野心と才能がひしめく「るつぼ」。松尾豊・東大教授の研究室は、なぜスタートアップを次々に生み出せるのか

【政策起業ケーススタディ第7回】東京大の松尾豊教授が、「AIのエコシステムを大学研究室から」をテーマに語りました。
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松尾豊・東京大教授
本人提供

社会課題解決のため、政策を「起業」する時代が到来しています。官僚や政治家だけでは解決できない複雑な政策課題に向き合い、課題の政策アジェンダ化に尽力し、その政策の実装に影響を与える個人のことを「政策起業家」と呼びます。

しかし、日本の「政策起業家」の層はまだ厚いとは言えず、ノウハウも可視化・蓄積されていません。そのような課題に取り組むため、独立系シンクタンクである一般財団法人アジア・パシフィック・イニシアティブは、政策起業に関するノウハウの可視化・蓄積を目指し、「政策起業の当事者によるケーススタディ」を行う新しい試み「PEPゼミ」を開始しました。

第7回のテーマは、「AIのエコシステムを大学研究室から」。未来の社会を牽引する技術として注目を集めるAIやディープラーニング。日本のAI研究の最前線を行く東京大学の「松尾研」からは、数々のスタートアップや研究者が生まれ、先進的な取り組みを打ち出してきました。

AI研究の成果を、一つの大学の研究室から社会全体にどう届け、実装していくのか。これまでの歩みとその舞台裏を松尾豊・東京大学大学院工学系研究科教授に聞きました。

2021年9月22日開催「PEPゼミ」より、その内容の一部をお届けします。

 

大学の講義から協会運営まで?「松尾研」とは

教授と学生からなる大学研究室に、株式会社が伴走しているちょっと変わった場が、東京大学にあります。

その名も「松尾研究室」。正式に配属された40人の学生以外にも、50人ほどの学生が外部から参加し、研究室としては巨大なコミュニティです。そんな成長を続ける松尾研究室を率いるのが、今回のPEPゼミに登壇された松尾豊教授。

まず、松尾研究室がどのような活動を行っているのかを見ていきましょう。

松尾研究室の活動は、基礎研究、講義、社会実装、インキュベーションの4つに分かれます。

一つ目の基礎研究では、初期に取り組んでいたウェブのデータ分析、長期にわたって取り組んでいるAI・ディープラーニング、そして近年注力している「世界モデル」など、様々な分野でフロントランナーとなっています。

その次の講義では、研究室での通常の講義はもちろん、企業とタイアップした寄付講座を活用して数多くの講義を行なっています。グローバル消費インテリジェンス寄付講座など、人気講座も多数。現在はオンライン講義になっていることもあり、1000~2000人の受講者が集まります。

基礎研究や講義のみに留まらず、国の予算に頼らず民間からの共同研究費・寄付金を基に、松尾研究室では自分たちの研究成果を用いて社会実装まで進めています。常に6~7のプロジェクトを運営しており、日本経済新聞社との連携では完全自動で決算の概要を出す機能を生み出すなど、実際に共同研究からプロダクトになるものもあります。

最後に紹介するのがインキュベーション。最初に上場したグノシーや、今回のゼミにゲストとして参加された上野山勝也さんが率いるPKSHA Technologyなど、様々なスタートアップが松尾研究室から誕生しています。スタートアップを生み出すことは研究室としてのテーマでもあり、松尾研究室では過去の起業のパターンを分析して『松尾研起業クエスト』という形で、共同研究で得た知識を基に起業する流れを段階別にモデル化しています。

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松尾研の起業クエスト
松尾教授提供

基礎研究・講義から社会実装・インキュベーションまで、幅広く行う松尾研究室。ただし、もちろん松尾教授個人で全てを行っているわけではありません。研究室という組織を超え、必要性を感じれば柔軟に新たな組織を作って活動を展開していくという点に、松尾研究室の真骨頂があります。

