津波で助かった命、何度も投げ出そうとした 石巻、ある女性の10年【東日本大震災】

「何かしなくては」という思いと、自信が持てない自分との狭間で悩み続けた日々。兼子佳恵さんが走り続けた10年間のこと。
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兼子佳恵さん
Jun Tsuboike / HuffPost Japan

宮城県石巻市の兼子佳恵さんは、津波から助かった命を、あれから何度も自ら投げ出そうとした。「何かしなくては」という思いと、自信が持てない自分との狭間で悩み続けた日々。心をすり減らした10年が経ち、ようやく、肩の力が抜けた。今、新たな目標に向かって、今度はゆっくりと歩き出そうとしている。

兼子さんは、子育てに悩んだ経験から、子どもや環境教育に関する団体を地域で設立し、東日本大震災まで12年間活動していた。
 
あの日。津波で兼子さんの自宅には、水とともにヘドロや様々な物が押し寄せてきた。夫・長男と2階に逃げて一命を取りとめた。連絡が一晩取れなかった次男も、翌日、腰まで水に浸かりながら、家に帰ってきた。
 
それから3日間は、家族4人全員、自宅2階にとどまって過ごした。ラジオだけは聴けていたが、石巻の情報はほとんどなかった。水が引き、ようやく外に出られて初めて、中心部が壊滅状態になっていたことを知る。そして、自分や子どもの友達、多くの仲間が亡くなったことも分かった。

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兼子さんが代表を務める「石巻復興支援ネットワーク(やっぺす)」
Jun Tsuboike / HuffPost Japan

 「生かされたんだから、何かをしなくてはいけない」

兼子さんは、内陸部の農家に行き、まず携帯電話を充電させてもらった。
 
連絡を取ったのは、過去の活動で知り合った、災害支援の専門家。すぐに東北入りすると聞いた。12年間の活動で、現地に女性たちのネットワークを築いていた兼子さんは、その専門家と共にNPO法人「石巻復興支援ネットワーク(やっぺす)」を設立し、地元の様々な支援事業を始めることになる。
 
最初に兼子さんが担ったのは、外から来た支援者や企業と、現地で困っている被災者をつなぐ役割。それから仮設住宅を訪問して、催しやサロンを開く、コミュニティ支援活動も行った。
 
突然、兼子さんの声が出なくなったのは、震災から半年が経った頃だった。話そうとしても喉の奥からは何の言葉も出てこない。驚き、泣いても、嗚咽する音さえも発することができなかった。
 
「生かされたからには、自分は何かをしなくてはならない。でも、何も進まない。自分より立派だった仲間たちが亡くなったからだ。自分が死んだほうがよかったのではないか…」
 
その頃は、そんな考えがグルグルと頭の中を駆け巡るようになっていた。

疲れていた。そして、支援活動のために被災地を訪れたはずの企業やNPO、大学関係者らに、信じられないような差別を受けることもあったのだという。それが、兼子さんから「自信」を削り取っていたのだ。

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Jun Tsuboike / HuffPost Japan

「『おばちゃんたちの団体と一緒にやったって仕方ない』『これをやっておけばいいんだよ』『黙ってろ』って、そんな風に言われたこともあったんですよ。『しょせん、主婦のグループに、何ができるのか?』と思われていたんですね。地元の男性たちと何人かで一緒に応対して、私だけ名刺をもらえなかったこともありました。そこまでひどいことは言われなくても、悪気はなくても二言目に『どこの大学を出ているんですか?』って聞かれることも多かった。その話で場が盛り上がり始めると、私はそっとフェードアウトしていくしかない。私は高卒で、元々コンプレックスがあった。そういうことが、どんどん、しんどくなっていきました」
 
ちなみに、兼子さんは1971年生まれ。地元の同世代の女性たちの最終学歴が高校というのは、ごく一般的だ。
 
「主婦だって、できるんだぞ」

悔しさと情けなさで、声が出なかろうと、何かをせずにはいられなかった。でも不安で不安で仕方がなかった。筆談も使いながら、支援活動に全力を傾け続けた。
 
「どうして、そこまでやらなければいけないのか?」

兼子さんに、夫はそう聞いた。

カウンセリングに通い、治療を受け声は取り戻した。自分も被災者なのに、ボロボロになって支援活動に打ち込む状態を、見ていられなかったのだろう。それは「優しさ」だった。だが、それがまた兼子さんにとっての苦痛となり、夫婦の距離も一時は離れることになる。
 
もちろん、本当に真摯に被災地のために活動する人々もいた。「やっぺす」はそうした企業や専門家らに支えられて、活動領域をどんどん広げていった。

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「やっぺす」では「ママ子ども食堂」など、子育て中の女性をサポートする事業も行われている。
Jun Tsuboike / HuffPost Japan

復興支援と女性・子どもの支援を柱とする「やっぺす」の理念は、「被災した人を被害者にしない」。自分自身が自信を持って立ち上がるための力をつけるということだ。

仮設住宅の支援で始めた手芸サロンは、外で働けない子育て中の母親たちが内職で収入を得られる事業になった。もっと働けるようになった人のために、今度は起業支援や、託児付きの就職に向けたスクール、コワーキングスペースの運営、子育て支援のための「ママ子ども食堂」…どんどん事業は増えていった。

