コロナ禍で国産「YS-11」量産初号機の一般公開に暗雲。クラファンで支援を募る

YS-11量産初号機を一般公開するための準備が進んでいる。しかし、新型コロナの影響でプロジェクトを進めてきた国立科学博物館の財政状況が悪化。支援を呼びかけている。
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戦後初の国産旅客機として知られる「YS-11」。その量産初号機を一般公開するための準備が、茨城県筑西市のザ・ヒロサワ・シティで進んでいる。

YS-11の中でも記念碑的価値が高く、日本機械学会の「機械遺産」などにも認定されている機体だが、羽田空港で約20年間、行方が決まらずにいた。

羽田空港にあった機体を分解して約100キロ離れた筑西市に運び、組み立て作業が行われているが、新型コロナウイルスの影響でプロジェクトを進めてきた国立科学博物館(科博)の財政状況が悪化。資金不足を補うため、A-portでクラウドファンディングを実施している

 

「日本の空港をつくり、守り続けてきた機体なんです」

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ザ・ヒロサワ・シティで公開準備が進む「YS-11」の量産初号機
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「初号機であると同時に、日本の空港をつくり、守り続けてきた機体なんです」

ザ・ヒロサワ・シティの組み立て作業現場で対談した科博の鈴木一義産業技術史資料情報センター長と羽田航空博物館プロジェクトの星加正紀理事は、こう言って頷きあった。

YS-11は、敗戦によって航空機開発を7年間禁止された日本が、1950年代から国を挙げて取り組んだプロペラ機だ。国内の主要な航空機メーカーが参加し、「零戦」の主任設計士・堀越二郎氏、「飛燕」の土井武夫氏らが設計に携わったことでも知られる。

「世の中はジェット時代に入っていたが、日本の空港の短い滑走路をなんとか離着陸できるようにと、あえてプロペラ機で作られた。日本の空港に非常にあった設計だったからこそ、40年近く日本の空を飛ぶことができた」(星加さん)

 

「アジアの国々で、最初の空港を小さい空港から作り始めるときにも需要があり、日本の飛行機がジェット機に代わっても長く活躍することができた。最初のころは問題も多く、『駄作』と言われたこともあったけど、最後には名機と呼ばれた」(鈴木さん)

試作2機を含む計182機が造られ、1964年の東京五輪では聖火の輸送に使われるなど、戦後復興の象徴的な存在となった。採算がとれなかったため、生産自体は1973年に終了したが、2006年9月まで国内の定期便を飛び続けた。

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YS-11のラストフライトに向かう搭乗客。「41年間ありがとう!」と横断幕が掲げられた=2006年9月30日、徳島空港。朝日新聞社撮影
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保存約20年、茨城で公開へ

科博が保管する機体は、1965年に旧運輸省航空局に納入された量産初号機。機体登録番号の「 JA8610」は、試作機を含めたYS-11全機中で最も若い。羽田空港をベースに、日本各地にある空港の航空管制通信施設などを点検する役割を担った。

YS-11の中でも記念碑的価値が高いとされ、日本機械学会の「機械遺産」、日本航空協会の「重要航空遺産」にそれぞれ認定されている。

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1965年3月30日、旧運輸省に引き渡されたYS-11の量産初号機=朝日新聞社所蔵
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1998年に引退した後は科博が引き取り、羽田空港内で動かせる状態を維持しながら保存してきた。

「どうやれば保管できるか、整備士の方に協力してもらってマニュアルをつくり、年4回整備をしていた。予算もないので、どこかが壊れていくと思っていたが、20年の間、少しオイルが漏れたぐらいだった」(鈴木さん)

当初は羽田空港周辺での展示も検討していたが、滑走路の拡張や保安上の理由などで難しくなり、活用方法を探っていた。

2019年になってザ・ヒロサワ・シティ側から協力の申し出があり、2020年3月に羽田空港から移送。翼やエンジンをいったん取り外し、100キロ離れた筑西市までトレーラーに積んで陸路で運んだ。現在、ザ・ヒロサワ・シティで再び組み立て作業が進んでいる。9月中旬には尾翼などが取り付けられ、往年の姿が蘇りつつある。

 

コロナ禍で科博の入館料収入が激減。資金不足に

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左翼エンジンのプロペラ取り付け作業=茨城県筑西市
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科博は今回の分解・組み立てに当たり、過去にYS-11の整備等に関わっていた航空会社の整備士OBらの有志による特別チームを編成した。

2021年春の一般公開を目指して作業を進めているが、ここにきて、プロジェクトは資金不足に直面している。新型コロナウイルスの影響で科博の入館料収入が激減したためだ。

機体の分解・組み立てには約8000万円が必要で、うち3000万円を目標にクラウドファンディングで支援を募ることにした。支援者には、組み立ての様子を記録した支援者限定映像の視聴権や、機内でのお名前保存、特製報告書などのリターン(返礼品)を用意している

「サンゴ礁の海の上を独特のエンジン音と共に降りてくる機影が今も鮮明に思い出されます」

「約50年前、生まれて初めて乗った飛行機がYS-11です」

「作業の様子を見ていて胸が熱くなりました」

プロジェクトには航空関係者やかつての利用者から、思い出にあふれたメッセージとともに次々と支援が寄せられている。10月7日現在、支援額は1300万円を超えた。

10月10日には、航空力学の権威である鈴木真二東京大学名誉教授を招き、日本の航空機産業におけるYS-11の意義について語るライブ配信イベントも計画している

「多くの方に見ていただくということは博物館として20年来の夢だった。子どもたちや若い技術者に見てもらい、先輩たちのものづくりの精神を受け継いでいってほしい」(科博・鈴木さん)

支援受付は11月6日まで。詳細はこちら

(朝日新聞社デジタル・イノベーション本部 伊勢剛)