米軍落下物事故から考える沖縄。「なんでおそらからおちてくるの?」

「沖縄の問題」は、「沖縄だけの問題」ではない。自分の生活は、沖縄の犠牲のうえに成り立っているという事実は変わらないのだ。欠点を乗り越えていくための第一歩は、“自覚すること”ではないか。

高く澄んだ空、瑞々しい緑。沖縄県宜野湾市。東北生まれの僕からすると、なんとも開放的な雰囲気に心が弾む。市を表す言葉は「ねたての都市(まち)ぎのわん」。“ねたて”とは、古琉球の時代から、「物事の根元」や「共同体の中心」、「まつりごとの中心地」を意味する言葉らしい。しかし、現在その中心に横たわるのは、市の25%の面積を占める「米軍普天間飛行場」だ。所属する常駐機だけではなく、他の基地からの外来機の離着陸も多く、上空を掠めていく轟音は、夜間でも止むことはない(※1)。

 
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普天間基地に離着陸する軍用機の轟音が空を震わす。2019年12月だけで、嘉手納基地は4258回、普天間飛行場は1834回の離発着が数えられている。
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なんでおそらからおちてくるの?

緑ヶ丘保育園は、普天間バプテスト教会付属保育園として1964年4月に創立された。その名の通り、緑の木々に囲まれた保育園の園庭では、子どもたちが木登りをしたり、雨の中泥遊びをしたりと、日々元気な声が響き渡っていた。しかし時折、園児たちが驚いたように空を見上げる。普天間基地に離発着する軍用機が、轟音を立て園の上空を通過するのだ。そんなある日、事件は起こった。

 

「あそこに落下したんです」。保育園の園長、神谷武宏さんの指さす先には、金属製のトタンにくっきりと残るへこみがあった。2017年12月7日、保育園の屋根に、米軍機ヘリのものと見られる部品が落下したのだ。落下物はCH53Eヘリのブレード(翼)の根本にある、ストロンチウム90のカバー(※2)。重さ213グラムと小さな部品だが、へこんだトタンは大人が載ってもびくともしない厚手のものだ。

ちょうどトタンの下は玄関で、子どもたちが靴を履いて外に出ようとしているところだった。「ドーン!」という鈍い衝突音に、園児も先生たちも悲鳴を上げた。あと50cmずれていたら、園庭を直撃していたという。

2日後、米軍はその落下物を米軍機の部品だと認めたが、部品の数は揃っているとし落下は否定した。しかし緑ヶ丘保育園の事故からわずか6日後の12月13日、今度は保育園から1キロほどしか離れていない普天間第二小学校の校庭に、CH53E大型輸送ヘリの“窓”が落下したのだ。約90センチ四方の金属製の窓枠を含め、その重さは7.7キログラム。幸い大きな事故には至らなかったが、いつ何時、「何が空から落ちてくるかわからない」という恐怖は拭えない。実際に、事故以来外に出るのが怖くなった、学校に行くのが嫌になったという心理的な影響も出ているという。

緑ヶ丘保育園では、事故の3日後に緊急父母会を行い、嘆願書を全会一致で決議し、以下の要望を求めている。

 

・事故の原因究明および再発防止
・原因究明までの飛行禁止
・普天間基地に離発着する米軍ヘリの保育園上空の飛行禁止

 

本嘆願書は沖縄防衛局へ「米軍へ伝えるように」と提出したものだ。県知事、県議会議長、宜野湾市長、市議会議長、外務省沖縄事務所大使、米国領事館などを経て、東京政府要請にて、内閣官房、外務省、防衛相、警察庁などの大臣・庁長へと渡った。しかしその後警察による事故調査は行われたものの、2年経った今も、米軍機は保育園上空を飛び交っており、今月5月8日には、同型ヘリの編隊が保育園上空を通過、変わらず轟音を響かせている。

 

「保育園の上空は米軍の飛行ルートではないのに、あたかもそうであるかのごとく飛んでいる。なにも“普天間基地の閉鎖”とか“撤去”を訴えているわけではありません。保育園上空を飛行しないで欲しいと要望しているだけなのです。“なんでおそらからおちてくるの?”と、子どもたちに聞かれます。私たち大人はそれにきちんと答えることができるのでしょうか?空から落ちてくるのは“雨だけ”という、あたりまえの状況で子どもたちに過ごして欲しいのです」と、神谷さんは言う。事故当時の園児たちが卒園したからといって、問題が終わるわけではない。2018年4月には、卒園した子どもたちの保護者や現役の保護者、園関係者らによって「チーム緑ヶ丘1207」という団体を結成。現在も活動を続けている。