2020年には、大学研究室だけの存在から、産学連携・技術の社会実装を担う組織として経営共創基盤(以下IGPI)の川上登福さんが代表取締役CEOを務める形で松尾研究所を設立。松尾研究室・研究所を通して、基礎研究からスタートアップまでを一貫して進めています。

また、松尾研究所設立に先立つ2017年には、ディープラーニング人材の育成を目的に日本ディープラーニング協会を設立。資格試験の実施や学習コンテンツ「AI for Everyone」の日本語版作成、デジタル時代に必要とされる人材の再定義や高専生向けの大会運営など、ディープラーニング人材の育成に向け様々な活動を展開しています。

 

国の補助金に依存しない

今日、巨大組織としてあらゆる先進的な取り組みを進めている松尾研究室。国や大学からではなく企業からの出資で研究を行っていますが、当初からこのような姿が予想されていたわけではなく、紆余曲折の過程がそこにはありました。

最初の原体験となったのは、3年間のスタンフォード大学での在外研究。そこで見たのは、研究から社会応用への循環が出来上がっているエコシステムでした。

「こうした環境を日本でも実現したい」という思いを抱え、帰国しました。ただこの時はまだ、他の研究室と同じように国や大学からの資金を年間4000〜5000万円獲得して研究を行っていました。

転機となったのは2009年。とある公募に対し時間をかけて挑んだにもかかわらず、年配の研究者に負けたことが大きなきっかけでした。

「私の分野は基本若い人の方が新しい技術を分かっている」と語る松尾教授。

以前から松尾教授は、新しい技術に挑戦する若手に比べ、すでに実績が証明されている既存分野の研究者がより多く研究費を獲得する状況に違和感を覚えていました。3年後の2012年、国の補助金への依存を止める決断をします。

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研究室の取り組みを紹介する松尾教授
PEP

しかし、日本の研究者で国の資金に頼らずに研究を行うのはかなりリスクの高い決断でした。企業との共同研究などへと資金源をシフトした松尾研究室の予算は、国から研究費を受け取っていた時の5000万円から、企業との共同研究で得た200万円に激減することになります。

そんな時に出会ったのが、現在松尾研究室で代表取締役CEOを務めるIGPIの川上さんでした。IGPIで講演を行った後、川上さんから連絡がありました。

「企業との研究がしたいという要望を理解したうえで、大きな額の共同研究案件をつないでくれたのです」

当初こそ「なぜ自分にこんな大きな額が」と疑問を感じていましたが、後に企業の事業上のニーズを捉えた提案をすることで価値を認められる、ということを実感し始めます。自分がやりたい内容を伝えるだけではなく、企業の課題意識を解いていくという意識を身に着けることで、徐々に他の企業からも大きな金額での研究の声がかかるようになっていったのです。

「やってる中で分かったのは、研究者は自分でやりたいことをやっているだけで、相手の問題を解いていないということです。相手が困っていることをきちんと聞いて、分解して、『ここは技術的に解けて、事業上プラスになっていくんですよ』ということまで理解してもらえるよう努力する必要がある」

松尾教授は研究において、自分が持っているアカデミックな関心と、それを利益のために活用したい企業の関心とでは大きな違いがあると指摘します。

「自分の研究をどのように使えば、企業の問題を解決したり利益向上につなげたりできるのか。その点を説明することで、自分の研究の価値に対する理解が高まっていきました」

松尾教授は、企業との連携が自らの研究に与えた影響をこのように振り返ります。それは研究者自身にとっても、開発後の活用先やバリューが分かったうえで研究でき、安心して専念できることでもありました。

 

