韓国・ソウルの150万人デモに足を運び「黄色いリボン」から学んだこと

100万人以上が光化門周辺に集まることで街中は優しい橙色に染まっているように見える。民衆の力を肌で感じた。
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◼韓国のデモに足を運んで

地鳴りのように響く朴槿恵政権反対の声が目の前に広がる。

抗議する人々は寒さでかじかむ手でろうそくをそっと持つ。100万人以上が光化門周辺に集まることで街中は優しい橙色に染まっているように見える。民衆の力を肌で感じた。

昼間から続いた抗議集会が夜1時ごろに終えると人々で埋め尽くされた光化門広場には終電を逃した人々がぽつりぽつりと暖を取るように身を寄せ合い腰を降ろし、寒い夜を過ごす。

静まり返り普段の姿に戻った抗議の中心地に、明るい場所がある。セウォル号犠牲者追悼テントだ。

小さな集会が行われ、朴槿恵大統領退陣を要求するスピーチをしている。抗議用のプラカードが配られるブースがあったり、串焼きを売っている屋台もある。ストーブで手を温める人の姿もある。

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その中に、セウォル号事故追悼のために韓国全土に運動として広がった「黄色いリボン」のシールやキーホルダーを配布するブースがあった。このテントに足を運ぶ人は皆ここでもらい愛用するスマートフォンや手帳につける。僕も報道写真に取り組み始めたときから愛用し続けているカメラにキーホルダーをつけ、iphone6の背面にシールを貼ってもらった。日本から来たことを伝えると言葉が帰ってきた。

「ありがとう。共に犠牲者の追悼を」。

◼抗議の声と犠牲者への追悼

事故が起きたのはいまから2年半前ほどだ。

2014年4月16日に韓国南西の珍島沖で旅客船セウォル号が沈没事故を起こし304名の人々の尊い命が奪われた。その多くに修学旅行に参加していた高校生たちがいたことは日本のマスメディアも大々的に報じていた。これから楽しい修学旅行が始まると楽しそうにスマートフォンの動画で友達との会話を動画に撮っていたりしていた姿がテレビの映像で流れ、見ていたことをいまでも覚えている。

当時、事故発生直後の午前10時ごろから午後5時まで政府がどのように行動たのかが明らかにされておらず韓国では「空白の7時間」と呼ばれている。多くの命が失われた大事故であるのにもかかわらず「青瓦台」(大統領府)にいたといわれている朴槿恵大統領が中央災難対策本部に姿を現すまで実際にどのように動いていたのか不明であったため、この2年間、朴槿恵大統領に対して糾弾を行う抗議も行われてきた。

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この日も青瓦台から200m離れた一番近い抗議の場で、セウォル号犠牲者を追悼し政府の対応を糾弾するデモの一団があった。犠牲者の顔写真が並ぶ横断幕やプラカードが掲げられ、「4.16」(事故発生日を示している)とプリントされたマスクやステッカーを身につける人がいた。

セウォル号事故によって国家が国民の命に向き合わないことが露呈され、犠牲者の遺族や韓国国民は堪えられない苦しみと哀しみ、そして怒りをぶつけていたように感じた。

デモの一団が路上を進むと集まった抗議参加者は同じように追悼の意を示すように優しい眼差しで向かい受ける。他のデモの一団が通るときとは違って、そっと道を明けていく様子が伺えた。

セウォル号事故が韓国で声を上げる人々の根底に共通の意志として存在しているように思えた。

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犠牲者追悼テントには犠牲となった人々の顔写真が壁一面に貼られている。そして誰もが追悼の意を示しお祈りができるようにお線香をあげる台がある。事故以降2年の間、テントが置かれている。

テントに入ると、ひざをつき静かに祈る人、背筋をまっすぐと伸ばし目を瞑る人がいる。

その一人ひとりの表情に、レンズを向ける。「どうか安らかに」。という言葉だけでなく様々な感情が入り交じる。目の前の犠牲者の写真、一人一人の眼差しから自分と同世代の命が失われた哀しみで胸が痛くなり、事故の痛々しい記憶が共有される思いだった。

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テントの隣には、事故前に撮影された犠牲者である修学旅行生のクラス集合写真が貼られていた。

事故に巻き込まれた檀園(ダンウォン)高校の生徒たちだ。事故の1年前に撮影され、入学間もない高校1年生のころに撮影され、各々が無邪気にポーズを撮り笑顔でこちらを見ている。