「落下物が自分の子どもにあたったらと思うと身震いする」という親の気持ちは、政治的に大きく取り上げられることはなく、再発防止に向けた大きな動きは起こっていないのが現状だ。しかし、現在世界的に猛威を振るうCOVID-19や、原発事故による放射線など、日常に潜む見えない恐怖や不安は、どれほどのストレスを人々に及ぼすのだろう。

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落下物が直撃したのは園庭まであと50cmというところだった。「私たちにとって“危険性除去”というのは、今日のことであり明日のこと」だと話す神谷さん。
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未来への警鐘として語り継ぐ

こうした米軍機関連の落下事故は、今にはじまったことではない。2004年、沖縄国際大学に米軍ヘリ(CH53D)が墜落した事故は、記憶に残っている方も多いと思う。2019年、沖縄県内での米軍機関連の事故は24件と、前年2018年の48件と比べると半分程度だが、平均して月に2回程度発生している。「死者が出ていないからいいじゃないか」という心無い発言も耳にするが、これらの事故を“大惨事への警鐘”と見て、丁寧に対応していく必要があるのではないだろうか。

今から61年前の1959年6月30日、沖縄ではその“大惨事”が実際に起きている。米軍ジェット戦闘機が、沖縄県石川市(現うるま市)の住宅地に墜落。跳ね上がった機体が宮森小学校に直撃し、死者18名(1名は後遺症により死亡)、重軽傷者210名を数える大惨事となった。この事故を検証し、未来に語り継ぐためのNPO法人「石川・宮森630会」の事務局長、伊波洋正さんは当時小学1年生だった。

「突然、西側の方からドン!という大きな音がしました」と、伊波さんは当時を振り返る。墜落現場は1年生の教室のあった校舎から離れており、さいわい伊波さんに怪我はなかった。事故は午前10時半過ぎ、「ミルク給食」の途中に起きた。「ギャー!!」という悲鳴と共に、生徒たちが中庭に駆け出て来る。何が起きたのかわからない伊波さんの教室に、担任の先生が飛び込んできてこう叫んだ。「学校に飛行機が落ちました!みなさんは早くおうちに帰りなさい!」。

「そう言われ、隣の席の友人と帰宅することにしました。正門を出たあたりで、真っ青な表情の女性が手押し車を押しながらやってきました。戸板に車輪をつけただけの、簡易的なものです。その板のうえに、2、3年生ぐらいの、真っ裸の男の子が横たわっていました。うつぶせに寝ているのに、顔はこちらを向いている。黒焦げになっていたわけではありませんが、あきらかに肌が火や熱風で変色していました。おそらく病院へと連れていく途中だったのでしょう」。

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事故後に米軍が記録していた被害者の写真。未だ非公開となっている資料も存在する。
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伊波さんの覚えている事故の記憶はこれだけだという。事故現場には直ちに米軍が駆け付け、当時の様子を撮影していた新聞記者のフィルムも没収された。伊波さんもその後事故現場を自分の目で見た記憶はない。

「もちろん、新聞などでは大々的に報道されていました。けれど、その後周囲でこの事故のことが話題になることはありませんでした。今思うと、あまりに悲惨な事故だったので、遺族に対して気がひけるという思いもあったのかもしれません」。

米軍は当初この事故を「エンジントラブル」が原因と発表。パイロットが機体を捨て脱出する以外に選択肢のない不可抗力だったと説明した。しかし事故から40年後、琉球朝日放送が米軍から入手した資料により、整備不良が原因の人的ミス(※3)であったことが判明した。

 

「真相を知って、とても許せないと思った。宮森の事故は、関係者からしたら、できれば思い出したくもない悲惨な事故。しかし、沖縄の未来のことを考えたら、語り継いでいく必要がある」と、伊波さんは強い口調で語った。

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「石川・宮森630会」の事務局長、伊波洋正さん。今の沖縄に対する危機感が活動の原動力だという。
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目に見えない痛み

米国の国立公文書館には「Ishikawa Disaster(石川大事故)」と名付けられた文書が残っており、その資料を日本語に訳したものが、「石川・宮森630会」により出版されている(※4)。事故機の飛行記録や被害者の治療方針、そして遺族に対する賠償についての細かなやり取りなどが記されているが、その中に気になる文書を見つけた。その文書には、「精神的被害者の賠償請願書」といった見出しがついている。

C子さんという、宮森小学校に通っていた当時11歳の少女は、この墜落事故以降、精神的に不安定となり様々な症状に悩まされるようになった。しかし米軍当局により賠償は拒否されてしまう。再度賠償を検討するようにと、翌々年の1961年3月に送られたのがこの請願書だ。こちらの文書には、「C子さんの神経症は、明らかに墜落事故により引き起こされたものである」という琉球精神病院の医師による診断書や、「かすかな音にも怖がるようになった」という、当時の宮森小学校校長の証明書が添付されていた。しかし事故と症状の因果関係が認められることはなく、米空軍司令部外国賠償委員会は、この賠償請求を否決することになる。