「すべては手段に過ぎない」

「大学の研究室はこうだよね、という概念があまりない」

研究室の発展に長く伴走してきた、「松尾研究所」のトップも務めるIGPIの川上さんは、既存概念にとらわれない松尾教授の姿勢をこう評しました。

講義、協会、研究所、そしてプロジェクトと幅広い活動が行われる松尾研究室のエコシステムは、どのような方針で拡大しているのでしょうか。

「目的が先にあるんですね。何かを達成したいという意識から発想する。VC(ベンチャー・キャピタル)や会社、研究室という組織ですらその手段に過ぎない」

近年設立されたVC『Deep30』は、AIの優れた技術を持つスタートアップの成長を支援するだけでなく、その収益を研究に還流させることを目指している。その背景には、基礎研究に資金が循環し、そこからさらに新たな研究と起業の種が生まれるようにしたいという思想があったと、川上さんは言います。

日本ディープラーニング協会も、最初は協会を創設しようという話から始まったわけではありませんでした。まずあったのは、AIに対する政策姿勢への問題意識。世の中でAIがキーワードとして連発され広く捉えられるあまり、AI技術を牽引するディープラーニング技術への注目がなかなか高まらない。

政府や企業で、AI人材の育成に投資されるようにするにはどうすればいいかを考えた末の案が、資格制度の創設でした。資格ができれば、取得人数などがKPIとして設定され、AI人材に投資されるようになる。その資格制度の運営のために協会を設立する、という経緯が背後にあったといいます。

追求するべき目的があるからこそ、他に例を見ない手段だとしても採用して実現していく。そうした、松尾教授独自のエコシステムの作り方が見えてきます。

 

「とりあえず、すごいことをやってください」

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上野山勝也さんは学生の目線からみた「松尾研」を語った
PEP

「12年前に松尾研を“創業”した時、まだ(松尾教授が)全くの無名だったころに思っていたのは、『みんな、何か怪しげなものを作っている』でした」

創業期に博士課程学生として松尾研究室に所属していた、PKSHA Technology代表取締役の上野山さんは、当時の研究室についてこのように振り返ります。

「例えば研究室に行くと、3階の部屋で学生サービスを起業して寝泊まりして帰らないとか。創業したばかりのメンバーが、このサービスはお金になるのかならないのかみたいな話をしている。研究室の外に出た雑居ビルには、松尾先生が構想したサービスをもとに数十人入るオフィスがあって、既に会社がモノを作っている」

学生の野心と才能がひしめき合うカオス、松尾研究室。それを動かしているものは何か。まず、松尾教授の知的探求心と旧来型日本的システムに対する反骨精神があると上野山さんは語ります。

「データとか機械学習とかの知能化技術って、すっごいポテンシャルがあるのにびっくりするくらいみんな興味ないよねということを、松尾先生は当時から言っていました。12年前は確かにこれらの技術は明らかに過小評価されていたと思います。そして『この技術を応用してWeb上に刻印された社会活動を分析することで、間接的に社会が観察出来るよね、社会科学の全領域の論文の書き方、研究の仕方が変わるよね』とドラスティックなことも言われていていたのも印象的です」

そしてもう一つは、松尾教授の根底にある、若い学生の可能性への揺るがない信頼でした。

「『なんでもいい、論文でなくてもいいから、とりあえずすごいことをやってください。すごいことをやっていれば、研究室に来なくてもわかるから』という松尾先生の言葉をよく覚えています。初期や拡大期は何か制約を課すとか、ビジョンを研究室で掲げることすら若い研究者に失礼だと言っていたんです。若い人であっても才能があり天才がいるということを信じている、という信念が根底にあると思いました」

熱意と才能があれば誰でもウェルカム。その方針をもとに集まった若い学生たちが、松尾研究室というるつぼで共鳴しあい、イノベーションが生まれていったのです。


「松尾メソッド」は再現性があるのか?