これからまだ楽しい生活が人生が学校での勉強があったというのに...とその写真から伝わる無念さと悔しさに涙が溢れる。苦しくなるのに耐えられなくなりそうになり、目の前に存在する彼ら彼女らから目を背けたくなるようにも感じた。でもしっかり目を向けなければと思い視線を合わせた。立ち尽くすしか無かった。

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帰国してからインターネットで追悼テントのことを調べると、「ニセ犠牲者がやっている」「犠牲者のために広場があるわけでない」といわれのない誹謗中傷を与える人もいるということを知った。与党系の国会議員も非難の声をぶつけたという。

しかし、あの大惨事の事故は「誰かの問題」ではなく韓国国民一人ひとりにとって「私の問題」として韓国全土に追悼の意が広がった。朴元淳ソウル市長も当初は「救済を求める遺族や運動を行う人々のテントでもあったが、性格を変えていまは追悼空間として存在する」とも語っているそうだ。毛布などの支援物資などもソウル市から給付され、行政からも支えられていると言える。

◼私たちのことでもある

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事故当時、韓国の友達はよくFBに「黄色いリボン」の画像を投稿していた。

黄色いリボンに込められる意味は「戻ってくることを切実に祈る」。

多くの命が、とくに同世代の若者の命が奪われることになってしまったことに、僕も当時の報道や友人がSNS上で追悼の意を示すのを見て、その意を示すためにシェアをしたりコメントを添えてニュースを自身のタイムラインに投稿した。といっても韓国の若者くらべたらちっぽけだったと今回、韓国に足を運び感じた。

Facebook、TwitterそしてInstagramまであらゆるSNSで「黄色いリボン」の画像が拡散された。

Kポップアーティストも自主的にそのキャンペーンに参加したという。

2年前の当時とは違い、現場に足を運んだことで見えたことがある。

実際に被害があった韓国ではまだ追悼が行われ続けているということだ。デモの場でもその意志が共有される。2年半以上経ち、日本にいると忘れてしまっていた、いやむしろ知らずに向き合わずに過ごしてきてしまった自分がいることを認識した。

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国が事故直後の対応を隠蔽をし続け、犠牲者を背く行為は許されず、犠牲者への追悼の意を表すことだけでなく、国への怒りの声も広がっている。この2年間で韓国の若者にとって、社会や大統領への不満は膨らみ続けたのに違いはないだろう。

「いつかまた尊い命が奪われるかもしれない」、「生活が奪われるかもしれない」と取材をするなかで高校生や大学生が語ってくれた。不安と不満が混じり合い声を上げざるを得ないような社会がいまの韓国だった。

このことは韓国のことだけなのだろうか、セウォル号事故のことだけなのだろうか...。

現地で声を聞き、抗議の様子を見て、セウォル号犠牲者追悼テントを見て突きつけられるような思いがあった。

日本では2011年3月11日に発生した東日本大震災によって多くの命が津波によって奪われた。東京電力福島第一原発の爆発事故が怒り、語り継がれてきた「原発安全神話」も崩壊した。高濃度放射線物質が広がったことによって故郷に帰ることを許されない人々がいる。「生活はどうなるのか」、「これからの社会はどうなるのか」、「あの日何かが終わったような気がした」というような声もある。

政府は本当に復興のためにお金をまわし、そして原発事故を検証し、安全な社会を築ことうしているのだろうかといまだに不安に感じる。

ジリジリと暑さを感じる今夏、8月21日未明に震災から5年の間、脱原発運動の象徴的場所であった霞が関の脱原発テントが強制的に撤去された。これまで人々が幾度となく立ち入り多くの抗議参加者は日陰でお茶を飲んだりしながら腰を休めた。

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脱原発テントは性質上、韓国のセウォル号犠牲者追悼テントのような3.11の震災の犠牲者の追悼のためのテントではないものの、政治に声を上げることが長い間無かったと言われていた日本で、3.11以降に大規模な脱原発運動が全国に展開されたことを証明する場所であった。「テント」という共通の場所を考えることで、韓国の文脈のそれとは違い同質化する話ではないと思いつつも、あの震災のあと多くの市民がこの社会はどうなるのかという不安に向き合い路上に足を運び声を上げ国に異を唱えていく今の日本の市民社会の姿にも重ねた。