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当時の文書が詳細に残されている。過去から教訓を学ぶためにも、いかに公文書というものが大切かがわかる。
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これは、当時アメリカの占領下にあった沖縄の置かれている脆弱な立場を示すだけではなく、PTSD(Post Traumatic Stress Disorder/外傷後ストレス障害)というものが、こういった惨事の際に起こり得るという社会的な理解が及んでいなかったことも示している。実は、PTSDという診断名が精神医学の分野で公式に採用されたのは1980年のことである。ヴァン・デア・コルク氏らの著作、『トラウマティック・ストレス』によると、PTSDという症状が認められるに至る原動力となったのは、悪夢やフラッシュバック、不安やイライラといった様々な症状に苛まれるベトナム帰還兵の存在と、それまで社会的に無視されてきた、女性や子どもたちの虐待、性暴力被害に関わる人たちによる運動だった。

しかし当時のPTSD診断は、

 

(1)その人物が、実際に死や、死の恐れのある出来事、重症を負うような出来事を(一度、もしくは数度)経験、目撃したり、直面した場合。または自分や他人の身体の保全に迫る危険を経験、目撃、直面した場合。

(2)その人物の反応が強い恐怖や無力感、戦慄を含んでいる場合(子どもの場合、無秩序な、もしくは興奮した行動が見られる場合もある)。

 

…というふたつの基準(※5)に合致しなければいけなかった。かつ、PTSDと認定されるものには、「症状の発現がストレス因子から少なくとも6ヵ月以内の場合」という、明確な期限まで設けられていた。

この「6ヵ月という期限」に関しては、医学的見地に基づいたものというよりも政治的な判断によるものではないかと、精神科医の蟻塚亮二さんは言う。「今でも米国では2500万人もの退役軍人に補償金を支払っている。こうした区切りを設けなければ、第二次世界大戦帰還兵のPTSDも補償対象としなければいけなくなってしまうのです」。

 

矮小化される心の痛み

蟻塚さんは、沖縄で精神医療に関わる中で、「晩発性トラウマ」というものの存在に気づくことになる。氏の著書、『沖縄戦と心の傷 トラウマ診療の現場から』(大月書店)より、その当時のことについて書かれた箇所を引用する。

2010年12月。私は沖縄の病院で高齢者の「奇妙な不眠」に立て続けに出会った。あえて「奇妙な不眠」と思ったのは、うつ病の中途覚醒を呈しながら必ずしもうつ病のサインが認められなかったからだ。後で考えると、それはトラウマによる過覚醒型不眠だった。

この「奇妙な不眠」は、そのころ同時並行で読んでいた、アウシュビッツからの生還者の精神症状に関する論文の記述と告示していた。そこで私は「奇妙な不眠」の患者さんに、「沖縄戦のときはどこにおられましたか」と聞いた。すると、彼らが子どものころに戦場を逃げ歩いた体験者であることが分かった

沖縄での戦時体験から60年以上経過してから発症したこの症状を、蟻塚さんは「沖縄戦による晩発性PTSD」(※6)と名付けた。しかし、戦争被害における精神的な影響は、世界的に見てもまだまだ解明されていないと蟻塚さんは言う。

また、こうした体験による影響は、世代間伝達をする可能性があることも、蟻塚さんは指摘する。戦争による悲惨な経験により、子どもとの愛着関係をきちんと築けなかった場合、それがまた次世代、次々世代の子育てに影響する、という事例が沖縄で確認されている。

 

こうした長期にわたるPTSDの影響というものは、近年になりやっと注目されてきたものだ。つまり、人類がこれまで行ってきた戦争行為、体験してきた事故や災害、犯罪被害などというものが社会や個人に与える影響は、過小に評価されてきた可能性がある。ときに、そういった被害の実態は、政治的な「補償」という観点から矮小化さえされてきた。

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「親子間のトラウマや貧困は世代を超えて伝達される」と話す蟻塚さん。
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沖縄で繰り返される米軍機関連の事故に対し、「それで何人死んだんだ」という発言をした議員がいた。しかしそれは、その事故そのものが与える影響はもとより、それが軽視され改善されないことにより起こる未来の大惨事に対し、あまりにも無自覚な発言だったのではないだろうか。

 