「松尾さんって、禅問答をよくなさるんですよね。多様な方々と対話しながら、松尾先生ご自身が一流のソーシャル・センサーとして機能されていると思う」

東京大学に松尾研究室主催の寄付講座を設置するために共闘した経済産業省の須賀千鶴さんは、松尾教授との出会いを振り返りながらそう語りました。

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IGPI の川上登福さん(左)と経済産業省の須賀千鶴さん
PEP

「松尾先生のまわりに成立している、バランス感覚のとれたエコシステムを作るコツとしては、学生や官僚、経営者、起業家などの幅広いステークホルダーとフラットに、好奇心とリスペクトを持って話すことができるという才能があると思います。そして官僚が松尾先生を好きなのは、公共心が強いからです。視野が広く、つい自分の損得より全体最適を考えてしまう。これらを全て兼ね備えた人は少ないと思います」

AI技術を普及させる、基礎研究と研究を社会への実装へとつなぐ。そのための方策はどうすべきか。そういった禅問答を様々なステークホルダーと行い、巻き込んでいく。松尾研メソッドは、政策起業のメソッドでもありました。

ゼミでのディスカッションでは、こういった松尾研メソッドを渇望している若い研究者は多い、との声も上がりました。

上野山さんは「大学のトップ研究者が悩んだ末に、民間に行くというケースが減ると思う」と指摘します。

「大学に残って産業や社会と隣接する位置で共同研究しながら、自分の好きな研究も存分にやる。その二つが制約ではなくむしろ、相乗効果になるという可能性を示したと思います。研究者として、こうした『松尾研的なマインド』を知らずに企業に入って、自分の研究を拡張したいのにしづらいという人たちが実際にいるのではないでしょうか」

加えて、川上さんは「(松尾研のような研究室が生まれにくいのは)産業界との接点がないというのが大きいと思っています。しかし全体として起業する、拡大するという機運は高まっており、40代の先生にはそういった意識を持たれている方も増えているのではないかと思います」と話しました。

ゼミに参加した研究者からは、「研究資金が足りない」「共同研究を安定的に行うための学生が足りない」など、研究の世界から松尾メソッドに助けを求める声も寄せられる中、須賀さんは、松尾研究室の意義について以下のように指摘します。

「もともと大学には、企業がある特定の先生に賭けたいと思って指名で投資するという仕組みが十分に整っていませんでした。しかし、松尾先生にこそ投資したいという企業があまりに増えた結果、東大はそういったルートを作るしかなくなったのです。松尾研のエコシステムの再現は基本的にとても難しいと思いますが、とはいえ、今後松尾先生のような若き研究者が出てきたときに、企業からの健全な出資を受けやすいルートができているという点では、再現性の向上に貢献されていると思います」

学生不足の問題について、松尾教授は「やる気と能力があればウェルカム」というコンセプトのもと、

・学部学年問わず講義を開放し、そこから研究室へリクルートする
・履修上の制約を回避するために、そもそも単位が出ないよう講義を設定している

といいます。同時に、単位に頼らず真にやる気がある生徒をリクルートするためには、授業のコンテンツをきちんと整備し充実させる必要があります。そのための授業内容の点検や、研修旅行・共同研究への機会を提供するといった工夫も怠りません。

 

「これからが本番」

研究分野がもたらすインパクトを強く信じて、エコシステムを作りながら研究を前に推し進めてきた松尾教授。ゼミの最後に次のように語りました。

「本当に良い出会いのおかげで今があると感謝していますが、まだやらないといけないことはたくさんあります。これからが本番だと思っています。イノベーションを生み出すエコシステムを作っていきたいし、なんちゃってではなく、世界で戦えるものにしていきたい。AIの研究をしていますが、知能に対する大きなイノベーションを生み出したいです」

普段は穏やかな語り口ながら、時折、熱いチャレンジャーとしての内面を見せる松尾教授。

ゼミの最後、PEPの主催者であるAPIの船橋洋一理事長は以下のように語りました。

「松尾先生自身は起業家でスーパースターというよりも、後援者・起爆剤であって、むしろ学生の方々がマルチプレーヤーであり裾野や山脈を作ってエコシステムになっていく。しかも東大という最もレガシーなところを中から変えてしまった。これは破壊的ではなくもはや革命的じゃないかと思う」

東京大学の一研究室から、日本最大の研究エコシステムまで。

その成長と挑戦はこれからも続きます。