プロセスに学ぶ賢者、結果に学ぶ愚者

多くの日本の医者たちの手術をこの目で見てきた。そしてある時、あることに気付いた。
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Two businessmen standing at the end of forked stone pathway in water with rainbow over one businessman
Thomas Barwick via Getty Images

これは絶対的に正しいかどうかは分からない。

しかし私の人生では真実であった。

今日はその物語。

途上国でずっと医者をしてきた私にとって、手術はまさに格闘だった。

途上国で手術を始めた20年前、私にはほとんど何もなかった。

アジアの田舎の家屋の一部屋を改造した手術室で、私の手術は行われていた。

ベッドすら、木で現地の大工が作ったものだった。

停電は頻発し、平均して1日に2時間しか電気は来なかった。時には1週間以上全く来ない時もあった。

薄暗い部屋では、昼も夜も現地人スタッフ数人が両手に抱えて照らす懐中電灯が、全ての明かりであった。

電気メスもなかった。道具もろくなものはなかった。

それどころか、麻酔薬も日本のようにガス麻酔はなく、静脈麻酔と局所麻酔しかなかった。

だからどんなに長い手術でも1時間程度が限界だった。それでも後半は薬が切れてきて患者も私も、暴れる患者たちを押さえつけるスタッフも、何度もつらい思いをした。

さらに医者は私だけで、看護師すらそのほとんどの期間、存在しなかった。

今から思えば仕方なかったと思う。

私にとってはそれでもやるのか、やらないのかという選択肢だった。

そして現地の貧困層の人々にとってもそんな私の元で手術を受けるのか、それとも諦めるのかという選択肢しかなかったから。

だから、私の手術は早い。普通の日本人医師の約3倍のスピードで進むと思う。

上手いかどうかは別だが。

それはその環境が私に与えた当然の帰結で、おそらく誰でもそのような環境で手術を行い結果を出そうとすれば、そうなったと思う。

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あれから長い時間が経って、多くの日本の医者たちの手術をこの目で見てきた。

そしてある時、あることに気付いた。

何で私の手術はこんなに早く、彼らの手術はこんなに遅いのか?

それでもなんで私の手術のほうが大抵、上手くいき、彼らの手術がトラブルのか?

はさみで切る時間。糸を縫う時間。一つ一つの動作のなかで器具で組織を扱う時間。

これらは、私と彼らではそうは違わない。

なのになぜこんなに手術時間が3倍も結果的に違うのか??

要するに、問題は動作と動作をつなぐその間(ま)に答えはあった。

そして、その間にはさらに二つの要素があると思った。

一つ目は、彼らには無駄な動きや不必要な動きが多いということ。

多くの日本の外科医は、私の使うおおよそ3割から5割増しの視野を必要とするために、多くの組織を切ったり開いたりして傷めることになる。

だから患者のダメージも大きい。術後の痛みの程度が断然違う。

さらに手術時間も短いから麻酔時間も短く、私が手術した患者たちは術後の回復が早い。

しかし、本当に大きな差は次の二点目から生まれてくる。

それは、日本の外科医たちはいくつかの作業を繰り返した後に、次の判断していることが多い。

詳しく言うと、A点からB点まで組織を切るとすると、例えばそれにハサミを入れて半分くらい切ったときに、どうかな?と確認作業をする。

あるいは腫瘍の側面を露出するとき、何回か器具でそこをほじくって、それから、どうかな?上手くいっているかな?何か見えるかな?という確認を行う。

そしてその結果で、次のステップを決めて作業が続いていく。

ところが、私は同じようにA点からB点までハサミを半分入れていても、実はずっとその過程を追っかけて、はさみの先を微調整させている。その結果、彼らのように半分の地点で作業が中断し、そこから動き出すというような作業の断絶は普通はせず、すっと最後まで動いて一気にA点からB点まで切ってしまう。しかし、その作業の間中、脳とハサミは微調整をしながら作業を連続的に進めている。

腫瘍も同じで、数回の作業の繰り返しの後の結果で次のステップを決めてはいない。たった1回の作業中ずっと、五感を使い連続的に判断をしながら微調整を繰り返している。

いずれも、脳と体の機能は連続して発動され、途切れたり中断したりすることはない。

多くの場合、このプロセスへの集中が結果の差になって現れているのではないか?と考えている。

そしてここからが多くの人にとって大切なのだが、このプロセスへの連続的集中という結果に圧倒的に影響する秘訣に、ほとんどの人は気付いていないのではないか?ということだ。

なぜならば多くの人は結果のみに集中しすぎているからだ。

分析もデータ収集も、テストの評価や反省も、スポーツにおけるビデオの分析も、すべて結果しか見ていないことになる。

結果から修正されるものは、実はそう多くはないのではないか?