「石川・宮森630会」の伊波さんは言う。「沖縄で起きている問題は、沖縄だけの問題ではないのです。原発もそうですが、今の社会というものは、都合の悪いものはみな辺境に押しやってしまう。それにより無関心が蔓延っていく。本土の人間にも真剣に考えて欲しい」。

緑ヶ丘保育園の神谷さんは、「大人がきちんと不条理に対してNOということ。子どもたちは大人の背中を見て育ちます。私たちが口を閉ざしたら、不条理な出来事があったときも“話題にしてはいけないことなんだ”と子どもたちに思わせてしまいかねません」と語る。

物事の結果だけを見るのではなく、それが原因となり、未来にどのような影響を及ぼすかを考え、自覚し、行動する。それが今を生きる世代の担っている、次世代への責任ではないだろうか。

 

加害者としての後ろめたさ

最後に、こうして度々沖縄を訪問させて頂いているが、いつもどこかで後ろめたい気持ちを感じていた。それは、自分自身が「加害者」なのではないかという思いに起因する。「うちなーんちゅ(沖縄の人)」と「やまとんちゅ(本土の人)」。そんな言葉を耳にするたびに、何も知らない自分を恥じた。沖縄に住む人々に対する、支配体制側の自分の生活。

たとえ直接的に加害に加わっている自覚がなくとも、自分の生活というものは、確かに沖縄の犠牲のうえに成り立っているという事実は変わらない。もちろん、これは本土と沖縄だけの問題ではなく、世界のあらゆるところに成立する不均衡の表れだろう。しかし「知った以上」、そこに無関心ではいられない。綺麗な海、澄んだ空、おいしい琉球料理と、温かい人々。それを無条件に享受するだけではなく、自分の命が運ばれてきた歴史を自覚し、少しでも次世代に、そういった後ろめたさを持たずに生きれるような社会を残していきたい。「知らないこと」と、「知ろうとしないこと」は、結果的に誰かの痛みを無視するという意味では同じことかもしれない。

 

欠点を乗り越えていくための第一歩は“自覚すること”。

「知ること」はときに痛みを伴うが、その痛みは、より良く生きていきたいと思う気持ちの原動力とすることもできるはずだ。伊波さんが言うように、「沖縄の問題」は、「沖縄だけの問題」ではない。過去から無自覚に蓄積されてきた人類社会そのもののトラウマと、少しずつでも向き合っていく勇気を、沖縄で出会った人々から頂いて来たように思う。僕の大好きな泡盛とヒージャー汁を、ともに囲んでくれる友人たちに感謝して。

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沖縄三大名花とも呼ばれるサンダンカが雨の中静かに花弁を広げていた。
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(2020.5.27/写真 佐藤慧・安田菜津紀 文 佐藤慧)

 

※1 基地周辺の夜間の騒音
1996年、「嘉手納飛行場及び普天間飛行場における航空機騒音規制措置」が日米合同委員会において合意されているにも関わらず、沖縄県資料によると、2018年度(平成30年度)、普天間飛行場周辺での夜間・早朝時(22 時~6時)騒音発生回数は、上大謝名及び新城で31.3 回/月。嘉手納局では81.1 回/月にも上る。
(参考リンク)
【資料】平成 30 年度 航空機騒音測定結果概要 (嘉手納飛行場・普天間飛行場)
【資料】嘉手納飛行場及び普天間飛行場における航空機騒音規制措置

※2 ストロンチウム90のカバー
ヘリのブレードの故障を知らせるために取り付けられているIBIS (In-Flight Blade Inspection System)のカバー。長さ10cm 直径8cm 厚さ8mm 重さ213g。本来は離陸前に取り外すよう義務付けられている。

※3 人的ミス
米軍事故調査委員会によると、①整備不良、②整備管理者の責任、③離陸時のパイロットの技術責任、④飛行前の点検を怠った整備担当者の責任、が事故の原因であると分析されている。

※4 日本語訳資料
『資料集 石川・宮森の惨劇 米国公文書館文書に見るジェット機墜落事件』(NPO法人 石川・宮森630会)

※5 PTSD診断のふたつの基準
DSM-IV-TRによるPTSD診断のA項目原文は下記。
(1) The person experienced, witnessed, or was confronted with an event or events that involved actual or threatened death or serious injury, or a threat to the physical integrity of self or others.
(2) The person’s response involved intense fear, helplessness, or horror. Note: In children, this may be expressed instead by disorganized or agitated behavior.

※6 晩発性PTSD
蟻塚さんは他にも、福島で震災2年後に発症した症状を「遅発性PTSD」と名付けたが、そもそもPTSDの診断基準を「6ヵ月以内の発症」と決めたのは補償に関わる政治的な判断に過ぎず、いつ発症しようとも、それはPTSDに違いないのだと思うようになったという。