費用は、自治体などからの委託業務として請け負ったり、復興支援を手がける企業などの協賛も得て行われた。

「自分たちは可哀想で、助けを求めるだけの人ではない。自分で力をつけてまた頑張れるようになりたいっていうこと。私は20歳で結婚して、21歳で出産して、家のこと以外何もしたことがなかったんです。色々やっているように見えますが、全部、かつて育児ノイローゼになった自分が、こういう支援が欲しかったなということをやっているだけ」
 
兼子さん自身も、活動と並行して、猛勉強を始めていた。楽しい主婦サークルから始まった団体は、もう人を雇用するNPO法人になっていたからだ。法律、経理、財務、マネジメント…知らなかったことばかりだ。

通信教育を受けたり、仙台市までビジネススクールに通ったこともあった。東京から来た支援者が、知らない「カタカナ語」を使うたび、そっとメモして、あとで電子辞書を引きその意味を調べた。

夜も事務所で作業を続け、机で寝て、仮設の自宅に帰るのはお風呂に入るときだけ…そんな生活を続けていた。
 
努力の甲斐あって震災から5年が経つと、やっぺすの活動は軌道に乗ってきた。講座を受けて就職や起業に成功し「一歩踏み出せた」という地域の女性たちも増えてきた。

すると「名刺ももらえなかった」頃と、周囲の態度が変わっていく。「一緒に何かしたいです!」突然、そんな問い合わせを受けることが増えていった。大企業からの依頼も舞い込んでいる。
 
しかし、多くの称賛を受けるようになってくると、逆に、兼子さんが元々抱えていた自分への自信のなさが、また顔を出すようになっていた。
 
「自分は代表だけれど、本当に頑張っているのはスタッフ。自分は何もすごくない」
 
実際には、もちろん代表としての仕事を全うしていた。しかし、それまで抑え付けられてきた自分の心は、どうしてもそれを受け止めきれなかったのだ。
 
ついにある日、兼子さんは自殺未遂をして救急車で病院に運ばれることになる。だが、いよいよ覚悟は決まった。
 
「『私は、また生かされたんだ』と思いました。今度こそ、私は自分とちゃんと向き合おう。逃げないと決めて、やろうと」

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Jun Tsuboike / HuffPost Japan

その一方で、今度は身体に不調が起こる。まず分かったのは自分の「線維筋痛症」。病気を心配した家族ともよく話し合い、離れていた距離も縮まっていた。自宅もようやく再建が叶った。

しかし、わずか1年後に夫が突然倒れて亡くなり、直後に今度は自分に乳がんも見つかった。けれども、家族や自分の身体の異変が続いたことで、逆にようやく肩の力が抜けていったのだという。
 
「もっと頑張らないと、もっとやらないと、というよりは、必要なものを必要なときに必要な人がやればいいんだ、と思えるようになった。そうなると、だんだんといい感じになっていったんです。変ですけれど、そうなりました」

 数年前から、やっぺすでは、女性の就職や子育て支援以外にも、心の回復のために、コーチングやメンタルヘルスのスペシャリストを育成する事業も手掛けている。それも、兼子さんの経験からだ。

「震災から、私のように走ってきた人たちってたくさんいたと思うんです。子育てや、介護に追われ、つらいと言えなかった人達がたくさん。そういう人達が今、声に出せる場が普通の中にあったらいいなと。それが当たり前になってほしいんです。私も『しんどい』とずっと言えなかったから。しんどいと言ってもいいし、休んでもいいし、そういう人達がまた頑張ろうと思ったときに頑張れる場所をつくっていきたいなというのが、これからです」

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Jun Tsuboike / HuffPost Japan

2020年以降は新型コロナウイルスによって、制限された活動もある。企業から委託されていた復興コーディネートなどの事業が休止となり、収益面では大きな打撃を受けた。一方で、新たに始めた事業もある。それが、生活困窮者に対する食糧支援や、DV被害者の女性のための民間シェルターなどだ。
 
2021年12月で「やっぺす」は設立10年を迎える。兼子さんはその節目で代表を降りることに決めている。病気のことに加えて、兼子さん自身に新たな夢ができたからだ。

その夢とは、女性専門の保護司。犯罪や非行に走った人を支える仕事だ。
 
育児ノイローゼになった自分、震災後にギリギリの精神状態で暮らしてきた自分、道を踏み外さなかったのは紙一重だったなと感じているからだ。
 
「どこで間違えちゃったかわからないけれど、女性たちがまた社会復帰できるように伴走できたらいいなって。残りの人生、いつまで生きられるかはわからないけれど、やってみたいなと思いました。自分たちがやってきたことは、特別なことじゃなくて、やるかやらないかだけ。私みたいな高卒のおばちゃんにでも、誰にでもできるんだよ、これからは、それを伝えていきたいと思っているんです」