地震があったとき、まさに地表の被害を見て次の対策を立てても、なかなか有効な対策になっていないように、やはり地下でどのような過程でそれが発生するのかを知らなければならないように。

あるいは、結果として起こっている政治家の不正でその政治家をやめさせても、そのような政治家を生み出しているそのプロセスを修正しなければまた同じことが起こるように。

学生のために少し言うと、これはもちろん試験である問題を結果として解けたということに、あるいは解けなかったということにフォーカスしてはいけないということになる。

実は、大切なのはその試験を解いているときに、どのような思考過程で、公式のような思考基準をどのように導入してやっているかを客観視することだ。試験のときは、それができなければ、自分の時間で問題を解いているときに、その解いているプロセスをずっとモニターし続け、どの回路を使うのが正しいのか感覚的に理解することだ。

問題を解き終わってから答え合わせをして、結果的にどこが間違っていたかを正そうとしても、効率が悪くなる。

自分の正解に近づけたければ、結果を待って修正すると、手術のように時間はかかるし、正解率も悪くなる。

ある方法で、ある事柄に臨もうと決めたとき、その過程、すなわちそれを行っている最中に、微調整を繰り返し、思考をフル回転させ続ける。そして、その結果が出たときには、それはそれで反省したり分析したりはするのだ。

しかしおそらく決定的な修正や新しいアイデアへの気付き、ゴールへ辿り着くためのある種の感覚への目覚めは、既にその過程で獲得されていることだろう。

結果から逆に導き出して得れるのではなく。

私たちは自分の中にある感覚で、普通はこれを自然に行っている。

人と話しているときに、会話のある分量で区切って流れを決めているわけではない。

そういう人間は、コミュニケーション能力が低いといわれる。

そうではなく、刻々と変わる表情や声のトーン、雰囲気や様々な要素を途切れることもなく分析し、修正して会話を行っている。

ところが、事柄が自分の外にあることと認識しているときは、過程ではなく、結果を分析して修正しようとする癖がある。

だからそのことをいかに自分の内側にあるものと認識できるのかということが大切になると思う。

これは分かりやすくいえば、自分で自分の体を手術する感覚を身に付けるということだ。

自分の体を自分で手術するとき私たちは、脳はフル回転し、体からの瞬間瞬間の情報は脳に伝達され、瞬時に微調整が行われていくだろう。そして、おそらくその時の最高の能力を発揮することだろう。

だから、白けて仕事をしていたり、いやいや物事をしていたり、その状態はもう最高の状態を発揮するのには程遠い状態だといえる。

これは大切な自分の人生と自分の目の前の時間が分離している状態だ。

人は愚かにも、気付かないことがもうひとつある。

そうやって、いやいや仕事をしている、毎日をだらだら過ごしている、適当に手を抜いている状態というのが、実は本来は連続的修整をなすべき自分の人生のプロセスそのものになっているという事実だ。

5年勤めたらまあ、辞めようか。とか、面白くなく、やる気もないけどもう少しだけ人間関係で続けるか。

などとやって、ある時間が経ったときに反省したり修正したりしているその姿が、日本の医者たちがいくつかの動作を繰り返してから修正する姿と、全くかぶってはいないか?

そして、それははじめに書いたようにトラブル率が高くなるあり方なのだ。

人生で最も大切なものは時間。

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人生の時間を大きくセーブするためには、そして自分の人生の正解率を上げるためには、

今、この瞬間、瞬間を最適な正解を求めて微調整し修正しながら進む以外にない。

そのための必要条件は、今、自分の人生の目の前にある事柄にフルコミット。すなわち、自分と時間の一本化である。

自分の体を自分で手術するときの感覚だ。

目の前にある事柄に白けているということは、すなわち自分の人生に白けているということ。

人のことを愚痴っているというのは、自分の人生を愚痴っているということ。

これが人生というのは今この瞬間にあるということの意味だと思う。