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朴槿恵の退陣を要求し路上に足を運び声をあげ続ける韓国の若者の思いの根元は、セウォル号事故のことなのかもしれないと思う。1987年の韓国民主化闘争で民主主義を勝ち得た記憶もあるかもしれないが、実際に話しを聞くとセウォル号の話を語る若者が多かったからだ。

国家に、権力に対して、声をあげるということは私たち生活者、国民...人間そのものの尊厳を守るためだと感じた。朴槿恵大統領に反対する約200万人にのぼる人々が路上に立ち声をあげる。「いま降ろさなければ僕たちの生活が脅かされる」と現地で会った大学生は語る。

日本ではデモをしても意味がないとまだまだ言う人は多く感じる。「デモより対話」「反対ではなく対案」と聞くばかりだ。韓国の高校生や大学生は「デモも対話」と語る。もちろん朴槿恵大統領の支持率がぜん対で4%、19歳〜29歳で0%と圧倒的に反朴槿恵という意見がマジョリティであることで日本とは状況を同じとは言えないだろう。しかし、彼らが語るのに共通するのは「路上に足を運び続け、声をあげ、実践していく」ことだった。「デモをやっても意味がない」と囁かれる日本とは民主主義の捉え方が違うように感じた。

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日本の市民社会がこのように考えることにはまだまだ時間がかかるかもしれない。2015年の夏に国会前で安保関連法案に対して学生団体「SEALDs」が中心に声をあげ、2013年の反原発運動以来久々に、全国に運動は広がった。哲学者の柄谷行人氏が「デモをすることでデモができる社会になった」と語るように、いまの日本では「デモがあたりまえな風景」になりつつある。韓国のように、議会民主主義だけでなく「実践し行動し民主主義を勝ち得ていく」というような直接民主主義、この二つの側面で民主主義のあり方をあたりまえに語れるような社会になるには絶えず声を上げ続けていくしかないのだろう。

国会前で「民主主義ってなんだ!」とコールをしていた学生が発していた「孤独に思考し判断し行動しろ」という言葉が示す先にある社会のことなのかもしれないと痛感する。

◼尊厳を守るために

いま韓国から帰ってきて、セウォル号追悼テントのことを思い出すと、神奈川県相模原市の障がい者施設「津久井やまゆり園」で入所者19人が刺殺された事件、そして大手広告代理店「電通」での同世代の女子社員が過労で自殺に追い込まれたこと、NHKで取り上げられた相対的貧困に直面する女子高生への貧困バッシング、在日コリアンなどを標的に街なかやインターネット上で吹き荒ぶヘイトスピーチのことなどが脳裏をよぎる。

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セウォル号事故は「韓国社会の酷さ」を具現化したものと言われている。「あの事故があったから声を上げるようになった」という若者に出会ったように、社会で起きる問題は一つ一つ個別の事例として考えるものではないということなのだと思う。

日本においても、それぞれが社会の病理が生んだ非情な事件である。朝昼のワイドショー的なニュースでは「切り取りやすい」ような、加害者と被害者の二つの立場に焦点があてられ、その二者間での課題解決が求められるように収斂されていくように感じる。

しかし、実際はそれを四角い画面を通して見ている私たち社会に生きる一人ひとりの問題であるのではないだろうか。

加害者は誰なのかと考えれば、国、会社だけではない...。

その社会を許し続け、フィールドに立つことをせずスタンドの上から傍観してきている私達なのかもしれない。人間の尊厳は誰かが守ってくれるものではないし、傍観し続ければ、それを軽んじ踏みにじる側に加担することにもなるだろう。ではどうやったら解決できるのかなんて考えていけば先が見えず「わたし」個人では無力であることを痛感せざるを得ない。それでもなお私たち、主権者である国民一人ひとりが声をあげ続け行動していかなければならないのだろう。

「きっと声を上げなければ尊厳は奪われていく...だからこそ声をあげる」。

そう語る韓国の同世代の若者に自分も同じような気持ちを示したいという思い、そしてセウォル号事故犠牲者への追悼の意志を示すために「黄色いリボン」を愛用するカメラとスマートフォンに身に着けた。

あのソウルの寒空のなか、凍るように冷えた手を動かしながら屋外のテントで若者たちが手作づくりするキーホルダー。大切にしたい。

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