として据えた、その違和感については、ここではちょっと横に置いておこう。7,80年代からずっと日本のマンガやアニメなどポップカルチャーが諸外国で様々な影響を与えてきたことを、おそらくは一つのピークだった90年代前半には全く無視しておいて、いまさら「最近」日本のポップカルチャーはクールジャパンといわれ人気がある、といいだす言説への違和感も、まぁ目をつぶろう。

だが、それを考える際に、そもそも国家はこれらについてどう貢献したのか?という問いは重要だろう。なぜなら、それはクールジャパン政策を構成する具体策の設計において重要なひな形をなすはずだからだ。

だが、はっきり言って、国家も政府もポップカルチャーの隆盛には、直接的な政策によっては、何の貢献もしてこなかったと思う。そういう意味では、クールジャパン政策は、少なくともポップカルチャー関連領域に関する限り、完全に民間の文化活動・文化産業活動に対するフリーライドである。敢えて言うなら、平和を維持して諸外国の影響を自由に截取できる環境を作ったこと、経済を発展させて中産階級が分厚い国を作ったこと、そしてメディア環境をそれなりに整備したとともに文化を自由にし表現を規制しなかったこと、この三つが最大の貢献であったと思う。

こういう状況で、政府がポップカルチャーにどう政策的に対応するかは難しい。政策担当者に知見がないからである。ならば、政策も試行錯誤をしながら進化していくしかない。その失敗の予知は政策担当者に与えられるべきだろう。

その中で、一つだけ指摘しておきたい問題がある。

それは、筆者もかつて触れたマンガやアニメの内容規制である。

現在、国会で継続審議になっている児童買春・児童ポルノ禁止法の改正案であるが、その附則第2条では、児童ポルノ描写物であるマンガやアニメーション、CGその他の規制を将来的に視野におき、その是非を調査研究すべきこととされている。これが同法の趣旨に合わないとか、表現の自由に対する規制として憲法上の要請を満たしてないとかそういう法技術的な難しい主張はさておき、筆者は、「海外に展開していく上で海外の規制と整合的でないとならない」とか「海外から尊敬される日本であるためにこういうコンテンツはよろしくない」という意見がある点を重視している。なぜなら、こうした意見はクールジャパン政策と表裏一体であるからだ。

繰り返すが、日本政府は日本のポップカルチャーの発展に産業政策的貢献は一切していない。むしろ、クールジャパン政策は、そういう中で自生的に生まれたポップカルチャーを一つの鳥羽口として日本の産業構造を改善してもらおう、日本ブランドを作っていただこうという、いわばポップカルチャーの胸を借りる話である。その文脈で日本政府がポップカルチャーを政府として好ましいものにしてしまおう、鋳型にはめてしまおうとするのであれば、それは不遜の極みというしかない。

もちろん、日本政府が日本政府として支援したいものというのはあるだろうから、それを選択的に支援する政策は否定するものではない。それと、日本政府が好ましくないものを抑制しようという政策は全く異なることは、何度強調しても強調しすぎることはないだろう。

クールジャパン政策は、「失われた20年」を越えて国家としてのプライドを回復したいという国家の願いと、メディア環境や市場状況が激変する中でポップカルチャーとそれを支えるエンターテイメント産業を引き続き発展させたいという業界の願いが交錯するところで起きた一つの現象だ、と筆者は考えている。それはそれでよい。

しかし、それをうまく実現させるために必要なことは、国家を担う政治家自身が、日本のポップカルチャーには日本という国家を発展させる(そしてそれはしばしば政治家自身が国家に投影する理想を実現する)ために貢献する責務などないことを自覚すべきだろう。責務がないものは、それゆえに規制することはできない。これは道理である。

おそらく、この論理構造はクールジャパン政策、ポップカルチャー政策に留まるものではない。

おおよそ政府の政策は、社会が上手く動くことに還元されるべきものだ。規制は、人々の権益の衝突の調整のためのものであるべきだ。

しかし政府や政治家は、例えば「日本としてのプライド」とか「美しい日本」とか、様々なかたちで、この社会をどうしたい、という理想の追求をしがちである。日々国家のことを考えているのだから、自己の理想をそこに投影することも、人間としては理解できるところだ。そして、「失われた20年」の長きにわたって戸惑い続けた不機嫌な我々国民は、こういう理想に解決の糸口を求めたい気持ちも起きるだろう。

だが、思い返してみれば、日本が経済的に成長し、今や「クールジャパン」の柱の一つと自認するポップカルチャーが確立した時代に、我々は政府が追求する理想なんてそっちのけで、我々としての楽しさを多様な形で追求してきた。もしそれが日本が求めるものであるならば、政府がなすべきことは、平和の維持と、景気浮揚(経済成長)と、多様で自由な文化の保持しかない。

だから、クールジャパン政策から考えることは一つだ。日本を一つの理想に向かわせようという政治家、政党を選ぶのか、日本を我々にとって住みやすく楽しい社会にしようという政治家、政党を選ぶのか、ということである。

答えは、読者のみなさんにお任せしたい。